海岸へ。
構図を決める。今回は初めてだから、変な気は起こさずに、紙の真ん中に、佐倉さ……八千代さんの顔が来るようにする。
「こんな感じ?」と、八千代さんが訊く。緊張しているのだろうか、背筋が伸び過ぎている。緊張しているのはこちらだって同じなのに。
「もっと普通に」と、声のトーンに注意しながら答える。「いつも教室で座ってるときみたいに――」こちらの緊張が伝わったりしていないだろうか?幸い、私が授業中の彼女を盗み見ながら描いていたことは知らないらしい――うん。背中のこわばりは取れたみたいだ。あごのラインがいつものやわらかさを取り戻している。――でも、視線がふらふらしているわね。どこを見ておけば良いのか悩んでいるのだろう。
「そしたら目線は、」と、周囲を見渡しながら私も考える。丁度、彼女にお似合いの絵があった。「……向こう側の壁を見詰めてくれる?」
「あの大根の絵?」と、八千代さんが訊く。色素の薄い大きな目が私を見詰める。こちらも、彼女に言われて気付いたフリをする。「そうそう。あの大根の絵」と――『スのはいった大根の絵』がお似合いだと言ったら彼女は怒るだろうか?いや、きっと笑ってくれるだろう。
*
「……おかしな話聞きたい?」丸を描く。
「なに?」と、向こうの壁に視線を向けたまま八千代さんが訊く。ちょっと丸みを帯びた小さな鼻がとても可愛らしい。
「ここによく来る大学の先生がいるんだけどね――」中央線が少しズレているかしら?「その先生が、ある時、奥さんを連れて来られたことあって」
「お夕食?」
「ううん。先生の忘れ物を届けに来たとかで――」よし。良くなった。「お礼のランチだったらしいわ」
「いい先生ね」本当、うらやましいわよね。
「で、あそこのテーブルに二人で座ったんだけど、奥さんがジーッとあの絵を見て目を離さなかったのね」彼女のうりざね顔……卵型って言った方が彼女っぽいかしら?将来はきっと美人になるわね……に合せながら少しずつ丸の形を直して行く。
「わたしと一緒で気に入ったのかしら」よかった。本当に気に入ってくれたみたいだ。
「先生もそう思ったんでしょうね」……と、絵を描く手を一旦止める。彼女も気付いてこちらを向いてくれる。思っていたよりおでこが広い。きっと愛情深いタイプなのだろう。『大根の絵』の続きを話す。
「……そこで叔母さんが呼ばれて」と、ここで彼女の方を見る。窓からの夕日が彼女の髪をさらに赤く照らしてくれている。
「ああ、時々お母さんが怒ってるわ」と、八千代さんが言った。彼女とお母さんとのやり取りが目に浮かぶようだ。
「そしたら叔母さん『なんで分かったんですか?!』って驚いて。奥さんの方も、『いや、色とか形とか……美味しくなかったでしょう?』って。」彼女がクスリと笑った。でもね、八千代さん。大事なのはここからなのよ。
「……すると、叔母さんが、『でもね、先生……他に描くものがなかったんです』」そう言いながら叔母さんの真似をする。どう?自分でも自信あるのよ?
「良い話じゃない」そう言いながら彼女が微笑む。「そう云うの、好きよ」――うん。わたしも大好き。
*
《ここで列車は、丁度停車場の大きな時計の前に来てとまりました。二人がその大きな時計の盤面を見上げると、青くやかれたはがねの二本の針は、くっきり十一時を指していました。他の乗客は一ぺんに下りて、車内はがらんとしています。》
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「わたし達も降りてみない?」と、彼女が言って、「降りましょう」と、わたしは答えました。彼女の手を取り、列車を降りようとして――そこでわたしは目を覚ましました。
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