芸術は長く、人生は短い(その2)
*
プルルルル。
と、お店の電話が鳴った。
「ちょっとごめんね」と、咲希。八千代に断ってからペンを置き、カウンター向こうの電話機の方へと歩いて行く。
「いてててて」と、小さい声で呻く八千代。ゆっくりと背筋を伸ばす。こんなに長い時間同じ姿勢になったのはずいぶん久しぶりだ。
『どのくらい描けたのかしら?』と彼女は思うと、椅子から立ち上がり、イーゼル台の方へと向かおうとしたが、そこにカウンターの向こう側から咲希が、
「佐……八千代さん」
と、彼女に声を掛ける。
「なに?」と、八千代。
「叔母さんが忘れ物しちゃったらしくて」と、咲希。「私、ちょっと行ってくるから、お留守番お願い出来る?」
「何分ぐらい?」
「15分ぐらいだと思う。駅前だから」
「分かった。漫画でも読んで待ってるわ」
*
『もちろん』と、騎兵は答えた。『イングランドの土地を六フィート。さらにあの背の高い男のために更に一フィート』
これに対してトスティグは、
『それでは、王にお伝えしろ。我々は死ぬまで闘うとな!』
と、答える。
それを聞いた騎兵は陣地へと引き返して行くが、その後ろ姿を見送っていた味方の男――だったかしら?この辺りよく分からないのよね。説明ページは飛ばしてるから――その味方の男が考え深げにトスティグに訊いた。
『達者に口を聞いたあの男は誰だ?』
トスティグは答える。
『あの者こそ、ゴッドウィンの息子・サクソン王ハロルド。私の兄だ!』
*
「ええ!」佐倉八千代は驚愕した。それと言うのも、カトリーヌ・ド・猪熊先生の代表作『ウェディングメロン―時空の旅・英国編―』で、生き別れだった兄妹――猪熊先生の世界線ではトスティグは男装の麗人となっている――が戦場で再会するとは思ってもいなかったからであり、しかも、ここで『次巻に続く』となっていたからである。
「だめ、猪熊先生、神!!」と、ひとり八千代が見悶えていると、そこに、
トントン。トントン。
と、お店のドアをノックする音が聞こえた。
そこで八千代は本を置き、入り口の方へと向かい、お店の青色のドアをゆっくりと開けた。
カラン。と、ドアのカウベルが小さく鳴り、ドアの前に一人の女性が立っていた。
女性は、予想していたのとは違う人間が出て来たからだろう、少し戸惑った様子だったが、すぐに気を取り直すと、
「おじょうちゃん、ひとり?」と、訊いた。「お店の方は?」
「ちょっと、出掛けてまして……」
そう八千代が答えるが早いか、女性はツカツカと店の中に入って来ると、例の川と橋の絵の前に立ち、
「この絵」
と言うと、それから、八千代の前に銀行の印が入った封筒を差し出し、
「ここに50万あるわ」
と、言った。
「え?あの……?」
と、八千代は戸惑っていたが、女性は立て続けに、
「手付け金よ」と言った。「売ってくれるのなら、更に50万払うわ」
「え?でも……」
「それでも足りないようなら、いくらなら売れるのか聞いておいて」
女性はそう言うと、八千代の返事も待たずに、
「また、明日、この時間に来るわ」
とだけ言い残して、店を後にした。
この女性の態度は、いつもの八千代ならば、すぐにでも腹を立ててしまうようなモノであったが、絵が売れた嬉しさだろうか、それともその女性から『つかれる感じ』を受けなかったからだろうか、何故だか彼女は、怒りよりもむしろ……女性から受けた若干の哀しみのようなものを感じていた。
また、この絵を求めた女性の方も女性の方で、八千代の態度に若干の違和感を感じていた。意識的に能力を抑えてと言うものの、それでもやはり、彼女の応対があまりにも自然だったからである。