transition(その2)
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「どうでしたか?」と、交通課横の自販機前で小張を待っていた高嶺が訊いた。
この高嶺の質問に小張は首を横に振って答えると、新津の口真似をしながら、「『それでしたら、《ユリシーズ》でも参考になされては如何ですか?』……だって。全然信じてくれないんですよねーー」と言った。――そりゃ、まあ、『言葉で人を操る殺人者』なんてラノベ設定、普通は信じないよな。
それはさておき。『「ユリシーズ」ってなんでしたっけ?』と高嶺は想ったが、彼女がそれを訊くより早く小張が、「ですから……」と、肩に掛けたトートバックから三個のチューインガムと切るタイプの絆創膏(大判)を取り出しながら言った。「そこの売店でこれを買って来ました」と、
このため、高嶺ユカの『「ユリシーズ」ってなんでしたっけ?』問題は何処かへ雲散霧消してしまい、代わりに『ガムと絆創膏をどうするんですか?』問題が立ち上げって来たワケだが、そんな彼女の疑問には気付きもせず、小張千春は、「高嶺さんは何味にします?」と訊いた。「わたし、梅が好きなんですよね」
「あ、じゃあ、私はブルーベリーで」いや、そうではなくて。
「じゃあ、今井さんがブラック・ブラックと云うことで――なんかまだ目が覚めていないようでしたし」
「テンション高いですしね」いや、訊きたいのはそこじゃないんですけど――深刻なツッコミ役の不足がツライ。
「匂いを嗅げなくなったのは痛いですよね」と、梅ガムを嚙みながら小張。「男の人の方は写真があるから良いんですけど――」
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そう。昨日の今井の勇気ある行動によって問題の『背の高い男』については、その顔写真すら入手することが出来た――誰も誉めてはあげないが、今井くんは結構スゴイことをやったのである。いや、本当に。
ただ、その代償は高く、『若い女』についての唯一の手掛かりであった『今井なら気付く彼女の匂い』を、当の本人が嗅げなくなってしまったのである。
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「一時的なものじゃないんですかね?」と小張。一気に何枚も噛んだので息が少々梅ガム臭い。
「さあ」と高嶺。「そもそも本当に嗅げていたのかも分かりませんもんね」――あ、このブルーベリーガム美味しい。
「あとで試しに嗅いでもらいましょうか?」
「え?」
「ほら、私たちも一応まだ『若い女』ですし」
「それは……」この人は本当に本物の天然かも知れないな。「ちょっと止めておいた方が」
「でも、シャワーも浴びたし着替えもしましたよ」と、自身の匂いと服装をチェックしながら小張。
朝出会った時の格好もアレな――休日のお父さんあるいは間違ったデヴィット・ボウイを髣髴とさせるような格好だったが、今の格好も結構なアレ――薄紫のロングスカートに同じ色のカーディガンを羽織り、その上に派手な模様の長い長いストールをぐるぐる巻きにしている――である。他人の趣味にアレコレ言うつもりはないが、少なくとも警察関係者のようには見えないし……そのヘンテコなストールって何処で売ってるんですか?
「ほら、匂ってみてくださいよ」と高嶺の方に頭を突き出しながら小張。「髪もキチンとたまごシャンプーで洗いましたよ」昭和の小学生みたいだな、こいつは。
「いや、ですから、そういう話では……」と、二つの意味で引きながら高嶺が言う。
「ほらほら」と、ちょっとした達人のような間合いの詰め方の小張。
「きゃあ」と、逃げ惑う高嶺……こう云うのもセクハラ認定出来ないのかしら?
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と、まあ、そんな二人のやり取りを今井登は遠目で見つつ、『いいなあ、俺も混ざりたいなあ……』と、未だ呪が抜け切っていない頭で思っていたが、そこに突然、『いやいや、それはセクハラじゃないか?』と、自分ツッコミを入れる自分が現われ、そこに更に、『それにそんなことしたらお前の気持ちがバレちゃうぜ』と中学生のようなことを言い出す自分すらも現われたかと思うと、『いや、僕のこの気持ちはそう云う邪なモノではなくて』と、別の中学生の自分のようなことを言い出す自分すらも現れて――これも男が掛けた呪の副作用なのだろうが――、彼はしばらく、手にスマートフォンを持ったまま、その場に立ち尽くしていた。
「あの……」と、そんな彼が邪魔だったのだろう。『カズちゃん弁当』店主・安原和美七十才が今井に声を掛けた。「お兄さん大丈夫?」
そう問われて今井は、一瞬、自分の思考がどこにあるのかよく分からなくなっていたが、彼女の声で目が覚めたのだろう、後ろを振り返ると「あ、はい。大丈夫です。すみません」と言って、和美に道を開けた。
「あんまりボーっとしてちゃダメよ」と和美は言うと、署の購買部の方へ向けて歩いて行った。目の端の方で小張の姿を見掛けたが、彼女は高嶺とのやり取りの真っ最中だったので、声を掛けることはせず、『お嬢ちゃんも、他の人とうまくやってるんじゃない』と娘(孫?)を想う母(祖母?)のような気持ちになるだけであった――和美は和美で購買部との待ち合わせに遅れそうなのだ。
『しかし、まさか警察からお声が掛かるとはねえ……』と、和美は想ったが、流石の彼女も、この署の署長が彼女の弁当屋を気に入り「出入り業者に出来ないか?」と購買部に相談しているとは、露にも想っていないようであった。
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そんな和美の後ろ姿をしばらく眺めてから今井は、自分の頬を軽く三度叩くと、小張と高嶺の方に向かって歩き出した。
「喫茶店の店主と連絡が取れました」と、彼は言った。
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