ぼくらはしずかにきえていく(その3)
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それはとても短く、そしてとても長い四十五分間だった。たったの四十五分間。それが、施設を抜け出した佐久間楓が、恋に落ち、そうしてまた施設に戻って来るまでに必要な時間だった。
それから数年が過ぎたある日。彼女は、また同じ四十五分間を使って、自身の記憶の無事を確かめると、あの街に確かにいたはずの誰かを探し――また、『あの街に確かにいたはずの自分』を確かめようとした。――それは絶対に、「お前の望むとおりのおママゴト遊び」ではなかった。
そうして、それから更に数年が過ぎたある日。彼女は、また同じ四十五分間を使って、かつて自分たちがふたりで住んでいたはずのアパートへと戻ると、そうしてまた同じ四十五分間を使って、そこに彼が残していてくれたいくつかのおとぎ話を大切に拾い上げると、『ずっと、ここには置いておけない』からと、その大切な物語たちを、誰にも知られないよう、そっと、胸にしまった。
そうして、また、同じ四十五分間を使って彼女は、誰も居なくなった部屋のドアを閉めると、ゆっくり、静かに、歩き出した。
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「白身魚フライ弁当とおろしハンバーグ弁当と特盛から揚げ弁当をお願いします」と、小張千春が言った。「休日なのに大変ですね」
連休初日の『カズちゃん弁当』には、これから公園にでも向かうのだろうか大勢のカップルや家族連れが列をなしていて、いつもの土曜日のつもりで署を出た彼女を驚かせていた。
「こういうのを貧乏暇なしって言うのさ」と、から揚げをサービスしながら安原和美は言った。「おかげで死ぬ間もありゃしない」――そう嘯いた彼女の笑い声に、そして見慣れた風景の中に、小張千春は、なにか失くしてはいけないものがあるような気がして、しかしそれを言葉にすることも出来ずに、ただただ口をつぐんで微笑んでいた。
「どうしたんですか?」小張の隠したはずの微笑みが届いたのでもあろうか、電話を終えて戻って来た高嶺ユカが彼女に訊いた。「しあわせそうな顔しちゃって」――それはきっと、昔、小張が司馬に言いそびれた言葉と同じで、きっとこれからも高嶺や今井や色んな人たちに言いそびれる言葉と同じなのだろう。
「あんたも警察のひと?」と、三人分のお弁当とお釣りを渡しながら和美が言った。「このお嬢ちゃん、警察ではどうなのよ?」
「お嬢ちゃん?」と高嶺。
「いっつも一人で弁当買いに来ててさ」小張を指差す和美の手が微かに震えているのが分かった。「――警察で浮いてんじゃないかって心配してんだよ」
「ええ?!」
「あんた友だち?仲良くしてやってあげてね」そう言って彼女は、今回のために臨時で雇ったイクエさん七十二才にレジを任せると、大声で笑いながら調理場へと戻って行った。
「なになに?なにかあったんですか?」そんな店主の笑い声に、飲み物を買って二人を待っていた今井登が訊いた。
「なんでもありませんよ」と、小張が言い、
「小張さんったらですね――」と、高嶺が言った。
「高嶺さん!」
ピロン。と、ここで今井のスマートフォンが鳴り、彼らの会話は中断された。
山崎からのメールだった。彼もまた、予定通り、昼食を済ませ次第『シグナレス』に向かうと云うことだった。
「わたし、友だちなの?って訊かれたんですよ?」と、先を歩く今井に高嶺が嬉しそうに言った。「――小張さんの!」
そう言われて小張は、改めて、見慣れた風景へと目をやると、あの日の司馬に、先ほどの和美に、そしてこれまで出会った色々な人たちに、言いそびれたままになっている言葉を、もう一度かみしめてみることにした。
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どこかで、リンゴのにおいがした。
それから、野いばらのにおいもした。
歩道橋からここの街並みを眺めながら『すこしあの町に似ている』と、山崎和雄は想った。
あの春の桜を、あの人も見てくれただろうか?
その前の春のことは、覚えてくれているだろうか?
季節ばかりが、滲むように遠ざかって行くような、そんな気がした。
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