ヤマもなければオチもない。(その1)
「じゃあ、今日も佐倉さん来れないんだ」と、変声期前の可愛らしい声で坂本くんが訊いた。
「うん。なので今日も代打お願い出来る?」と、コーラス部の副部長で坂本くんの幼なじみで、それに加えて八千代たちのクラスのクラス委員長で、更におさげ髪に眼鏡と云うマンガかアニメだったらヒロインか副ヒロインになってもおかしくないはずなのに当人にも作者にもまったくその気のない橋本茉菜が答えた――え?「だって私は、坂本くんと一緒にいられるだけで幸せなんですもの」?――はいはい。若いってのは素晴らしいですね。
「でもさ、バラードはなんとかなるとして――」食べかけのサンドイッチを右手に持ったまま坂本くんが続けた。「ミディアムテンポの方はどうするの?」
「やっぱり弾きながらは難しい?」と、茉菜は返したが、正直なところ彼女は、彼の右の口元に付いているおべんとうが気になって会話どころではない。
「コードぐらいならなんとかなるけど――」そう言って坂本くんはサンドイッチを一口かじった。「ピアノだとどうしてもかがまないといけないだろ?」ああ、またおべんとうが増えた。「ギターの方がましかも」
「ギター弾けるの?」と、茉奈――ダメだ。彼の口元から目が離せられない。
「コード鳴らすぐらいなら歌いながらでも出来るけど……軽音部のギター借りられないか聞いてみようか?」
ちなみに、これもまた本編とは全然関係のない話だけれども、この必ず口におべんとうを付ける坂本賢治くん(中学二年生)は、近所に住むスタジオミュージシャンの叔父さんだか叔母さんだかの影響で音楽全般にやたらと詳しかったりする。
で、そのせいもあってか、それとも生まれ持っての性格か、ここ区立緑ヶ丘中学で起こる音楽絡みの案件については、必ずと言って良いほど呼ばれたり首を突っ込んでいたりするのである――え?「そういうところもステキなんですよね……」?――はいはい。若いってのは素晴らしいなあ、おい。
で、更に言うと、この坂本くんはかなりのアイディアマンでもあるらしく、「そしたらさ、ついでだから、コーラスアレンジ変えてみても良い?」……みたいなことをぴょんぴょんと言ってしまうのであった。
「え?」と、茉菜。坂本くんの口元ばかりみていたので虚を突かれたらしい。
「ダメかな?」
「ううん。全然!是非やってみて」
「そしたらさ、譜面はまた書いて来るけど――」と、残りのサンドイッチを一気にほうばってから彼が言う。「ぱっぱっぱ、ぱっぱっんぱ、ぱっぱ。ぱっぱっぱ、ぱっぱっんぱ、ぱっぱ――みたいな感じではじめて……その後、みんなで手拍子を……そう、裏拍で……」
そう目を輝かせながら語る坂本くんを見ながら茉菜は、ただただ、その口元に付いたサンドイッチの欠片を取ってあげたい衝動に駆られていたのだが、いきなり手を伸ばすのも流石にビックリされるだろうし、かと言ってこんなに夢中で話をしているところを止めてまでするような話じゃないし……『でも、ああ、くっそかわいいなあ……なんだよその八重歯は……このまま眺めているだけでも良いんだけど……いや、でも、そんな口におべんとうを付けたまま人前に出たりして恥をかくのは彼だし、こういう時に男の人に恥をかかせないようそれとなく手を打つってのが内助の功ってやつだと思うのよね……って、内助って奥さんってことじゃない!なにバカな妄想してんのよ!このマナのバカバカバカ!』――みたいな、本当にクソどうでも良いようなこと(言葉遣い!)を考えていたのだが……そこに、突然、そんな彼女の気持ちを知ってか知らずか、ガラガラッ。と扉の開く音がして、隣のクラスの浅野正之が教室に入って来た。
「なあ、坂本」と、その憎らしいほど並びの良い白い歯を光らせながら浅野が二人の会話に割り込む。「この前貸してもらったCDなんだけど……」
「ああ、木花さんにも貸して良いよ」と、浅野の方を振り返りながら坂本くんが察しの良い返事をする。
「それが、あいつ、最近やたらとよそよそしくってさ、」と、浅野。「……って、お前、おべんとう付いてるぞ」
「え?……どこ?」と、坂本くん。
「ほら、ここ、ここ」と、自分の右の口元を指差す浅野。
「え?ここ?」と、つられて左の口元を探る坂本くん――分かるよ。ついつられちゃうよね。
「ちがうって、ここだよ、ここ」と、浅野は続けるが、如何せん意思の疎通がうまく取れない。
「え?……どこ?」
「ああ、もう!」と、しびれを切らした浅野は、困惑気味の坂本くんの肩に手を掛けると、右の親指で彼の口元を拭ってやった。「まったく、しょうがねえやつだなあ」と浅野は言うと、そのまま、自身の親指に付いたサンドイッチの欠片を、そのままペロリ。と舐めた。
「取れた?」
「ああ、キレイになった」
と、まあ、そんなやり取りを傍で見せられた茉奈の気持ちを知ってか知らずか、この後二人は、特段のアレやコレもないまま音楽の話に戻って行ったのだが――。
「はあ……」と、二人には聞こえないよう気を付けながら茉奈は一人ため息を吐くと「ヤマもオチもイミもないわ……」と、言った。