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市役所まで(その2)……或いは、ふたたび『第三幕 第一場』より

     *


 南の風が、吹きました。

 あの花の名はなにかしら?振り向きながらあのひとが訊く。

 今の時期にはめずらしい、ミヤコワスレが咲いていました。

 市役所からのかえりみち、わたしは何と答えたのでしょう?


 橋のうえには子をあやす、ははのすがたが見えていました。

 あのひともまた母と子を、見るともなしに見詰めています。

 たゆむことない、そのやさしさを。

 手掛かりにして、手をつなぎます。


     *


 南の風が、吹きました。

 あの花の名はなにかしら?振り向きながらあのひとが訊く。

 今の時期にはめずらしい、ミヤコワスレが咲いていました。

 市役所からのかえりみち、わたしは何と答えたのでしょう?

 そんなことすら、わすれています。

 いったいなにを、わすれたのです?


     *

 


 目に涙がたまっていくのが分かりました。

 お酒を飲むのも一体何年ぶりでしょうか?

 こんな所をひとに見られてはいけません。

 私の記憶がばれてしまいます。

 誰かが私を呼んでいます。

 楓さん?……いや、そんなはずはありません。


     *


「すみません、おやすみのところ」と、佐倉八千代が言った。「わたし、そろそろお暇させていただきます」

 そう言われて山崎和雄は、不意に目を覚ますと、目に涙がたまってはいないかと、それを見られないようにしなければと、背広のポケットに入れているはずのハンカチを誰にも悟られるぬよう注意しながら探すと、「ごめんね、遅くまで付き合わせて」と彼女に言った――ハンカチはどこかに置き忘れて来たらしい。「お酒は久しぶりで、少し酔ったみたいです」

「よっぽど、お好きなんですね?」八千代が訊いた。

「……この絵?」山崎が訊き返す。

「ずっと見てますもん」

「いい絵ですし……実は、ここに住んでいたことがあるんですよ」

「この川の?」

「この橋のね」そう言って山崎は、少し固くなったサンドイッチの一口分をくちに入れた。それから、「坂道のある街で、そこの大学の研究室に――」と言って、八千代に向けていた視線を絵に戻した。ミヤコワスレは、今にも風に吹かれてしまいそうだ。「まずしかったですけど……いや、いまも十分まずしいんですけど……とてもよいところで――」

「こちらにはどうして?」

「そこの研究室の助成金が切られて……若いメンバーから順番に――」

 そう言いながら山崎は、未だ半分以上は残っているであろうビールグラスに手を伸ばし掛けたが、それでも少しためらった後……それでもやはり、水が入ったコップの方を選んだ――《ああ、それからどんな夢に悩まされることになるやら》。

「でも、そこから一年ぐらいして……二年は経っていないかな?こちらの、河井教授の研究室に拾って頂いて――」

 手にしたコップの水を一息に飲み込んだ。酔いも夢も醒めるような想いがした

「結構楽しんで、好きなようにやらせていただいてますよ」

「それで、この絵を?」と、八千代が訊いた。会話の流れが微妙にズレている印象を受けるが、これも彼女の能力のせいだろう。

「あの頃の……しあわせだった頃の記憶が想い出せそうになるんでしょうかね」

 そうして山崎は、自分の言った言葉を自分の心で取り消そうとした――《いつまでも執着がのこる。こんなみじめな人生にも》――自分は何故こんなことを話しているのだろうか?

