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月曜日の朝、五時四十五分

「ええっと、それで……誰だったかな?」男が訊いた。

「……田中、です」

「田中……下の名前は?訊いたっけ?」

「……おさむ、です」

「田中おさむ……ああ、そう言えば最初に訊いたな。おさむ……?どんな字だ?……これも訊いたっけ?」

「……いいえ。訊かれていません」

 そう田中おさむに答えられて、男は一瞬動きを止めたが、それでもいくらか自分を抑えると、

「なら、教えろよ」と、皮肉ともほほえみとも付かぬ表情で言った。

「……『修学旅行』の、『修』です」

「ああ、」男はそう言うと、持っていたコーヒーカップをポイッ。と、田中修の方に投げ捨てた。「修学旅行には行っていないんだ」

 それから、投げ捨てられたカップは、田中修の額に当たり、そのまま彼の膝の上に落ちた。

 投げ捨てられたコーヒーカップが額に当たった田中修は、それでも、胸の高さに上げていた両方の手で、今まさに落ちようとするそのカップをつかもうとはしたものの、その手を動かすことも、体そのものを動かすことも止められていたため、カップはもちろん、カップの中に入っていた淹れたての熱いコーヒーについても、ただただそのまま、自身の膝で受け止めることしか出来なかった。

「あっ、」と、田中修は叫び声を上げそうになったが、ここでもまた、聞かれたこと以外を口に出すこと自体を止められていたため、それ以上は口を動かすことも出来なかった。

「その言葉以外で説明出来るか?」部屋の出口のほうに向かいながら男が訊いた。

 が、しかし、田中修は、膝の上に落ちた熱い液体のせいで上手く答えることが出来ないでいる。

「うん?」と、田中修の方を振り向きながら男が言う。「私の質問が聞こえなかったのか?」――腹立たしいが、コーヒーを入れ直さなくてはならない。

「……しゅ、『修行』とか『研修』とか……」と、熱さに耐えながら田中修は答える。「……の、『修』の字……です」

「ああ、」出口扉のすぐ傍に置かれたコーヒーメーカーに手を伸ばしながら男は言う。「あれで『おさむ』って読むのか」コーヒーメーカーの横には白と黒の二つのカップが置かれているが……。「……なんだか大変そうな漢字だな」男は、白い方のカップを選んだ。


     *


 月曜日の朝、五時四十五分。

『先週後半から妙なことばかり起きている』と、田中修は思った。入居者の一人が突然消えたかと思うと宅配便のトラックの上で見付かったり、その件で訪ねて来た若い刑事は若い女の匂いがどうこうとか言い出したり、自分は自分で、その『見たこともない女の顔』が頭の中を行ったり来たりして、恐怖で目覚めることもある。――それから、そうして、極め付きは、昨晩現れたこの男だ。


     *


「実際、修行のような人生だったりするのか?」コーヒーに角砂糖を一個、二個、三個、四個……と、足しながら男が訊く。……七個で止めておこう。

『いまが、まさに、そんな感じだ』と、田中修は答えようとしたが、もちろん、そんな風に口は動いてくれない。

「どうした?答えられないのか?」と、男が言った。ひょっとすると、『男が本当に訊きたいこと』以外、田中修は答えられなくなっていることに、この男自身も気付いていないのかも知れない。

「……まあ、いいか」砂糖は入れたが、かき混ぜるためのスプーンがもうない。最後の一本は、さっきのカップと一緒に床に落ちたのだった。

 プチン。と、男の中で何かが切れた。持っていた新しいコーヒーカップを、管理人室の壁めがけて思い切り投げ付けた。

 ドンッ。と云う鈍い音が部屋中に響き、砂糖だらけのコーヒーがそこら中に飛び散った。

「うーーん。うんうんうん」と、小さな声で男がうなった。それから今度は、まるで何事もなかったかのように、「では、話を本題に戻そう」と、言った。

 そうして、多分オーダーメイドであろう紺地に薄く黒ステッチの入ったスーツの内ポケットに手を入れると、男は中から一枚の写真を取り出し、「この女を見たか?」と、田中修の顔にその写真を近付けながら訊いた。

