表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
30/86

月曜日の午後、十五時四十分

「ありがとう。」男が言った。「後は、彼女と二人だけにしてくれるか?」――そうして、病室の扉が、ゆっくりと閉まった。

 広く薄暗い部屋のほぼ真ん中に真っ白なベッドが一つ。その上には、色とりどりの管に繋がれた女性……と云うには幼過ぎたのかも知れない花嫁が眠っている。

 男は、花嫁が眠るベッドへ近付こうとしたが、フッと後ろを振り向くと、何か気配を感じたのだろうか、さきほど閉めたばかりの扉のところまで行き、その扉を、三分の一ほど開けた。

 するとそこには、この病院の警備員――さきほどこの男をこの病室まで案内してくれたあの警備員が、前をジッと見据えたままで立っていた。

 男は、その警備員の顔を見、ついで警備員の見ている視線の先を見てから、彼が何も見ていないのだと分かると、「すまない」と言った。「もといたところに戻ってくれ」

 そう言われて警備員は、踵を返すと、言われたとおり、もといたところに戻ろうと、廊下を歩き出そうとしたが、そこで男が、思い出したように、「ああ、ちょっと待て」と言ったので、その足を止め、それに続いて「中に入れ」と言ったので、再び踵を返し、躊躇うことなく、そもそも考えることもなく、病室の中へと入って行った。


 警備員が病室に入り、再び扉が閉まるのを確認してから男は、「帰りの道の案内も必要だからな」と、警備員に言った。「話が終わるまで、ここで、目と口と耳を閉じて、待っていろ」

 すると、言われた警備員の男は、口をキッと締めると、右手で両方の目を、左手で右の耳を押さえた格好でその場に立った。

 そんな警備員の姿を見て、男は何か言いたげな顔をしたが、すぐに諦めた様子で首を振ると、改めて花嫁――いや、花婿は消えたのだから、元・花嫁と言った方が正確だが――が眠るベッドの方を振り返り、コツコツと、こちらもスーツと同じオーダーメイドであろう、淡いワインレッド色の革靴を鳴らしながら、彼女の元へと近付いて行った。


 それから、しばらくのあいだ男は、眠っている元・花嫁の顔を――その右頬の付け根部分に出来た広く深いキズの跡を、しげしげと見詰めていたが、「『ファイトクラブ』のマネでもしたか?」と、小さくつぶやくと、彼女の左の耳に顔を寄せ、「起きろ」と、小さいが甘く優しく強い口調で、言った。「花嫁さん」

 すると、この男の声が聞こえたのだろうか――いや、聞こえないはずはないのだから聞こえたのだろうが、元・花嫁はゆっくりとまぶたを開くと、「こちらを見ろ」と言う男の声に従い、男の声がする方にその瞳を動かした。

「なるほどな――」と、スーツの内ポケットから一枚の写真を取り出しながら男が言った。「素直なのは素直なようだ――アイツが好きそうだ」

 目を覚ました元・花嫁は、未だ頭の中と視界がボヤッとしてはいたものの、男が取り出した写真に、愛しい女性――愛しかった女性の影を認めると、不意に動転し、不意に動揺し、男に何かを叫ぼうとして、そのため起こった右頬の激痛に顔を歪めると、声も出せず、ただただ、歯をかみしめて、痛みが去ってくれるのを待った。

 そんな彼女の様子を見た男は、『なるほど』と云った顔をすると、「これなら、話が早そうだ」と、誰に言うでもなくつぶやいた。

 それから、元・花嫁が写真に視線を戻すのを待ってから、「たしかに、これは君の想っている女の写真だ。私だけが持っている。他には一枚もない」と、写真をスーツの内ポケットに戻しながら言った。

「君が望むのなら、もう少し見せてやっても良いが、私がここに来た理由は三つ。二つが質問で、一つが説明だ。この三つが叶うようなら、君にもこの写真をもう少しだけなら見せてやっても良い――意味は分かるか?協力してくれるよな?」

 そう言われて元・花嫁は、頬の傷の痛みだろうか、胸のキズの痛みだろうか、両の目から涙を流しながら、男の問い掛けに、動かないその首を、必死になって、縦に振って、答えた。

「そうか。素直なのは、素直なようだな」 と、男が言った。「なら、先ずは質問からだ。一つ目『彼女の行き先に心当りは?』、二つ目『どうやって助かったんだ?』――どうだ?答えられるか?」

 この男の問いに、元・花嫁はしばしの間、考え込んでいたが、開き切らない、開くたびに激痛の走るその口をゆっくりと動かしながら、「ひと、つ、め、は……」と、微かな声を振り絞りながら言った。

