ぼくらはしずかにきえていく(その4)
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部屋の扉が開き、男が女に先に行くよう促した。
それから女は、エレベーターのところまでゆっくり歩くと、「たえまなく――人の波に――」と、ずっと昔に憶えたあの歌を、けっして誰にも聞きとがめさせないとの強い決意とともに、歌うともなくつぶやいた。「まだつかめない――の意味を――」
扉の鍵を締めて男が、少しだけ急いで、こちらに歩いて来るのが分かった。
ピィン。と云う小さな音とともに、エレベーターが自身の到着を報せた。
「探してる――」扉が開き、急ぎ足の男が女よりも先に扉をくぐった。女は、歌い出した歌を途中で止めるかどうか、ほんの一瞬躊躇はしたものの、こちらの都合などお構いなしに閉まろうとするエレベーターに逆らうように、「君を――てく――」と、けっして誰にもききとがめさせないとの強い決意をもって、そっと、小さく、強く、つぶやいた。涙が流れた。男に気付かれてはいけない。隠しておいたハンカチで、そっと、その涙を拭いた。
「絵は取って来てやる」男が言った。「――それで我慢してくれ」――男なりの、最大限のやさしさであった。
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お昼どきのめまぐるしさも一段落して、店には三十代ぐらいの男性と、こちらも同じく三十代ぐらいの女性が、入り口横のテーブルに向かい合って座っていた。
そうして、デザートのケーキを半分ほど食べ終えたところで男性が、フロアの隅に立つ八千代の方を振り返り、彼女にコーヒーのお代わりを注文した。お相手の女性との間にあったある種の緊張関係――は、言い過ぎかな?――ちょっとした気まずい雰囲気は、だいぶやわらいでいるようであった。
「おふくろに言われたんだ」男性が言った。「『分かり合えないところから始めなさい』って」
「十年よ?」と、女性は訊いた。「――なんで待ってるって思えたの?」
きっと、彼女の言葉と表情の意味は男性には分からないであろうし、彼女自身も十分に分かっている訳ではないのだろう。《両手の鳴る音は知る。片手の鳴る音はいかに?》――きっと私たちは、片手の音に気を取られ過ぎて、両手の音を鳴らすことを、その鳴らし方すらも、忘れかけているのだろう。
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「ねえねえ、エマちゃん」と、小さな声で八千代が言った。
呼ばれた咲希は、皿洗いの手を止めて彼女の方を向くと、「なに?うれしそうな顔しちゃって」と訊いた。
訊かれた八千代は、カウンター越しにキッチンの方に身を乗り出すと、「あそこの二人」と咲希にだけ聞こえるような小さな声で「――どうやらヨリを戻すみたいよ」と、言った。
彼女のそのうれしそうな笑顔に、咲希は一瞬たじろいでしまったが、それこそが彼女の魅力――いや、多分、一種の超能力なのだろう。――と想うと、「そうなって欲しかったの?」と試しに彼女に訊いてみた。
そう問われて八千代は、こちらも一瞬たじろいでしまったが、それでも、言われてみれば彼女の言うとおりであったことにどうにかこうにか想い至ると、「もちろん」と答えた。「――そのほうがステキじゃない」……と。
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その後、この男女は――その昔「アジアの東の外れのすみっこにある島国の、そのまた東の外れの平野のすみっこにある某神経科学研究所の、そのまた東の外れの研究室のすみっこで、インターンとして働いていた」ある研究者と、その元恋人は――互いにケーキの味もよく分からないままに、自分たちのこれまでと、自分たちのこれからを想い付くままに話し合っていたが、それでも、まだまだ知らないこと、分からないこと、分かり合えないことの多さに驚愕とし愕然とし恐れ戦いていたが、しかしそれでも、二度と離れ離れになることだけは避けたい、避けるべきだ、と想ったのであろう。レジを済ますと、店の外でしばらく言葉を交わしたあと、それでもやはり、どうにかこうにかすったもんだの行ったり来たりの末、ふたり一緒に公園の方へと歩いて行った。
この様子を店の窓越しに見ていた八千代は、いまだ距離を取って歩くふたりに対して、「手ぐらいつなげば良いのに」と、ひとりつぶやいたのだが、この彼女の願いなり祈りなりが天の神さまだか創造主だか名前も知らぬあの方だかに届いたかどうかはさておいて――いや、多分、これもきっと彼女の超能力なのだが――ふたりはこのあと、公園に向かう角を曲がると、八千代の目の届いていない場所に来た途端、どちらからともなく、手をつなぎ、それから静かに、公園の奥へと消えていった。
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