『第二幕 第二場』より(その2)
「上演することはないにしても――」と、黒パンの端をちぎりながら教授が訊く。「翻訳そのものは、みな楽しんでいるんだろう?」
そう訊かれて山崎は「そうですね――」と、少し言葉を選んでから、「みなさん演技自体をしたことがないというので当初は戸惑っていたようですね」と、言った。「ただ、翻訳そのものになると、流石になかなか鋭いことを言われることもあります」
「聞いたよ。《the noble mind》。保美が感心していた」
「ああ、あれこそ、オフィーリア――保美さんとハムレットの末岡くんのお手柄でして……。やはり、演じる立場に立ったほうが理解は深くなりますね」
「なるほど。《あの連中にまさる名優はござりますまい。》……かね?」
「《セネカを演じて深刻に陥らず、プロータスを演じて軽薄に流れず、杓子定規な台本も、自由闊達即興芝居も……》なんでしたっけ?」
「《出来ぬことなどなき名優。真実、彼らこそが天下無双の第一》……《天下無双》は微妙だな……ちょっと、待て。それでは私がエフタになってしまう」
「しかし、《なんとも見事な宝をお持ちだ》」
「《宝、それはどのような?》」
「《One fair daughter and no more,》」
「《The which he loved passing well.》……それ、そのことだよ、山崎くん」
「はい?」
「どうも娘は……保美は、君のことを……いや、その……君に好意を……寄せているようなんだ」
*
「もちろん、だからどうしてくれと云うつもりでもないのだが、」と、レジで会計を待ちながら教授が言った。「《ノミにも食わせまいとする》バカな父親として、伝えずにはおられなかったのだよ」
「それは……」と、オフィーリア役の保美の笑顔を想い出しながら、山崎は、せめて何かひと言だけでも言葉をつむごうとして「その……大変、」と、言い掛けた――が、その時。
フッ。と、見るともなしに見ていたお店の壁に、一枚の絵を見付けてしまった。川と橋と、花とゴショシャの描かれた絵だった。こころが動きを止めた。言葉がつむげなくなった――いや、いつものような、いつわりばかりの言葉をつむいではいけないように彼には想えた。
「ここの主人の絵だよ」と、教授が言った。「私も、あの天気輪と東菊の対比が前から気に入っていた」
「……天気輪?」と、どうにかして正気――正気?を取り戻そうとして、山崎は訊いた。
「ほら、カラカラと廻す」と、教授。
「ああ……私の田舎だと――」と、山崎が話を続けようとしたところで、
カラカラン。
と、喫茶店『シグナレス』のカウベルが鳴り、4~5人の学生たちが一斉に店へと入って来た。そのため、『シグナレス』の店内は急に賑やかさを増した。
「山崎くん。そろそろ行こうか」と、学生たちのほうを見ながら教授が言った。
この言葉に山崎は、扉のほうに足を向けようとしたが、どうも体が言うことを聞いてくれない。
「そんなに気に入ったのかね?」教授が訊いた。
そうして山崎は、どうにかこうにか右の足を店の床から切り離すと「あ、いえ、はい」とだけ言った。「むかし、見たような気がしたもので」――ほんの少し、真実が混じってしまった。