『第三幕 第二場』より(その2)
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同じく、2017年4月26日。水曜日。夕方。
「絵に先約が?」と、これまでの生活の積み重ねのせいでもあろうか、心の中の動揺を、その欠片すらも表には出さずに、ある女性からは『ヒナ』と呼ばれ、ある男性からは『佐久間』と呼ばれている女性が言った。「――いまさら言われても困るわ」
彼女は、昨日の約束どおり、昨日と全く同じ時間に、喫茶店『シグナレス』を訪れ、昨日の約束どおり、昨日の約束どおりの金額を、この店の店主であり問題の絵の作者でもある咲希の叔母・逢山美里に渡そうとしたところであった。
「――いい?」と女性は、咲希とともに美里の後ろに立っている八千代の方を一瞥してから続けた。「私は昨日、そこの赤毛のお嬢さんに手付けとして五十万円を渡した。そうして、彼女はそれを受け取った。こちらには買う意思があったし、そちらには売る意思があった――と云うことでしょう?」
「いえ、ですから――」と、美里が返す。「お預かりしているお金はお返し致しますし、手違いはどのようにもおわびしますので――」
普通に考えれば、領収書も書いていない一方的な申し出でであるし、八千代は未成年でただの留守番だった。断れない話でもないのだが……、何故であろうか……、甘いビロードの布に身体全体を包まれていくような……、そんな錯覚に美里は陥りそうになっていた。
「いやよ」と、言下に女性は答える。
「出来れば、他の絵にしていただくことは――」と美里は言うが、これにも、
「いやよ」と、取り付く島もない。
「自分で言うのもおこがましいですが、他にも良い絵はありますので――」と、美里は続けようとしたが、それを遮るように、「いい?」と女性が言った。
それから一瞬、八千代と咲希の方にも視線を向けてから、
「わたしは、あの絵が欲しい」と、続けた。すると、
「あたなは、あの絵が欲しい」と、美里が答えた。
「良い絵だと、想っているのよ」
「良い絵だと、想っているんですね」
「良い絵には、良い持ち主が必要よね」
「良い絵には、良い持ち主が必要ですね」
「わたしなら、あの絵の良い持ち主になれる」
「あなたなら、あの絵の良い持ち主になれる」
このように女性から言われ、自分でもこのように応えた美里は、だんだんと、彼女の身体を包み込んでいた甘いビロードの布が溶け出して、自身の手の先や耳の付け根、眼の縁や毛穴の先から身体の中の奥の方へ、しわりしわり。と入り込んで行くような、そんな奇妙な錯覚に囚われ始めていた。
そうして、その錯覚は、うしろでこの会話を聞いている咲希にも伝染・感染していくように彼女には想われたが、何故だか、ただ一人、八千代だけは、その錯覚に襲われることがないようにも想われていた。
「ちょっと待って下さい」と、突然、美里と女性の会話に割り込む形で佐倉八千代が言った。「そんな言い方ないんじゃないですか」
――が、一瞬、彼女は、自分でも何を言ってしまったのか分からないとでも云うような様子であった。
――が、いや、しかし、そんな彼女の言葉の意味を測りかねたのは、他ならぬ件の女性の方であった。
突然の八千代の言葉に女性は、美里に向けていた視線を八千代の方へと移すと、彼女の顔をしっかりと見据えようとして、なにか想い出すことでもあったのだろうか、「分かったわ――」と云うと、未だ美里と咲希にかかったままの呪を解き、無造作に握っていたオレンジのショルダーバッグを八千代に投げて寄こした。「そこに一千万あるわ――三人でもう一晩考えて」
「え?あの――」と、唐突に渡されたバッグを落としてしまいそうになりながら八千代は、せめて一言彼女に何かか言い返してやろうとしたが、女性はそれを待たず、「また明日、同じ時間に来るわ」とだけ言い残して去って行った。
カラン。と、お店のカウベルが小さく鳴った。