石神井公園の小張千春
ピロン。と、ジャケットの胸ポケットが鳴った。……と云うか正確には、ジャケットの胸ポケットに入れておいたスマートフォンが鳴ったのだが、傍目には、マルーン色のジャケットのまったく膨らみのない胸ポケットの辺りが鳴ったように見えた。
ちょうどその時、石神井警察署勤務の小張千春は、街道沿いのコンビニエンスストアで買ったばかりの炭酸水を開けたところだったが、その炭酸水 (梅テイスト)を一滴も口にすることなくキャップを閉めると、昨晩クリーニング店から戻って来たばかりのジャケットを探り、今年に入ってこれで三代目となる自前のスマートフォンを取り出した。
一瞬、炭酸水のボトルをどこにしまおうか彼女は悩んだようだったが、結果、『水滴は仕方ないわね』と云う表情で愛用のトートバッグに入れることにした。
それから彼女は、改めてスマートフォンの電源を入れると、届いたメッセージを読み始めたが、ちょうどそのタイミングで、歩行者用の信号が赤から青へと変わった。しかし、警察官としての自覚からだろうか、それとも生来の気質のせいだろうか彼女は、そのまま歩き出すようなことはせず、近くの電信柱に背中を預けると、メッセージの続きを読んだ。
メッセージを読む彼女の横を何台かの車が通り過ぎ、歩行者用の信号が再び青から赤に変わるころ、彼女は不意に顔を上げると、ずっと遠くまで続いて行くのだろう電線たちと、その上に広がる青い青い空を見詰め、スマートフォンの電源を切り、それを再びジャケットの胸ポケットに戻した。左の方の手を自分の目の高さにまで上げた。
それから、右の手の人差し指と中指を合わせると、それを静かに自分の頭の上あたりに持って来てから、「ひゅうっ」と小さくつぶやき、左の手の甲のあたりに「しゅうっ」と落とした。
その勢いで左手は軽く上下し、右手もその反動で少し跳ねたが、そのまま左の手の甲の上で横たわる形をとった。
小張は、その両の手を、数秒間、見るともなしに見ていたが、一瞬だけ首を傾げたかと思うと、先ほど胸ポケットにしまったばかりのスマートフォンを取り出し、その電源を入れ、先ほどのメッセージに対する返信を一気に書き上げ、送信した。
それから再び、ジャケットの胸ポケットにスマートフォンをしまい、愛用のトートバッグ(親子ネコのイラスト付き)から炭酸水 (梅テイスト)を取り出すと、公園の方から灰色のハトの群れが飛んで来るのが見えた。中に一匹、真っ白なハトが混じっているように想えた。
「でも――」と、青に変わった横断歩道を渡りながら小張はつぶやいた。「わざわざそこに飛び降りるかしら?」