水曜日の朝、五時四十五分
水曜日の朝、五時四十五分。
小張千春は、通勤で使用しているバスを三宝寺池の停留所で降りると、最初の信号を左に曲がった。もちろんバスは警察署の手前まで行くのだが、彼女は月に数回、朝の散歩のつもりで、早朝の公園を歩くことにしていた。
水辺観察園の手前にある甘味茶屋――らしい。入ったことはないから知らないけれど――の前を右に曲がり、アスレチック広場とお弁当広場の横の道を通り過ぎる。短い時間ではあるが、今回のように色々な事件が込み入っている時には、この早朝の散歩が、どういう理屈かは分からないが、それらの整理に役立っているような気がするのである。
突き当たりの野球場を右に曲がってから国道の方へと戻る。細い路地を行ったり来たりしながら警察署の裏手へ――と云うのがいつものパターンなのだが、どうしたわけだか、この日の小張は、細い路地を行ったり来たりする道は取らず、そのまま真っ直ぐ八号線――いわゆる富士街道の方に進んでみたい気分になった。
そうして、自分でも不思議な気分のまま、マクドナルドの見える交差点で信号待ちをしていた彼女に、「すみません。お巡りさん」と、ハチミツを振り掛けたシルクのように甘く柔らかな声の男性が声を掛けて来た。「ちょっとお訊きしたいことが――」
一瞬、小張千春は不意を突かれた形になった。まさか自分に声を掛けているとは想ってもみなかったからだが、しかしそれでも、周囲に自分以外「お巡りさん」らしき人物がいないと悟ると、その背の高い男性――黒みがかった赤と云うのだろうか赤みがかった黒と云うのだろうか、そんな珍しい色のスーツを違和感なく着こなしている背の高い男性――の方を向いた。
「はい?私ですか?」そう答える小張の今日の服装は、男物の茶色のスーツに赤のネクタイ、それに靴は何故だか赤のコンバースで、何処かの海外ドラマのコスプレに見えるならまだしも、とても「お巡りさん」には見えない――が、それで良いのである。
と云うのも、この背の高い男性の能力を発動させるために相手の正確な名前や職業はさほど重要ではないからであり、要は、自分と相手との間になんらかのコミュニケーションさえ成り立てば良いからである。
もちろん、一番効果的なのは相手の本当の名前ではあるが、それ以外でも、「ここのマンションの管理人さん?」とか、「警備の方?ちょっと教えて頂きたいんですけど」とか、「起きろ、花嫁」とかでも、相手が自分を認識さえしてくれれば、それで十分能力の発動条件となるのである。
そう云う意味では、今井登にその残り香を「若い女性の匂い」と言われたり、売れない画家の絵を百万円で買おうとしたり、それこそこの背の高い男性に追われたりしている件の女性の能力とは、似てはいるもののその趣きは微妙に異なる。何故なら、彼女の場合は、彼女の作った物語を相手が聞くところから始めなければならないからだ。
そう。それは例えば、「あなたも本当の愛を求めているのね」とか「結婚に不安を感じているんでしょう?」とか「きっと独りで年老いて死んでいくのね」と言った取っ掛かりのことを言うのだが、このような誰しも少しは心当たりがあるようなセリフであっても、彼女の目を見て口を通して言われれば、大抵の人間はその呪に掛かってしまうのである――が、この話は続けると切りがないのでこの辺りで止めておき、話を交差点の小張へと戻そう。
つまり、マクドナルドの見える交差点で小張に声を掛けた背の高い男性の誤算は二つあって、一つは「すみません。お巡りさん」と声を掛けた、とてもお巡りさんとは想えない女性が、実は本当に警察官であったことで、もう一つは、その声を掛けた女性が小張千春であったことである。
「よく分かりましたね?」と、改めて自身の服装を点検しながら小張が訊いた。「わたし……で良いんですよね?」
なるほど。肩に掛けたトートバッグ(皇帝ペンギンのイラスト入り)が、その『警察官らしくなさ』を更に強調している。
「ええ、」と、まさか本当に警察官だとは思ってもいなかった男性が、若干戸惑い気味に答えた。「ほら、あそこに警察署があるので、てっきり――」
『なるほど。そう言われれば、そんな気がしないでもない』と、頭の中で疑問符が行ったり来たりする感覚に襲われながら小張は想ったが、
「それで、ちょっとお訊ねしたいことがあるんですが……」
と、男性が言うと、警察官・公務員としての責務を思い出した以上に「お巡りさん」と呼ばれたのが嬉しかったのだろう、
「はい!なんでもお訊ねください」
と、新卒警官のような初々しさを持って――或いは『森羅万象どんな疑問にもお答えしてやろう』ぐらいの気持ちで――応えた。
が、ただ、そんな小張の気概や初々しさも空しく、この時の男性の質問は、
「この辺りで一番近い銀行を教えてもらえますか?」
と云う、とても簡単なものだった。