午前の授業
「ではみなさんは、そういうふうに他の人類種に比べてもこれといった強みを持たず、とくに精巧な道具も作らず、格別な偉業を成し遂げたりもしなかった我々サピエンス種が、如何にして他の人類種を葬り去ったかご承知ですか」先生は、自前の携帯型プロジェクターで黒板に映した大きな人類系統樹の、下から上へ大きく広がったかと思うと急にシュッ。と絞られたような形になっているところを指しながら、みんなに問いを掛けました。
しかし、誰も手を挙げる生徒はいませんでした。ただひとり、木花咲希だけが手をあげようとしていたようですが、急いでそのままやめました。たしか、最近読んだ本に書かれてあったのでしたが、何故、先生が古文の時間にこのような話をし始めたのかよくわからないという気持ちがしたからでした。
ところが先生は早くもそれを見付けたのでした。「木花さん。あなたはわかっているのでしょう」
そう呼ばれて彼女は、つい勢いよく立ち上がってしまいましたが、立ってみるともうはっきりとそれを考えることが出来ないのでした。前の席の浅野正之が、その憎らしいほどに整った顔を咲希の方に向け、彼女を励まそうとでもしたのでしょうか、その憎らしいほどに並びの良すぎる真っ白な歯を見せて彼女に微笑み掛けました。
咲希は、この頭も勘も必要以上に悪い幼なじみの前歯をいつかへし折ってやりたいと思いましたが、そんなことはおくびにも出さずに下を向いて考えているふりをしました。
先生がまた言いました。「どうして、我々よりもずっと強靭で、大きな脳を持ち、暑さにも寒さにも強かったはずのネアンデルタール人たちではなく、我々サピエンス種が生き残ったのか?その差は何でしょう?」
やはり、最近読んだ本に書かれてあった内容だ、と木花咲希は思いましたが、それでも、この話がどのように『源氏物語』につながって行くのかは分からないのでした。
そこで仕方なく彼女は、「それは、今なお、議論が交わされている真っ最中ではないでしょうか?」と、逃げるように答えました。
前の席の浅野が、再び咲希の方を振り向き、小さく親指を立てました。普通の女子なら卒倒するぐらいに彼の笑顔は爽やかでした。
「たしかに」と、先生が言いました。「木花さんの仰るとおりかと思います」
その先生の言葉を聞いて、彼女の前の席の浅野が(以下略)。
「しかし、」と、先生が続けます。「最も有力な答えは、その議論の中にこそあるのでしょう?」
そう言うと先生は、黒板に映した人類系統樹をゆっくり消しながら、次のように言いました。
「つまり、我々サピエンス種は、議論を可能にする能力――その比類なき言語の力によって、世界を征服出来たのかも知れません」
おおっ。と一瞬、教室内はざわめきましたが、そのざわめきと遠い過去を見詰めるような先生の微笑みに抗うように、ひとりの生徒が、おそるおそるといった感じで手を挙げました。
「あの、先生」
「はい?なんですか?」
「その話と紫式部にどのような関係が?」
「いいえ」と、いつものおっとりとした口調をすこしも崩さずに先生は首を横に振りました。「特に関係はありません」
ええっ。と、今度は別の意味のざわめきが教室内にわき起こりました。みな、きっといつかは古文の話につながるとばかり思っていたからです。
「以上のお話は『サピエンス全史』と云う本からの受け売りです」と、先生は続けました。「去年の冬から学校にお願いしていた予算がやっと通りまして、近々図書室に入ることが決まったので、その宣伝です」
はあっ?と、今度はざわめきとは違うため息のようなものが教室中に拡がって行きましたが、先生は動じません。
ジリリリリリリリ。
と、ここで午前の授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、
「と云うことで、今日はここまでです」
と、嬉しそうに先生は言いました。
「良かったな、頑張ったぜ、サキ」と、前の席の浅野がこちらを振り返りながら言いました。宝塚の女役のように長いまつ毛が咲希の気に障ります。
そこで咲希は、その言葉に対する返事の代わりに、手元に置いてあった古文のノートを丸めると、彼の頭を、パシンッ。と叩きました。
「おおっ?!」と、浅野は一瞬驚いた様子でしたが、すぐに彼特有の前向きな思考回路を存分に働かせると、「そうか、分かってくれて嬉しいよ」と、再び彼女に微笑み掛けました。
『あかん、こいつはこういうやつやった』と、木花咲希は、行ったこともないし別に親類縁者もいない関西の言葉でそう想うと、『三十六計逃げるに如かずやで、姐さん』と云う別バージョンの自分の声に従い、鞄からお弁当とスケッチブックを取り出すと、教室を飛び出し、図書室の方へと向かって行きました。
前の席の浅野も彼女の後を追おうとしましたが、他の女生徒たち(複数名)に声を掛けられると、彼女たちを無下にすることも足蹴にすることも出来ず、結局、他の女生徒たち(複数名)と昼食をともにすることになるのでした。