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水曜日の午後、〇時五分

     *


 水曜日の午後、〇時五分。

 志水七生は、勤め先である銀行のATM前で、不審な振り込みを行おうとしている老婆に声を掛けたところだった――が、丁度同じタイミングで、支店長からの急な呼び出しも入り、老婆のことが気になりはしたものの、二年後輩の佐伯賢太に後を任すと、特別客向けに設けられている応接室の方へと向かった。

『なんの用件かしら?』と、廊下を歩きながら志水は考えた――この銀行の業績不振は何年も前から言われていて、他行との合併の噂も数件聞いている。上層部に目を付けられるような悪目立ちはしていないし、仕事もそつなくこなすように心掛けているはずだが……。

 ハハハハハハ。と、応接室の中から支店長と相手の客の大きな笑い声が聞こえた。たしか、三十分ほど前に突然入店して来て支店長を呼び出した背の高い男性の声だった。


「これで四件目なんだ――朝から」と、穏やかだが怒りとも憤りともつかぬニュアンスを含めて、その時その男性は志水にそう言った。下ろし立てのバスタオルをハチミツの海に浸して来たような甘く重たい声だったが、その甘ったるい声の奥に、苦い魚の肝のようなものが雑じっているような、噛み潰された大きな蟻の酸のようなものが雑じっているような、そんな印象も彼女は同時に受けていた。


『似た感じをどこかで……』と、その時の男の印象を想い出しながら志水は、応接室の扉の前に立つてノックを躊躇っていたが、そんな彼女の気配を察したのだろうか、件の男性が、「来たみたいですね」と、支店長に言う声が聞こえた。

 すると、そう言われた支店長が、「志水くん。入っても良いよ」と、扉越しの彼女に声を掛け、彼女は、先ほど来感じている『イヤな印象』を更に膨らませると――本当は数秒間のことであったが――とてもとても長い間、扉の前で躊躇し続けた。


「志水さん、とおっしゃるんですか?」男が支店長に訊いた。

 その問いを受けて支店長は、「ええ。若いですが優秀な子でして――」と、いつものウソを吐きながら応えた。「我が支店のホープ……いや、エースですよ」と。

 志水は、扉の外でこのやり取りを聞き、背骨の辺りに異様な冷たさを感じていたが、「志水さん!」と、扉越しに呼び掛ける男の声でその冷気は固体へと変わり、その後の、「どうぞ。入って来てください」との男の言葉が、その塊を甘く苦く包んでいくのが分かった――確かに、自分は、これと似た感じをどこかで受けている。扉に手を掛けた。


「昨日、こちらに来た女性についてお聴きしたいんですが――」男がそう言い、志水は忘れていたはずの記憶を蘇えらせた――『ああ、あの女性か』と、口には出さずに彼女は想った。

「そう、その女性だ――」と、歌でも歌うように男が言った。


     *


「支店長さんをお願いします」と、高嶺ユカが言った。「十二時のお約束が遅れてしまっちゃって――」

 ATMの前で若い行員が老婆にお礼を言われているのが見えた。振り込め詐欺でも止めたのだろうか、「息子に電話したら……」とか「声がそっくりだったんです……」と、老婆が言っているのが聞こえる。

「すみません。もう一度お名前を――」窓口の行員が彼女に訊いた。

「高嶺です。警視庁の高嶺ユカ。十二時に支店長の兼森さんとお約束を」

 クゥーン。と、自動扉の開く音がして今井が建物の中に入って来た。「ごめん。お待たせ」彼が言った。

「いえ、まだ待ってるとこでして」と、今井の方を振り返りながら高嶺。「電話、どうでした?」

「会議が入ったとかで来れないってさ」と、今井が返す。「新津さんにつかまったらしい」

「副署長の?」

「そう。新津さんも大変なんだろうけれど――」と、そう言いながら今井は、窓口の向こう、奥扉の更に向こう側から流れて来る『なにか』を感じていた。「副署長の仕事もしながら……あの人の……お守り……」

「今井さん?」高嶺が訊いた。「――どうかされました?」

「すみません」と、今井が、高嶺ではなく、窓口の向こうの女性行員に声を掛けた。

 声を掛けられた女性は、丁度会議室の支店長に連絡を入れようとしているところだったが、「はい?」と、受話器の口を押さえつつ、少し戸惑った様子で彼の方を見た。

「それは、支店長?」と、今井。

「はい。今、呼び出しているところですが……」

「来客中?」

「ええ、ですので少々……」

「男の人?」

「お待ち……いえ、それは、個人情……」

「男の人なんですね?」と、警察手帳を取り出しながら今井が言った。「あの扉の奥に応接室かなにかがあって、男の人と会ってるんですね?」

「今井さん……?」高嶺が言った。

「ですので、いま呼び出しておりますので……」行員が言った。

「いや、違うな――」と、自戒のつもりで今井が言った。これではあまりに自分の感覚に頼り過ぎている。「支店長のいる場所を、教えてください」冷静に、冷静に、冷静に。感覚に頼り過ぎてはダメだ。が、ああ、でも、しかし、「間に合わなくなるかも知れません」と、今井は言った――これではまるで、あの人みたいじゃないか。

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