『第一幕 第三場』より
「それで?」と、車の助手席に乗り込みながら河井保美が訊いた。「山崎さんのリアクションは?」
「リアクションと言われてもな、」と、車のエンジンキーを押しながら河井教授は答えた。「彼も、私に似て剛毅朴訥なところがあるからな――」
娘は、自分に何の断りもなくひとの気持ちを相手に伝えてしまったと言うこの父親に明らかな憤りを覚えていたし、また同時に、若干の感謝を感じてもいた。剛毅朴訥と朴念仁との違いは、傍から見ただけではよく分からないことも多いからだ――彼は一体、自分のことをどのように想ってくれているのだろうか?
バタン。と、車のトランクルームの閉まる音がした。
「全部、積み込んだか?」後ろを振り返り、教授が言った。「《帆は風をはらみ、なんじを待っておるぞ。》」
すると、車の外から、「《もう必要なものはすっかり積み込んだ。》――大丈夫ですよ」と云う声がした。
そうして、カチャリ。と云う扉を開く音が聞こえ、グレーの背広を着た若い男性が後部座席に乗り込んで来た。「《それでは、ほんとうに行かせていただきます。》」
「忠告はしなくて良いの?」と、保美が父親の方を見ながら訊いた。
すると、その若い男性は、「ご忠言なら、昨晩、いやと云うほど聞かされたよ」と、前方座席の二人の間に、その浅黒い顔を入れ込みながら言った。
すると教授は、「ならば匡保、《もう時間もない。さあ、行け。供のものも待ちくたびれているぞ》」と、少々はしゃぎ気味に言った。
しかし、そう言われた当の息子は、「いや、父さん。もう良いだろう?」と、いささか冷めた調子で応えた。「それよりも、保美の恋人について聞かせてくれよ」
「ちょっと!」と、保美が照れ隠しするような声で言った。「そう云うんじゃないわよ――」
「おい、二人とも」父親が口を挟んだ。「出発するので、シートベルトを」
*
「山崎って、」と、窓外の景色を眺めながら兄が訊いた。「――英文学の?」
「そうだ。」と、バックミラー越しに教授が答える。「保美がぞっこんらしい」
「ちょっと!お父さん!」
「まあ、僕としては嬉しいけどね」と、兄。「あのまま恋はしないのかと思っていた」
この言葉に、車内の空気は一瞬止まりそうになった――が、そうはさせじと、
「彼なら大丈夫だろう」と、父親が言った。「――私の若いころによく似ている」
気の利いた――とは言い難いセリフではあったものの、時が止まるよりは良かったのだろう、それを受けた兄が、
「それは、母上のご意見を聞いてみたいところですな」と、言った。
「なあに、女の意見なぞ聞かなくとも、彼の仕事を見れば分かる」
「父君こそ、彼に恋しておられるようだ」
「なるほど――では、保美の一番の恋敵は私だな」
「相手にならないわ」娘が返す。
「そうかね?」と、父親。
「先ず、お母さんが許さないわ」
「なるほど」
「それに、年の差だってあるし」
「たしかに」
「だが、そこにこそ注意は必要だ」と、妹の身を案じながらだろう、兄が口をはさんだ。「そのお前の気持ちこそ、《早咲きのすみれのようなもの、早く開くが、永くは続かず。甘く響くが、その場限りの儚い香り》かも知れない」
「そんなことはないわ」と、妹は答える。
「だと良いがね」と、兄は言う。「いずれにせよ、《用心こそが最上の安全弁》。若さに足をすくわれないようにな」
「それは、兄さんこそ」
「ぼく?」
「むこうの学校で、変な人に捕まらないでよ?」
「ハハハハハ」と、突然、教授が笑い出して言った。「たしかに、私としても、どちらかと言えば匡保の方が心配だな」
「ちょっと、父さん……」
「まあ、だが、いずれにせよ。《the noble mind》。良いか二人とも?《もっとも大切なことは、》だ。《己に忠実たれ。この一事守れば、夜が昼に続くがごとく、万事自然に流れ出し、他者にも忠実にならざるをえないと云うもの》」と、大学の講義さながらの威厳と口調で教授が言った。「良いか?匡保、保美。《では、行け――私の言葉が、お前たちの胸のうちで実を結ぶようにな》」
それから教授は、更に高らかな声で笑うと、二人の先行きを祝福した。
空港までの道のりは、いつもとは大きく異なり、大変に空いていた。