 しかし、そんな気持ちに追い打ちを掛けるように八千代が、「それで、楓さんとはどうなったんですか?」と、訊いた。

 一瞬、時間が止まった――ような気がした。

『彼女のことを誰かに話しただろうか?』山崎はそう想いつつ、その疑問を出してしまいそうな口を固く閉ざした――この女の子に悪意はまったく感じられない。

「いつかきっと再会できると思います」と、自分にも分からないままに八千代が言った。「そんな予感がするんです」

「君はいったい……」気圧された――と言えば嘘になるが、あまりにも自然な八千代の口ぶりに、山崎が口を開き掛けた瞬間、店の扉のカウベルが、カラカラン。と鳴った。

「山崎さん?大丈夫なの?」若い女の声がした。河井保美だった。

 問われた彼は、一旦八千代に向け開きかけていた口と心を再び閉ざすと、保美の方へと向き直り、

「《それはご親切なお尋ね、恐れ入ります》」

 と言った。

「《元気も元気、大元気》」

 そう言われた彼女は、とっさに、

「《いただいていたものを……》」

 と言い掛けたが、それではあまりにも自分がみじめに過ぎると思ったのだろうか、彼に向けていた口と心を再び固く閉ざすと、問題の絵の方へと向き直り、それから何かを言おうとしたが、結局、彼のいる同じテーブルに座ることぐらいしか、この時の彼女に出来ることはなかった。

 本来ならば、平手打ちのひとつでも――あるいは抱擁のひとつでも、彼に差し出したいところではあったのだが、《the noble mind》そんな父の忠告が、彼女をも芝居に戻らせたのであった。


     *


 それからこの日、山崎和雄は河井保美を家まで送り届けると、上がっていけと言う教授の誘いを断わり、そのままの足で、ひとり暮らしのアパートへと帰って行った。


 それからこの日、逢坂美里と木花咲希は、木曜の夜とは思えないほどの活況を呈した『シグナレス』の店内をどうにかこうにか乗り切ると、咲希の家へと電話を入れ、今晩は二人でこちらに泊まることを咲希の父親に伝えた――が、この夜、叔母が軽いワインを姪に勧めたことは、今後一生明かされることはないだろう。


 それからこの日、佐倉八千代は、迎えに来た父とともに石神井池のほとりをとぼとぼと歩いて家へと帰ったが、自分でも知らず知らずのうちに、奇妙な不機嫌さを感じていた。

 それはきっと、仲睦まじく・仲睦まじいように接しようとする保美と山崎に言い知れぬ不安と偽りを感じたからであったのだが、そのことを彼女が理解するには、八千代はまだおさな過ぎたのかも知れない――「どうしたんだい?八千代くん?」と問い掛ける父に対して、自分が何を感じているかすらも、まともに答えることが、彼女には出来なかったのだから。


     *


 それからこの日、問題の女性の使いと言って『シグナレス』を訪れた若い男――今井登は、そこに至るまでの、またそこに至って使いをし終わるまでの、一連の記憶をすっかりと失くしていた。

 もちろん、彼を使いに出したのは問題の女性ではなく、例の男――病院や銀行で嗅いだあの匂いを持つ男であり、その男の能力の影響だろうか、これからのち今井は、その『他のひとでは気付けない匂いに気付く能力』を失くすことになる。

 が、その代わり、と言ってはあまりにも代償が大きような気もするが、その数時間前に届いた小張からのメールの指示に従い、彼は、問題の男との会話をスマートフォンに記録。直後、その音声データを小張と高嶺に向けて送っていた。

 彼の運の強かった点は、この前日、問題の男は、問題の女性と再会したばかりだった――と云うところであろう。

 男は浮かれており、且つ、とても素晴らしい幸福を感じていたために、スマートフォンの微かな作動音に気付かないどころか、自身を追って来た刑事の命は取らず、その記憶と『鼻が利く』能力だけを奪うことにしたのだから。


     *


「お手柄ですよ」と、小張から記憶にない手柄を褒められた今井は、少なくない居心地の悪さを感じながらも、『他のひとでは気付けない匂いに気付く能力』を失くしたことで、明日からは、彼女のそばに近付くときに出るであろうためらいが、ほんのわずかではあるだろうが、少なくなるであろうことを、素直によろこぶことにした。

「あとは、この手掛かりから、どうやって彼らに近付くかですね」と、今井の気持ちを露とも知らぬであろう小張が、電話の向こうで言った。


     *

BGM:『区役所』山崎まさよし

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