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Thank you for being there.(Part2)

 テーブルに一組の男女。母子ででもあろうか、年嵩の女が台所から食べ物や飲み物などを運び、何やかやと若い男に声を掛けている。

 しかし、声を掛けられている若い男の方は、テレビを見るでもスマートフォンをいじるでもなく、かと言って、食事の準備を手伝うでもなく、ただただ、女のことを見詰めていた。


「ごめんなさいね」と、年嵩の女が言った。「ありものばかりになっちゃって」

「そんなことないですよ」と、若い男が返した。「お昼時に、突然来たのは私ですし」

「お父さんもいればよかったんだけど」

「いないのが分かってて来ましたから」

「そうなの?」

「そうなんです」

「お味噌汁は?」

「いえ、結構です」

「たまご焼き、甘くし過ぎたかしら?」

「そんなこと、とても美味しいですよ」

「本当に?」

「本当ですよ」

「この干物、佐藤さんのお土産なんですよ」

「じつは、干物は苦手で」

「あら、それは困ったわね」

「身を取るのが、どうも」

「ほぐしましょうか?」

「是非、助かります」

「お土産なんですよ」

「熱海かどこかですか?」

「湯河原だったかしら?」

「いいところですからね」

「行かれたことあるの?」

「何度か、お誘いを受けて」

「あら、おもてになるのね」

「男にですよ」

「奥さまは?」

「いないんです」

「もったいない」

「相手はいますが」

「なら急がないと」

「相手次第ですかね」

「……お醤油いる?」

「是非、お願いします」

「なら、取って来ますね」


 そう言って年嵩の女は立ち上がり、台所の方へと戻って行った。

 若い男の方は、台所に向かった年嵩の女の後ろ姿を見送りながら、彼女がほぐしてくれた魚の身を、醤油も付けずそのまま食べてみた――小骨が一本残っていたが、不思議と嫌な感じはしなかったし、殺してやりたいと云うような衝動も、彼には珍しく少しも起こらなかった。


「あなた、お名前を聞いたかしら?」と、台所の女が訊いた。

「それは、お伝えしていませんから」テーブルの男が答えた。

「それは、困ったわね」醤油の瓶に新たな醬油を足しながら女が言った。

「それでは、なんてお呼びすれば良いのか知らん?」しかし、瓶の中身は十分に残っていて、女は奇妙な感じを覚えた。

「なんでも、あなたのお好きなように呼んで下さい」男が言った。


「それは、困ったわね」醤油の瓶を片手に、女がテーブルに戻って来た。


「いつもは、何て言われてるの?」

「いつもは、何とも呼ばれてません」

「そうなの?」

「そうなんです」

「だれからも?」

「最近はとくに」

「最後に呼ばれたのは?」

「先ほどお話した女性で」

「結婚されたいのよね?」

「御仲人を頼みたいほど」

「ま、頼まれようかしら」

「まあ、相手次第ですが」

「お相手のお名前は?」

「それは内緒なんです」

「内緒?」右耳に着けた補聴器を軽く叩きながら女が訊いた。

「フラれたら恥ずかしいので」

「ま、フラれるはずがないわ」

「本当に、そう思われますか?」

「そうですよ。こんな佳いひと」


 彼と彼女の食事は、こんな調子であるから、遅々として進まない。年嵩の女は、引き続き若い男の干物の身をほぐしてやっている。若い男は、そんな彼女に抱き付きたくなる気持ちを上手くかわすと、年嵩の女に軽い会釈を送った――痕跡を残すようなことになっては、この素敵な老婆を殺してしまわなければならなくなる。


 それから数十分が過ぎ、この異様な会食は、ごく当り前に、静かに、敢えて言えば、若い男の望んだとおりの和やかさの中に終わった。


 洗い物を片付けて、年嵩の女がテーブルに戻って来た。

 若い男の方は、またしても、テレビを見るでもスマートフォンをいじるでもなく、かと言って、後片付けの手伝いをするでもなく、ただただ、彼女のことを見詰めていた。


「そうそう」と、思い出したように年嵩の女が言った。「お薬を飲むんだったわ」


 彼女は、テレビ台の上に置いてあったピルケースの中から、青と赤の錠剤を一粒ずつ取り出すと、テーブルの上に置き、薬を飲むための水を取りに、ふたたび台所へと戻って行った。


「お薬を飲む前に、お訊きしたいことがあるんですが」テーブルの男が言った。

「はいはい。なにかしら?」そう言いながら女は、手に水を持ったまま、再び席に着いた。

「この女性なんですが」スーツの内ポケットから一枚の写真を取り出しながら男が言った。

「一昨日、こちらに来ませんでしたか?」

「こちらの方?」首に掛けていた老眼鏡を目のあたりに持ち上げながら女が言った。

「あら、おキレイな方ね」

「一昨日、日曜日です」男が言った。

「一昨日、日曜日ね。」女が言った。「――どうだったかしら?」

「来ているはずです」男が言った。

「そうは言われても」女が言った。

「ここで食事を」

「ここで私と?」

「そうなんです。」

「おぼえてないわ」

「そんなことはない」

「ね、ひょっとして」

「はい?」

「お相手の方?」

「はい。」

「なら、しっかり想い出さなくっちゃね」


 年嵩の女はそう言うと、テーブルの上に置いた赤と青の錠剤から、何故だか青い薬だけを手に取ると、それを口に含んだ。そうして、一昨日の昼に自分に青い薬だけを飲むように言った若い女のことを想い出すと、その際の一部始終を男に語って伝えた。


 若い男は、再び、そんな彼女に抱き付きたくなる気持ちを上手くかわすと、年嵩の女に軽い会釈を送り――一昨日の女がしたように、自分のことを記憶から消すよう、年嵩の女に言った。


「ほんとうに、ありがとうございます」


 若い男はそう言って、年嵩の女のほっぺに軽いキスをした。

 キスをされた女は、そこでそのまま目を閉じ眠りに入った。


 それから彼女は、これより数時間後、将棋倶楽部の集まりから戻って来た夫に、眠りを覚まされることになる。が、しかし、この奇妙な会食のことはもちろん、若い男のことも、まったく覚えてはいなかった――ただ、飲み忘れた赤い薬だけが、テーブルの上に残されていた。

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