「なんだ?よく聞こえないぞ?もっとはっきり――」そう男は言い掛けたが、彼女の頬の傷あとに改めて気が付いたのか、チッと軽く舌打ちすると、『気持ち悪いが仕方がない』と云った表情で、元・花嫁の口元に左の耳を近付けた。

「ひと、つ、め……は、わか、りま、せん」元・花嫁が言った。「なに、も……なに、も、おしえ、おしえ、て、く、れま、せん、でし、た」

「そうか。仕方ない。それは最初から期待していない」男が応えた。「二つ目の質問は?」

「か、かの、かの、じょ、ひ、ひな、ひなさ、ひなさん、じゃ、じゃあ、なか、なかった、なかった、の……」元・花嫁は答えた。


 傷が痛むのか、キズが痛むのか、それともわずかながらのプライドだけでものこそうとしたけっかなのか「ひなさん」と云うことばに、すこしでもおもみづけをしようとしたからだろう、そのあとしばらく、なみだもながせないほどにかのじょは、じしんのからだのじゆうがきかなくなった。


「なるほど。」と、そんな彼女のプライドなど分かりたくもないと云った様子で男は姿勢を直すと、「それで言葉がゆるんだんだな」と、そう言って、再び軽く舌打ちした。「彼女らしくもない」

「そ、それ、それ……」と、元・花嫁が訴えかけるような声と瞳で男に詰め寄った――質問には答えた。彼女の写真を見せて欲しい。

 すると男は、「まあ、待て。質問は以上だが、説明がまだ残っている」と、『なんて醜い女なんだ』と、心の底から元・花嫁を軽蔑しながら言った。「――よし。分かりにくいかも知れないが、君にも分かるように言うと、私は彼女を守らなければいけないし、救わなければいけない。守るためには、彼女が不利になる、身に危険が及ぶような要素は、それがどんなにささいな要素でも、取り除いていかなければいけない――分かるな?分かるよな?分からなくても分かったふりをして口を閉ざしていろ」

 すると、元・花嫁の、わずかに開いていた口が、キッと締まった。

「――よし。あー、だから……つまりは、だ。君に残った彼女の記憶、まあ、それと、何故か残った君のいのちは、だ。それは後々の彼女に不利になるだろうし、身に危険を及ぼす要素になりかねない。……流石にこれは分かるよな?君も、彼女を愛していたんだろう?まあ、なら、何故生き残ったのかって話でもあるが…………ああ、めんどうなヤツだ!!」と、男は、ベッド脇に置かれていたヒナギクが数本だけ入った花瓶を窓に投げ付けそうになったが、再び冷静さ――冷静さ?を取り戻すと、手にした花瓶を元に戻し、スーツの右ポケットから取り出したハンカチで丁寧に指紋を拭き取ると、「だから、これは、私がしたくて、するわけじゃない」と、言った。

「君と彼女の後始末だし、君が素直に身を引かなかったことがそもそもの問題で、わたしはこれっぽっちも悪くない。…………分かるな?分かるよな?分からなくても分かったフリはしておけ」

 元・花嫁の、動かすたびに激痛の走る首が、ゆっくりと、彼女の意はさておいて、ふたたび縦に動いた。

「……よし。なら、この後――それはつまり、私とあそこの警備員がいなくなってから、と云う意味だが――君は、そこの窓を開けて、ポイッと、その体を下の地面に叩き付けるために飛び出す。この下なら、宅配便のトラックが止まることもないし、生垣や君を助けてくれそうな木々もなければ、人もほとんど通らない。医師と看護師を動かして、そう云う場所に君の病室を移動させておいたからな」

 ここまで言うと男は、部屋の隅に立っている警備員の方を振り向き、「おい、そろそろ戻るから、出口まで案内してくれ」と、言った。

 それから、警備員の立っている出口の方へと向かおうとしたが、その途中で、想い出したように踵を返すと、元・花嫁のいるベッドのところまで戻って来て、「あと、これはものすごく大事なことだが――ものすごく大事なことなので一回しか言わないが、間違っても『生きよう』なんてことは考えるな。『確実に死のう』――これだけを考えろ。これが大事だ。…………分かるな?分かるよな?分からなくても分かったフリはしておけ」と、彼女に念を押した。

 言われた元・花嫁は、ふたたび、動かすたびに激痛の走る首を、ゆっくりと縦に動かすと、「わか、り、まし、た」と、男にも自分にも聞こえない声で答えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