ビールとサンドイッチ
さて――。結論から言うと、この日、喫茶店『シグナレス』を問題の女性が――『佐久間』と呼ばれ『ヒナ』とも呼ばれたあの女性が、訪れることはなかった。
その代わり、夜の七時近くになって、彼女の使いだと言う若い男がひとり店を訪れると、『彼女はもうここには来ないこと』『絵の売却話も忘れてくれて構わないこと』『預けている金の十分の一を迷惑料として受け取って欲しいこと』の三点を告げた。
それから男は、ここの女店主と若干のやり取りはあったものの、どうにか彼女を説得させると、残り十分の九の金を受け取り、足早に店を去って行った。
女性の来訪を待っていた者たち――ここの店主であり問題の絵の作者でもある逢山美里、美里の姪に当たる木花咲希、咲希の友人で問題の女性と最初に接触した佐倉八千代、そうして絵のもう一人の購入希望者であった山崎和雄の四人――は、呆気に取られたと云うか狐にでもつままれたと云うか肩透かしを喰らわされたかっこうで、その若い男が店を出てもうとっぷりと日の暮れた公園の方へ向かって行くのを見ていた。
そうして、実はこの四人の中で最も緊張していたであろう山崎和雄は、逢山美里の方を向くと、ほっとしたような表情で、一杯のビールとサーモンのサンドイッチを注文し、咲希と八千代に礼を告げた後、問題の絵がよく見えるテーブル席へと座った。
緊張が解けたこともあってか彼は、グラスに入ったビールの半分も飲まないうちに、サーモンのサンドイッチを一口も食べないうちに、全く思いがけなく、陶然とひきこまれていくような、そんな快い眠気を覚えた。
『いいかい?楓さん?本当によい絵と云うのは、本当によい詩と同じで、けっして人をくたびれさせたり、説き伏せようとしたりはしないものなんだ。だから、そんな絵や詩に出会えたら、僕も、そしてきっと君も、元のような、ずっと以前のような、無傷のままの人間に、戻れる可能性を、可能性かも知れないけれど、きっと、持つことが出来ると、そう想うんだよ。』
と、そんな風に彼は、想い出されるはずのない記憶の中から、想い出されるはずのない女性に向けた、想い出されるはずのない言葉を、想い出していた。