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最初の線。百一本目の線。

     *


「それから、その子とはどうなったの?」と、逢山美里が訊いた。


 三十分ほど前にはまだ微かに見えていた太陽の光はすっかりと見えなくなり、石神井池沿いの歩道では、そのことに気付き始めた街灯たちが、ほぼ半日ぶりに、ぽつぽつと自分たちの仕事を想い出し始めていた。


 美里は、肩に掛けていた買い物袋から小さな懐中電灯を取り出すと、まっくらな草や、いろいろな形に見えるやぶのしげみの間などを、一すじ白くその灯かりで照らしながら、すっかり背の高くなった姪の横顔をチラ。と見た。


 訊かれた姪――木花咲希は、その叔母の視線に素知らぬふりを決め込むと、「どうなったのって?」と、とぼけた声で応えた。「――なんの話?」


「スケッチブックの子でしょ?」と、問い詰めるでもなく、かと言って賛意を示すのでもなく美里が言った。「モデルになってもらうのって――」ただ、それでもやはり、彼女が感じているであろう嬉しさは、その口調の端々に認められるようである。「いつから描くの?」


 石神井池に沿った、そのまっ暗な松や楢の林を抜けると、にわかに、ガランとした空がひらけ、その星々の下、路の上に、美里の小さな喫茶店はある。


 咲希は、その更に小さな窓の向こうの暗闇に、橋と天気輪の絵を見分けたような気に陥り掛けたものの、まさかこの距離から見えるはずがないと想い直すと、「今日、声を掛けようとしたんだけど、」と、小さく答えた。「――なんだか、ちょっと、悪い気がして」


「悪い?」と、美里が訊き、


「また、誰かに冷やかされるかも知れないし――」と、咲希は答えた。


 カンパネルラか十五夜草かの花が、そこらいちめんに、夢の中からでも薫りだしたというように咲き、白い小さな鳥が一疋、森の上を鳴き続けながら通って行きました。


「それは、違うわよ」と、いつもよりほんの少しだけ強い口調になって、美里が言った。「頼んだ約束を、なかったことにする方が悪いわ」


「でも、」と、咲希が言った。「――うまく描けるか分からないし」遠いところから、列車の走る音が聞こえて来た。


 すると、「それこそ、違うわよ」と、美里が、その電車の音が消えるのを待ってから、先ほどよりも強い口調になって言った。


「うまく描けるか分からないから、描くの。

 うまく描けなくても、最初の線を引くの。

 十本引いて駄目でも、十一本目を引くの。

 百本引いて駄目でも、百一本目を引くの。

 それに付き合ってくれるひとがいるなら、

 それに付き合ってくれるひとのためにも、

 責任を持って描き続けないといけないの。」


 いつの間にかふたりは、その暗闇の中に、満天の星々の下に、ずっと以前からそうしていたかのように、ただただ向かい合い、立ち尽くしていた。


 先ほど見上げた小さな鳥が、今度は街灯りに紛れて鳴いているのが聞こえた。


 その声に正気に戻されて美里は、いまの自身の発言の恥ずかしさに気が付くと、こちらを向いている咲希から顔を背けると「――でも、まあ、それでうまく描けるとは限らないし、」と、何かを誤魔化すように言った。「私みたいに、まったく売れない人間もいるわけだし――」


 そう言う美里の言葉に咲希は、必死でそれを否定する言葉を想い出そうとした。


 するとまるで、そんな咲希の想いを遮るように美里が、「学校だと恥ずかしいんなら――」と言った。「うちの二階を使っても良いわよ」


 そう言われて咲希は、突然、とても自分が恥ずかしい人間であるような気分になってしまい、そして今度は、必死でその気分を否定するような言葉を想い出そうとした。


 するとまるで、そんな咲希の想いを遮るように、彼女の目の端に、ひとつの人影が入り込んで来た。


 ぬれたようにまっ黒な上着を着た、せいの高い男の人が、美里の喫茶店の窓の外から、その店の中を見ているようだった。


 そのまっ黒な影に驚いた咲希は、「おばさん……」と、未だ顔を背けている美里の肩を軽く叩くと、「誰か、お店の前にいるみたい――」と、小さく言った。


 美里の持つ懐中電灯が、その黒い影を照らし出した。その日の昼、河井教授とともに店を訪れた若い男――山崎和雄だった。


     *


「あの絵をゆずって欲しい?」と、驚いた口調で美里が訊いた。一体、何の冗談だろうか?


 すると山崎が、「ええ。ただ、絵の相場とかは分からないのですが――」と、他意も悪意もないと云った口調で答えた。「是非、お譲り頂きたい――と」訥々……と云うよりは、言葉と慎重に接して来た人間に特有の話しぶりだった。


「あの、いえ――相場?」と、困った声で、誰に訊くでもなく美里が言った。


 そんな美里の様子を見て山崎は、「ひょっとして、売りものではないとか?」と、重ねて訊いた。


「いえ、その、そういうワケでもなく……」と、美里。


「確かに、私の給料で高価な買い物は難しいのですが、」と、山崎。


「あの、いえ、まさか、そんな事を言いたいワケではなく……あの、そのう……まさか、買いたいとおっしゃる方がいらっしゃるとは思ってもいなくて……」


「……は?」


「値段、考えたことないんです……」


 そう言うと美里は、恥ずかしさからか、恐縮さからか、顔をまっ赤にして下を向いた。


 二人の間に、しばしの沈黙が起こり、その後、


「でしたら、」と、最初に口を開いたのは山崎だった。


 が、それに被さるように、


「よろしかったら!!タダで持って行って頂いても!!」と、美里は言い、


「いえ、それは出来ません!!」と、山崎が答えた。


 そうしてこの後、二人の会話は平行線を――と言うか、双方の知識不足から一向に線を引くことすら出来ず、取り急ぎ、絵を譲り渡すことだけは決まったものの、その金額や方法については、『後日、日を改めて』――と云うことで、その日は終わることにした。

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