どこのどれかは知らないけれど、誰もがみんな知っている
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さて。
ここで本編のお話とは少しズレてしまうのだが、読者の皆さまには、子どものころに習った英語の問題を想い出して頂きたいと思う。
その問題とは所謂、『the apple』と『an apple』の問題である。
多分、あなたの学校の先生も、先ずはこんな風に言われたのではないだろうか?
「英語には、定冠詞と不定冠詞と云うものがあります」
しかし当然、言われた子どもたちには何のことやらさっぱり分からない。それどころか、頭の固い先生なら、
「『the apple』が感覚で捉えたリンゴであり、これが定冠詞。『an apple』は概念としてのリンゴ、つまり頭の中のイメージとしてのリンゴであり、これが不定冠詞」
……みたいなことを得意顔で言って、子どもたちを更に混乱させたかも知れない。
もし、あなたの先生の頭がもう少し柔かくて、子どもたちにキチンとした英語を教えたいと思っていたのだとしたら、『the apple』については、
「いま目の前にあるリンゴ。あそこの木に生っているリンゴ、あの八百屋の前にあるリンゴ、いま手に持っているこのリンゴ……、そう云う具体的なリンゴが、『the apple』です」
……みたいな、もう少し分かりやすい説明をしてくれたかも知れない。
なるほど、これなら分かりやすい。自分が手に出来る、食べることが出来るリンゴのことだからだ。
しかし、困ったことに、その同じ先生でも『an apple』の説明ともなると、
「どこのどれでもない一つのリンゴ、頭の中で皆さんが想い描いている、あのリンゴ……、それが、『an apple』です」
……みたいな、どうにもこうにもモヤモヤっとして、何のことやらよく分からない説明をしていたのではないだろうか?
うーん?どうもよく意味が分からない……確かに、言われて見ればそんなリンゴもどこかにあるような、そんな気はするけれど……、
『どこのどれかは知らないけれど、誰もがみんな知っている』?
……それって一体なんのことなのだろうか?
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「それは例えば、数学の『=』を想い出してみて下さい」と、小張千春が言った――いつものことながら唐突だな、君は。
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『1+1=2』
これは、当たり前のことだ……と、我々は考える。
しかし、これは本当に当たり前のことなのだろうか?
もう少し考えてみよう。
『1+X=2 であるならば、X=1である』
これも、当たり前のことだ……と、いま、あなたは考えてくれただろうか?
なにかおかしな感じがしないだろうか?
もう少し考えてみよう。
『X+Y=2のとき、
X=1であるならば、
Y=1である。
ゆえに、X=Y=1である』
これも、もちろん、当たり前のことだ……と、いま、あなたは考えてくれただろうか?
「なぜ、違う字であるXとYが『=』で結ばれるのだろう?」……とは思わなかっただろうか?
もう少し考えてみよう。
「X」を「《リンゴ》」と云う『記号』に、「Y」を「《バナナ》」と云う『記号』に、置き換えてみよう。
『《リンゴ》+《バナナ》=2のとき、
《リンゴ》=1であるならば、
《バナナ》=1である。
ゆえに、《リンゴ》=《バナナ》=1である』
これも、もちろん、当然のことながら、当たり前のことだ……とは、流石のあなたでも直ぐには納得してくれないのではないだろうか?
「だって、なんでリンゴとバナナが同じものなのよ?」……と、一瞬ではあるが、考えなかっただろうか?
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「それはそうですよ。途中から単純な記号でしかないXやYを、具体的事物でもあるリンゴやバナナで置き換えたんですから」と高嶺ユカが言った――君もだんだん小張っぽくなって来たね。
確かに、彼女の言う通り、私は途中でちょっとした嘘と云うか詭弁を弄した。
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と云うところで、やっと話は、『the apple』と『an apple』のところにまで戻る。
自然に生きている動物たちはどうだか知らないが、《他の人類種に比べてもこれといった強みを持たず、とくに精巧な道具も作らず、格別な偉業を成し遂げたりもしなかった》この人類と云うどうしようもない種族は、数学の中だけではなく、この現実の世界を把握する手段としても、この『=』つまり『同じ』と云う概念を利用する。
例えば、ここのテーブルの上に二本の大根が置いてあったとする。
一つにはスが入っていて、おでんには向いていないが、もう一つにはスが入っていないので、おでんに入れても美味しくいただくことが出来る。
しかし、我々はそれを『同じ二本の大根だ』と、想うことが出来る。
もし、『これらの大根は、違う二本の大根だ』と、キチンと想える人間がいたとしたら、彼女はきっと良い絵描きになるであろう。
何故なら、『感覚で事物を捉える』と云う芸術家にとって一番大切なものを、彼女はキチンと持っているからである。
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「例えば、いつぞや見せて頂いたキレイな殿方の裸身がたくさん載っていたカタログ――あれはあれで眼福ではありましたが、結局のところあれも顧客の頭の中にある『an apple』の欠片を刺激しているだけに過ぎない……と想うんですよね。つまり『男』と云う記号を提出して、顧客の脳を刺激する」と、小張千春が言った。その割には熟読玩味してたよな、君。
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多分、この『同じ』と云う概念を持つことも、人がサルと別れた要因のひとつであり、《我々サピエンス種が、如何にして他の人類種を葬り去ったかご承知ですか》とみんなに問いを掛け、《我々よりもずっと強靭で、大きな脳を持ち、暑さにも寒さにも強かったはずのネアンデルタール人たちではなく、我々サピエンス種が生き残ったのか?その差は何でしょう?》と、咲希に訊いた古文の先生への答えともなるのであろう。
それはつまり、『朝三暮四』と云う四字熟語が教えてくれているとおり……おおっ?!……ここで古文に繋がる?……え?……『朝三暮四』は漢文?……いや、だって紫式部も……え?……「話が横道に逸れ過ぎてて本編がどこかに行ってしまいそうだ」?……ああ、じゃあ、その辺りは各自で調べて頂くとして、この続きは、小張千春に任せることにしよう――彼女はいま、石神井警察署の会議室で高嶺ユカとの打ち合わせの真っ最中なのである。
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