市役所まで(その1)
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見慣れた午後の、ことでした。
ふたりが暮らすアパートに、日かげの雪が残ってました。
その日の夢はなつかしく、けれどおぼえてない夢でした。
彼のせなかが、ゆれていました。
いつも通らぬ、うろおぼえの道。
彼が行こうと、言ったのでした。
かぜのよく吹くくものたつ、とおくの空にカラカラカラと。
かるい後生車がカラカラと、丘のうえから聞こえてました。
川の向うで名も知らぬ子が、友を追い掛け駆けて行きます。
彼もそちらを、向いていました。
駅の手前で見たことのある、母親が子を待っていました。
きみが私にくれたその手を、私はふっと見詰めています。
雲がとおくに流れて行くと、いりひ橋まであと少しです。
市役所までも、あとすこしです。
この想いだけ、消せてしまえば。
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プシュ。と、バスの扉の開く音がして、彼女の夢が破られました。『ずっと夢など忘れていたのに――』そう想いつつ彼女がバスを降りると、そこには、せめて今だけは、絶対に見たくない、見せたくない顔が立っていました。
「むかえに来たよ――」と、甘い甘い流れる血よりも甘い声で男が言いました。「一緒に帰ろう」
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BGM:『区役所』山崎まさよし