呼吸、スーツ、車、つぶやき……或いは、みたびの『第三幕 第一場』より
*
『どちらさまですか?』小張のスマートフォンから問題の男の声が流れて来た。声は遠くくぐもっていたが、それでも、「重い蜂蜜」と評した今井の気持ちが分かる――ような気がする。なるほど、色んな種類の好感や共感をこれでもかと集め尽くしたような声だ。
『少し、お聴きしたいことが――』と、こちらは今井の声。彼が胸ポケットに入れておいたスマートフォンでの録音なので、マイクに近い分その声はハッキリ大きく聞こえるが、なるほど、好感の『量』と云う意味では問題の男には遠く及ばない。
「どうです?」と、小張が訊いた。「――この男の声に心当たりなどは?」
しかし、美里を始めとした『シグナレス』の三人に心覚えなどあるはずもなく、「たしかに、話し方が、例の女性に似ているような感じもしますが――」と美里が言うと、咲希もそれに同意を示し、「ぜんぜん違う人ですね」とだけ付け加えた。そうして、肝心の八千代に至っては、この声のせいだろうか――いや、確かにこの声のせいなのだろうが、胃中の酸の量が急に増したような気分になり、その広い額には脂汗が滲み始めていた。
「大丈夫?」と、そんな八千代の様子を察した咲希が彼女に声を掛ける。「調子悪いの?」
すると、そう問われた八千代は、「ごめんなさい」と、小さく応えてから、横の壁に掛けられてある問題の絵に目を遣ることで、心を――と云うよりは身体を、落ち着かせようとした。
なるほど。この男の声は、よほど彼女の生理にそぐわないらしい。
「本当に大丈夫ですか?」と、八千代の挙動に不審なもの――それは例えば『問題の男を実は知っている』と云った類いのことだが――でも感じたのだろうか、小張が彼女に声を掛けた。「しんどいようでしたら、何処かで休んでいただいていても」
が、しかし八千代は、あくまで自分は大丈夫なので一緒に話を聞かせて欲しいと言い、また、そんな彼女の態度に小張も、この少女が問題の男とこれと云った繋がりがないことを、直感的に理解した。
なるほど。この少女は――この少女の身体は、ただただ、この男の声に拒否反応を示しているのだろう。
『分かったか?分かったなら首を縦に降れ』と、スマートフォンの向こうで男が言った。『よし。なら、後は頼んだぞ、今井刑事』
そうして、ここで男の話は一旦終わり、今井が『シグナレス』に向かう場面へと変わる。小張がスマートフォンの録音を早めようとした時、小さな声で、男が何か言っているのが聞こえた。
「いま、なにか聞こえましたね」と美里。
「――ですね」と、小張。何故これまで聞き逃していたのだろう?データ画面をタップして十秒ほど時間を前に戻す。確かに、何か言っているようだ。「――分かります?」
一様に首を横に振る他のメンバーたち。
「スピーカーにつなげてみますか?」と美里。『シグナレス』の店内には、BGM用に小さなブルートゥーススピーカーが置いてあった。
『なら、後は頼んだぞ、今井刑事』小張のスマートフォンとリンクさせたスピーカーから増幅された男の声が流れる。
それから、今井の呼吸音、彼のスーツの擦れる音、彼の横を走り去って行く車の音、に続いて『……』と、うしろの方で男のつぶやく声がした。もう一度時間を戻す。
『頼んだぞ、今井刑事』今井の呼吸音、スーツの擦れる音、走り去って行く車の音、『これで……』確かに何か言っている。再び時間を戻す。
『だぞ、今井刑事』呼吸音、スーツ、車の音、『これで佐……も……』
人の名前?時間を戻……時間を戻そうとして小張は、テーブルの隅に、影を隠すようにして座っていた山崎の表情が、当人も気付かない程度に、微妙に、変化していることに気付いた。
『――刑事』呼吸、スーツ、車、『これで佐久間もあ……』
山崎の表情が、一瞬、明らかに変わり、その後再び、もとの――いや、それよりももっと深い無表情へと戻って行った。昨夜の夢を見た時の、昨夜の夢を見る前の、そんな彼の表情であった。
*
「《ああ、天使たちよ、どうかあのお方をお助けください。》」と、教壇の前で河井保美は言った。が、しかし、未だ補講中のハムレットからの返事はない。なので保美は、仕方なく次のセリフに移ろうとしたが、そこで教室の後ろ扉が開き、ひとりの男が入って来た。
「《ようく知っているぞ》」教室の学生たちが、一斉に男の方を振り返った。山崎和雄だった。
「《お前たち女は、化粧を用い、神から授かったのとは違う別の顔を作り上げるのだ》」怒ってでもいるのだろうか?いつもとは声の質が違う――ような印象を受ける。
「《気取り歩いて尻を振り、気取り喋って、神の物を別の名で呼ぶ》」保美の前に立つ。こんな真剣な――ように見える彼の顔を保美は見たことがなかった。
「《あげくの果てのふしだらも、自身の無知のせいにして。ああ、もう、おれは我慢が出来ぬ》」そう言って、両の手の平を胸の前で合わせると、「《おかげで気が狂った》!!」と、小さく叫んだ。
「……山崎さん?」保美は、劇を離れ、彼に声を掛けようとしたが、彼にその気はないようだった。
「《結婚などなくなればよい》」そう言って保美に詰め寄る。
「《すでにしてしまったものは仕方がない。見逃してやろう》」ひょっとして、彼は正気なのかも知れない。「《――一組を除いてな》」
山崎が、保美の左の手首を強く握り、絞り上げた。
芝居であると知っているのに、芝居であればと望みながら、それでも彼女は恐怖を感じた。そうして、それから、つかまれたその手を無理やりに振り解くと、数歩だけ――数歩だけ、後ずさった。
周囲の学生たちは、この芝居を、芝居であれば良いであろうこの劇を、それでも、目を離すことすら出来ず、ただただ、黙って見続けていた。
「《のこりの者たちは、》」と、山崎が続けた。「《ずっと独りで生きて行け。》」
そうして彼は、右手を上げ、そこにある筈のない跪拝台を指差し、「《さあ――尼寺へ行ってしまえ》」と、言った。
本来ならば、ここで彼は退場し、保美のセリフとなるところなのだが、しかしそれなのに彼は、保美の目を見詰めたまま、その場に立ち続けていた。
それから、ほどなくして保美は、「《ああ、あれほど――》」と、次のセリフに移ろうとしたが、自分でも知らぬ間に気付いてしまったのであろう――何に?男の不誠実に?自身の盲目さに?――目に溜まった涙を、自分でも気付かないままに、頬を伝わせることになった。
パシン。と、彼の左の頬を叩く音が教室中に響き、河井保美は、そのまま、舞台から立ち去ってしまった。
数人の女学生が彼女の後を追ったが、当の山崎は、彼女を追い掛ける素振りすら見せずに、入って来たのと同じ扉から――彼女が出て行ったのとは別の扉から――夜の校舎へと戻って行った。
*