transition(その1)
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「ノイズ……なんですって?」と、石神井警察署副署長の新津修一(60)は訊き返した。
アイティーだとかネットとかソリューションとかレボリューションとか……そんな言葉にやっと慣れて来たと思っていたら、また今度は別の新しい言葉が出て来る。オートメーションには行列が出来て全然オートメーションらしくないし、水増しされたインフォメーションは、そのどこをどう受け取めれば良いのかも、その受け止め方からして水増しされているて全く分からない。そうそう。レボリューションと云えば、とかくワケの分からない頭文字ばかりを付けるのが流行った時期もあったが、革命期のフランスでもあるまいし、そうそうレボリューションが起きてたまるものか。「イノベーションを起こす人材を組織的に作り出す」ための組織でイノベーションなんか起こるわけもないし、そんな「イノベーティブな人材」が実際に我々の組織にいたとしたら、それはよっぽど周囲の人間が気を遣い苦労をして汗水たらしながら彼ら彼女らをバックアップしなければ組織の統制は取れなくなるだろうし……ああ、だから私はまだ残っているんだったな…………と、目の前の若い――いや、本当に娘ぐらいの年齢の若い女性を見ながら新津はそんなことを考えていた。……私に残された年数で、この女性に立派な警官魂を教えられるだろうか?
「ですから、」と、そんな新津の想いは露とも知らずに小張千春が答えた。「『ノイズキャンセリングヘッドホン』です」
そう言いつつスマートフォンの画面をこちらに見せて来るが……老人の目にその画像サイズは辛いんですよ、小張さん。
「ですから、それがどう云う品物で、なんのために必要なのかを教えて下さい」
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『ノイズキャンセリングヘッドホン』の原理は簡単なものだ。
それは、いつぞやと云うか近い未来と云うか……いや、でもこの時間軸の延長線にはない未来になるのだから「近い未来」と云う言い方は間違いになるのだろうか……あれ???
ま、まあ、いずれにせよ、この小張千春本人が宇宙人の襲来から石神井警察署管轄エリアを守った時に使った『波の干渉』を想い出して頂ければ良いのだが――。
え?そんな話は聞いたことがない?そう云う方は拙作『川崎、生田、1969』を読まれることをお薦めする。すっげー面白いので――宣伝終了。閑話休題。
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つまり、『ノイズキャンセリングヘッドホン』と云うのは、
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1.ヘッドホンに内蔵されたマイクが周囲の音を拾って分析。
2.拾った音と逆位相の音を生成。
3.生成された逆位相の音が周囲の音(=騒音)に干渉・相殺。
4.そのため、電車の走行音や車のエンジン音等々、快適な音楽環境の妨げとなるさまざまな騒音を低減させることになるわけです。よろしければ、是非、我が社の『ノイズキャンセリングヘッドホン』のご購入を検討下さい!!
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……と云う商品である。
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「なるほど。このまえ署に来た工事業者が言っていた『遮音壁』のヘッドホン版ですな」と、新津。このひと、こう見えて理系の大学出なので、この手の物分かりは良いのである。「で、それをどうされるんですか?」
この新津の質問に対し、小張が行った説明を要約すると次のような感じである。
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1.最近立て続けに起きたいくつかの事件――宅配業者のトラック上で見付かった飛び降り死体。花婿を撃ち殺し自身も自殺を図った花嫁。舌を噛み切り窒息死したマンションの管理人。多量の違法睡眠薬で死んだ女性資本家――彼らの死にはある共通点があった。
2.その共通点と云うのはつまり、これらの現場に残されていた若い女性あるいは男性の匂いであり、男性の匂いについては、水曜日に起きた銀行での強姦未遂事件の現場にも残されていた。
3.私の推理に間違いがなければ、彼あるいは彼らは、言葉で人を操る殺人者……と云うか、殺人教唆者・自殺教唆者であり、彼らは未だ、この石神井署管内をうろついている・今後もうろつく可能性が高い。
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「なるほど……」と、一応最後まで話を聞いてから新津は深く肯いてみせた。普通の人間であれば、1.の終盤あたりで『?』となり、2.の真ん中あたりで『???』となり、3.の「言葉で人を……」あたりで目の前のパソコンに入っているマインスイーパーなりスパイダーソリティアなりを始めるところであるが、彼の小張との付き合いも今年で二年目だ。慣れというのは恐ろしいもので、どんなに突拍子もない話も「一応最後まで聞く」と云うスキルを彼は身につけることに成功していた。が、もちろん、それとヘッドホンを経費で購入して良いかどうかは全く別の問題である。
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