水曜日の夜、午後八時十五分(その1)
「そこで、エドワード・ノートンが自分で自分の顔を殴るんですけど、殴っているのはタイラー・ダーデンですから、だんだん躊躇いがなくなって来るんですよね」と、小張千春は言った。「――いや、自分で自分を殴っているから躊躇いがないのかしら?」
そう問うともなしに問われた質問について、質問だと受け取ったうちの一人・今井登は、答えられるかどうかは横に置いておいて、一応話自体には付いていけていた。が、しかし、質問だと受け取ったうちのもう一人・高嶺ユカにの方は、いまいちどころか二十も三十もピンと来ていない様子であった。ここは石神井警察署交通課直ぐ横のコーヒースペース。時間は水曜日の夜、午後八時十五分。
「あの、小張さん」と、遠慮しがちに今井登が言った――やはり、この人の前だと体が勝手に緊張してしまうようだ。「『ファイト・クラブ』を観ていないひとにも分かるようにお願い出来ますか?」
そう言われて小張は、『賢そうにみせるためなんですよ』との理由で掛けている伊達メガネを直しながら、「今井さん観ていないんですか?」と、訊いた。
すると訊かれた今井は、「いえ、僕は観てるんですが、高嶺が――」と答えようとしたのだが、これに被せるように当の彼女が、「でも、なんとなくは分かりますよ」と、答えてしまった。「――男のひとたちが殴り合う映画ですよね?」
いやいや高嶺くん、そんな適当な言い方を映画マニアの前でしてはイカンよ――と、今井登は誰にも聞こえない深いため息を吐くことになった――そう。この高嶺のセリフに小張千春の目がキラリと光ったからである。
「やはり映画を観慣れていない方、たくさん観てはいるものの表面だけをそっと撫でただけで分かった気になっている方――そう云う人たちにとってみれば、あの映画はそんな風に見えてしまうものらしいですけどね。若しくは『ブラッド・ピットの半裸姿を拝むための映画なんでしょ?』みたいな。『所詮はブラピ目当てで見るんでしょ?』とか、『女の人にあの映画は分かりませんよ』とか――でもそれはですね、ブラッド・ピットがプロデュースした・出演した作品をキチンと層別して見ていない人が云うような言葉であって……まあ、ジョニー・デップもそんな感じに捉えられてしまうことが多いですけど、キアヌ・リーブスとかですね……まあ、でも、顔だけで言うと、私はエドワード・ノートンの方がタイプなんですけど――でも問題はそこにはなくて――」
「エドワード・ノートンって誰ですか?」と、高嶺が隣に座る今井に、ものすごーーく小さな声で訊いた。が、そこはもちろん『どんな小さなことも見逃しません』が信条の小張である。
「最近だと、ウィル・スミスの『素晴らしきかな、人生』に出てましたよね。まあ、あの邦題は如何なものかとは思いますけどね、原題は『Collateral Beauty』ですからね。まあ、それを言い出したらリドリー・スコットの『The Martian』を『オデッセイ』にしてしまったりもするワケですから諦めるしかないのかなあとは想いますけどね、いや誤訳がいけないっていっているワケじゃないんですよ。『博士の異常な愛情』なんて、映画の中身をキチンと分かった上で敢えて誤訳しているワケですし『麦秋』の英訳名が……って、ああすみません。なんか脱線しちゃって――」いや、すでに本編からの脱線が激し過ぎるんですけど……。
「で、なんでしたっけ?エドワード・ノートンの話でしたよね。えーっと、『バードマン』とか『グランド・ブダペスト・ホテル』とか……知りませんか?」と、高嶺の方に身を乗り出しながら小張は言うが、いずれも彼女にはピンと来ていない様子である――どころか、そろそろ本気で引いている。
「『ディクテーター』『世界中がアイ・ラヴ・ユー』『ミニミニ大作戦』――あ、もちろんリメイク版の方ですよ。まあ、私のヒットは『The Illusionist』……あ、邦題は『幻影師アイゼンハイム』って言うんですけど、この映画の最後に主人公とヒロインが手に手を取って駆け落ちするシーンがあるんですけど、これがもう泣けて泣けて……って、どれか分かりません?……分かりませんか?あーー、そう言えば『インクレディブル・ハルク』もやってましたね。あの細マッチョな体があんな大きなハルクになるところで、わたしなんかもうかなりゾクゾクしちゃって――」
「ハルクなら知ってますよ!」と、やっと知った名前が出て来たので飛び付き加減に高嶺は言った。が、うん。それ、多分、違うハルクだと思うんだけど……「なるほど。ああいう感じの顔がお好きなんですね――」……まあ、良いか。
で、えーっと、何の話だったっけ?……そうそう。本日、石神井警察署管内の銀行で起きた強姦未遂事件について話をしている三人なのであったが……まあ、その話は次回で。