再び、金曜日の朝、五時四十五分
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金曜日の朝、五時四十五分。
高嶺ユカは、石神井警察署に向かうために乗り込んだバスを三宝寺池の停留所で降りると、最初の信号を左にまがった。
もちろんバスは警察署の手前まで行くのだが、捜査課の先輩でもある小張千春が時々通っているという朝の散歩コースを自分もなぞってみようと考えたのである。
水辺観察園の手前にある甘味茶屋――よね?小張さんがそう言っていたからそうなのだと思うけれど――の前を右に曲がり、アスレチック広場とお弁当広場の横の道を通り過ぎる。突き当たりの野球場を右に曲がって国道の方へと戻ろうとしたとき彼女は、その道の先に同僚の今井登の背中を見付けた。
一人だからなのか、それとも昨夜の電話会議で小張に褒められたのがよほど嬉しかったのか、いつもの慎重と云うか重苦しい雰囲気はどこへやら、今にもスキップしそうな程の軽やかな足取りである。
もちろん高嶺的には、今井のことは、まったく、これっぽっちも、全然、それこそコドクオオスギマダラカミキリの爪の先ほどにも、異性として見ていないし見るつもりもないが――ところで、『コドクオオスギマダラカミキリ』ってなんだったかしら?――それでも昨日、突然姿を消した時には心配もしたし無事に帰って来たときには本当にホッとしもした。
が、その反面、その後のにやけたと云うか吹っ切れたと云うか、電話会議で小張と話す時のにやけ声には曰く言い難いものがあった。
まあ、司馬さんも仰っていたとおり、今井さんって『自分の気持ちを誰も気付いていない』って素直に想える中学生みたいな所があるからなあ――と云うか、小張さんの方こそ本当に気付いていないのかしら?気付いていて知らないふりをしているのかしら?だとしたら結構なタマだと思うのだけれど……そんなに女子力高い風にも見えないし、ただただ天然って可能性も……。
と、そんな高嶺の思考なり視線なりに気付いたのだろうか今井は、それこそ今にもスキップし掛けていた足を止めると、突然に高嶺の方を振り返り、左手を大きく上げ、彼女の名前を呼んだ。
なるほど、昨日の催眠状態は彼にとって――ある意味では良い方に働いたらしい。
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「本当に大丈夫ですか?」と、高嶺が訊いた。「休んだ方がよかったんじゃないですか?」そう彼女が心配するぐらいには、今井の様子は奇妙奇天烈摩訶不思議だった。
すると、そう言われた今井は、その場で軽くターンをしてみせると――ほら、やっぱり奇妙奇天烈摩訶不思議だ――「なにをいまさら」と言って高嶺の顔のすぐそばに自分の顔を寄せた。「やっと刑事らしい感じになって来たのに休めませんよ」
ちなみにここの『刑事』は『デカ』と読んでもらいたいらしい。
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『困ったわね……』と、高嶺ユカは思った。『小張さんはもともとがアレでアレなひとなのに、今井さんまでがコレでコレな感じになっちゃったら、明らかなツッコミ不足はまぬがれないわ』――うん。他のパートのメンバーはかなりシリアスなままだもんね。
しかも、今日はこれから、
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1.昨日の会話データの内容分析を行い、
2.問題の若い女性と昨日の男性の関係や能力を推理し、
3.彼らと対峙した時の方法も検討しつつ、
4.午後からは問題の絵が飾られている喫茶店『シグナレス』に行ってヒアリング。
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……と云う結構ハードなスケジュールが待っているのである。
『困ったわね……』と、ふたたび高嶺ユカは思った。と云うのも、今井の様子が相変わらずハイなところに加えて、明らかに徹夜したであろう様子の小張千春が、警察署から出て来たからであった。
「高嶺さーーん」と、黒のコートにシャツとカーディガン姿の小張は、高嶺を見付けると即座に駆け寄り、彼女に抱き付いてギューッとして来た
――うん。これは確かに徹夜明けのコーヒーと汗の匂いだ。
そうして高嶺は、小張からの汗とコーヒーと徹夜の匂いと、今井からの『ハグに混ざりたくても混ざれないオーラ』をその身ひとつで必死に受けながらも、警察官としての本題を彼らに訊いた
――謎は少しは解けたんですか?
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「それが全然なんですよ」と、小張。「徹夜ってついついやっちゃうんですけど、《睡眠不足はいい仕事の敵だ》って本当ですよね。《それに美容にも良くねえ》ですし」
なんでしたっけ、それ?レイモンド・チャンドラーでしたっけ?
「いいえ、ポルコ・ロッソです」と、ふら付き加減で小張が言う。「ですので私は、これからシャワーを浴び、仮眠に入らさせていただきます!」
ええ?!作戦会議や喫茶店は?
「大丈夫です。二時間後にはパリッと戻って来ますから、よろしく」
そう言うと彼女は、署内奥にある仮眠室の方へと向かって行ったが、その後ろ姿はまるで田舎に泊まりに来た小学生のようであった。
そうして、その後ろ姿を呆然と見詰めている高嶺の横では今井が、そのにやけた顔が更ににやけて行くのを必死に抑えていた。きっと小張の「シャワーを浴び……」の部分が彼の琴線を刺激したのだろう。
『中学生かよお前は』と高嶺はツッコミを入れようとしたが、しかし、これから始まるであろう長い一日のことを想い、その分の体力は温存しておくことにした。
――ああ、どこかに良いツッコミ役はいないかしら?
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