「……」

「正直に言って良いぞ」少し柔かくした声で男が続けた。

「……記憶には、ないです」

 プス。と、小さな音がした。

 つい先ほどまで、田中修の胸ポケットに刺さっていたはずの黒のボールペンが、今度は彼の左の太腿に刺さっていた。

「……!!」

 が、もちろん、田中修は、男の気に入らない声を出すことを止められている。

「『見たか?』と訊いた」田中修の胸ポケットから、今度は赤色のボールペンを抜き取りながら男が言う。「『記憶にない』と『見ていない』とは違う」

 男は、左手で田中修のあごの先に触ると、くいっと十五度ほど持ち上げた。男の右手のボールペンは、田中修の右目の真下を狙っている。

「もう一度訊くぞ?」優しい、上質のシルクが溶けていくような声で男は言った。「『この女を、見たか?』」

「……」ボールペンの先が田中修の目の焦点から外れた。

「ブロックを掛けられているだけだ……」耳の奥に甘い何かが拡がって行く。「ようく、自分の頭の中を探せ」

 田中修の頭の中に『見たこともない女の顔』がぼんやりと現れて来た。写真よりも年上には見えるものの、確かにこの女だ。

「な?」男が訊いた。

「…………はい」

「いたか?」

「木曜?の、夜?このマンションに、来まし、た?…………来ました!見てます!見てます!」

「だろう?」

「写真、とは、少し違っていましたが」

「そうか!」男が初めて喜びの表情を見せた。「どんな風に違っていた?」

「髪は、下ろしていました」

「そうか!」男はそう言うと、持っていたボールペンを自分の胸ポケットに入れた。「長かったか?短かったか?」

「……肩?ぐらいの?長さでした」

「そうか!少し切ったんだな。他には?!」

「……メガネ?は?掛けていませんでした」

「ようし!私もこの黒縁メガネは嫌いだったんだ!他には?!」

「……写真よりも、少し、大人びてらしたような……」

「ううん。まあ!」と、写真を見直しながら男が言う。「あれから三年だからな!!他には?!」

「…………」

「ああ!もう!!服は?!」

「……薄い?茶色の?ワンピース?でした」

「丈は?!長かったのか?!短かったのか?!」

「……膝の?少し?上ぐらいだったでしょうか?」

「長くも短くもない感じか?!」

「……そう?ですか?ね?」

「ああ!!佐久間、佐久間、佐久間、佐久間、佐久間!!他には?!!」

「…………他?」

「声は?!私のことは何か話してたか?!」

「……私?は?案内?を?しただけなので……」

「声ぐらいは聞いただろう!!」

 田中修は、必死で、その時の女の声を想い出そうして、奇妙なことに気付いた。

「……柔かい?気持ちの良い?……あなたに似た?声でした」

 田中修がそう言うと、男はまるで、今にも泣き出しそうな顔になって、小さく、何度も何度も何度も、女の名前を繰り返した。

「……それから?」と、田中修が続ける。「ある男性の?部屋を?訊かれた?ので――」記憶が徐々に鮮明になって来ているのが分かる……が、これがいけなかった。

「おい」上質のシルクに細い細い針を隠したような声で男が言った。「誰がそこまで言えと言った?」

 再び、田中修の口が動くのを止められた。

「それじゃあまるで、彼女の意思でその男の部屋に行ったみたいに聞こえるじゃないか」

 細い細い針の数が急速に増えて、冷えて行くのが分かった。

「じゃあ、お前は!……ああ?名前はなんだったっけ?!修学旅行がどうかしたんだったっけか?!ああ?!お前は、お前は、お前は……彼女が?そんな?夜に?男の?マンションの?部屋へ?!例えそれが男色専門のクソ野郎だとしても?!あいつが!あいつが?あいつが?!ひとりで行くような女だとでも言うつもりか?!」

「わ、わたしは、そんなこと……」

 プサリ。と、小さな音とともに、赤いボールペンが、田中修の左の目元に深く深く差し込まれた――が、もちろん、彼は声を上げることを許されていなかったし、その舌もこの後自分で噛み切ることになっていた。涙が出そうだった。

 それから男は、そんな田中修には目もくれず、『佐久間』と呼ばれた女性の写真を、しばらくの間、愛おしそうに見詰めていたかと思うと、ふたたび、その写真をスーツの内ポケットに大切にしまい、「私が、救いに来たんだ」と、誰にも聞こえない声で、そっと、つぶやいた。

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