ぼくらはしずかにきえていく(その1)
*
さて。
これは大変重要で、とてもよく知られた事実でもあるのだが、この世界には、とてつもなく大きな問題がひとつある。それは、この世界に住む人たちの多くが、大抵いつでも不幸せだ、というものだ。
この世界に住む多くの人たちは大抵こころがせまく、日々劣等感にうち震えては打ちのめされ、他人を攻撃しては自分を痛めつけ、世を呪い人をにくみ、生まれたことを後悔していた。――中には、生まれて来る前に後悔しているひともあった。
であるからこそ、この世界に住むとても大変頭の良い人たちの多くは、それぞれの得意分野において、その不幸せを解決するための方策を日夜研究し、提案し、論争したりしているのだが、その努力ややる気や頑張りが新たな不幸せをもたらすこともしばしばあったし、時には大きな戦争などを引き起こすことなんかもあって、結局のところ、このとてつもなく大きな問題は、いまもとてつもなく大きな問題のままに残っていた……。
*
「ワン……・ツー……、ワン、ツー、さん、はい……」と言う坂本の合図とともに、コーラス部の全員が、一斉に、声を揃え、ハーモニーを奏で始めた。
『ラーーラーラー、ラーーラーラー、
ラーーラーラー、ラー、ラーラーー。』
そうして、このコーラスに繋げるように、このコーラスの邪魔にならないように、坂本は小さくピアノを鳴らした。
『タンタ、タンタ、ターー、』キレイな音のシングルノートだった。
『タンタタタン、タンタタタン、タンタタタン、タン……』
それから、一拍の間を置いて、歌が始まった。
*
それはとても長く、そしてとても短い四十五分間だった。たったの四十五分間。それが、彼女とのつながりを断ち切られてしまった山崎和雄が、川に飛び込み、そうしてこちらに戻って来るまでに必要な時間だった。
それから彼は、また同じ四十五分間を使って、自身の命の無事を確かめると、橋の上にいたはずの誰かを探し――『橋の上には誰もいなかったはずだ』と云う自身の記憶を確かめた。
そうして、それからまた彼は、また同じ四十五分間を使って、自分たちがひとりで住んでいたはずのアパートへと戻ると、そうしてまた同じ四十五分間を使って、少し広くなった部屋に残っているいくつかのおとぎ話を大切に拾い上げると、『ずっと、ここには置いておけない』からと、そっと、胸にしまった。
*
講堂に向かう並木道から、晩い春の憂鬱な空が見えていた。
河井保美は、連休初日にもかかわらず構内でたむろする学生たちを横目に、昨日の彼の言葉を想い出そうとして、それでもやはり、想い出すことを止めていた。
彼の心には自分とは別のひとがいる。それはずっと分かっていたはずだった――はっきりと言ってくれれば良かったのに。
いや、それは自分も同じだった――はっきりと訊いていれば良かったのに。
新入生だろうか、並木道の向こうから一組の男女が歩いて来て、保美とすれちがった。二人一緒になにかの歌をくちずさんでいた。
『これは、いつか彼が歌っていた歌ではなかっただろうか?』保美がそんなことを想いながら彼らの方を振り返ると、そのめまぐるしく変わる風景の中で、彼らは、静かに消えていた。
*
BGM:『僕らは静かに消えていく』山崎まさよし