市役所まで(その3)……或いは、Thank you for being there.(Part3)
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「まさか、こんな田舎町に来てるとはなあ」と、その男は言いました。不意に、楓さんが私の手を、きゅっ。と、握って来ました。私は、『大丈夫だから』と伝えるつもりで、その手を少しだけ強く握り返しました。
「一緒に帰ろう」男の視界に私は入っていないのでしょう。男は、ただただまっすぐに楓さんの目を見詰めています。私は、男と楓さんの間に立つと、男の顔を、きっ。と見据えました。鼻の高いキラキラとした目をしています。
「ああ、」と、男が言いました。「今度のはずいぶん可愛らしいな」と、私と楓さんの事をすべて分かってでもいるかのような言いぶりでした。「構わないさ。そう云う気分になる時は誰にでもある」
「この人、」と、楓さんが言いました。「この人は、そう云うひとじゃありません」と、そう言う楓さんの手は少し震えていました。
「じゃあ、どう云うひとだ?」そう言う男の声には、黒くて甘い――いや、限りなく黒に近い濃紫色の、甘い何かが含まり始めていました。
「いつものとおりだろ?――言葉で操って、お前を愛していると想わせて、お前の望むとおりのおママゴト遊びに付き合わせている。――それともなにか?匂いでたらし込んだか?たぶらかしたか?お前が思わなくてもそうなるようになっているんだ。これまで何人の人間をそうやって――」
パシン。と、男の左の頬を叩く音が橋の上に響き、私と彼女をつないでいた手は、そのまま、何処かへと立ち去ってしまいました。
「この人の前でそれ以上――」と、楓さんが言い終わるよりも早く男は、「奥さん!」と、先ほどの女性に声を掛けました。「娘さんを川に投げ込んでください」
私には、この男の言葉の意味が、すぐには飲み込めないでいました。
言われた女性――赤ん坊の母親も、私と同じように、すぐにはその言葉の意味を飲み込めなかったのでしょう。
が、それでも、「早く!」と云う男の声とともに、抱いていた赤ん坊の左足を片手で掴むと、まるで小さな土嚢でも川に放り込む時のような格好で、娘を逆さ吊りに持ち、ブラブラと振り始めました。「さあ!娘さんを川に投げ込んでください!」
「待って!」と、楓さんが叫びました。
「待て!」と、それに合わせて男も叫びました。母親の手は、まだ子供の足を掴んでいます。「どうした佐久間?」男が、楓さんの顎を掴み上げました。「――やっと想い出したか?」
私は、この突然の出来事に、ただただ何も出来ず、二人のやり取りを見ているだけでした。
そうして二人も、こんな私は無視したまま、話を続けて行きます。
聞き慣れない単語がいくつも出て来ました。
途中、二度ほど、楓さんがこちらをチラと見ました。
私は、その二度とも、彼女の方に駆け寄りたくなる衝動を覚えましたが、その度に、男の「動くな!」と言う叫びが私に向けられ、私はいよいよ、動くことが出来なくなるのでした。
それからどのくらいの時間が経ったでしょうか、いまだ動けないでいる私の方に男が歩み寄って来ました。
そうして、「せめてもの情けだ」と、あの重く甘い声で言いました。「記憶は、佐久間が消してくれる。命も取らない」
私は、ふたたび、この男の言葉の意味が、すぐには飲み込めないでいました。
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「ごめんなさい」と、彼女が言いました。
「ごめんなさい?」と、私は言いました。
「この手を見て」
「その手を見て?」
「これを鳴らすと」
「それを鳴らすと?」
「わたしのことを」
「あなたのことを?」
「あなたはわすれます」
「わたしはわすれます?」
「さあ、鳴らすわね」と、彼女が言いました。
「さあ、鳴らして下さい」と、私は言いました。
パシン。と、彼女の左の手を彼女の右の手が叩く音が橋の上に小さく響き、私と彼女をつないでいた何かは、そのまま、何処かへと立ち去ってしまいました。
「さよなら、和雄さん。」と、彼女が言いました。
「さよなら?楓さん。」と、私は言いました。
「あなたに会えて、とてもうれしかったわ」
「あなたに会えて、とてもうれしかったわ」
「さよなら、和雄さん」
「さよなら?楓さん。」
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それからのことを、私はよく憶えていません。
ただ、彼女が最後に、「ほんとうに、さよなら」と言った直後、私は、自分でもその理由はよく分かりませんが、橋の上から、川の中へと飛び込んでいました。
橋の上から「消したのか?」と言う男の声が聞こえて来ました。
それから、「もちろん」と言う楓さんの声も聞こえて来ました。「飛び込んだのは彼の意思よ」――いいえ、そんなはずはありません。
そうして私は、未だ凍るように冷たい神北川を岸まで泳ぎ、どうにか一命を取り止めることが出来たのでした。
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