Thank you for being there.(Part1)
テーブルに女が二人。親子ででもあろうか、年嵩の女が台所から食べ物や飲み物などを運び、何やかやと若い女に声を掛けている。
しかし、声を掛けられている若い女の方は、テレビを見るでもスマートフォンをいじるでもなく、かと言って、食事の準備を手伝うでもなく、ただただ、彼女のことを見詰めていた。
「ごめんなさいね」と、年嵩の女が言った。「ありものばかりになっちゃって」
「そんなことないですよ」と、若い女は返す。「お昼時に、突然来たのは私ですし」
「お父さんもいればよかったんだけど」
「いないのが分かってて来ましたから」
「そうなの?」
「そうなの。」
「お味噌汁は?」
「いただきます」
「たまご焼き、甘くし過ぎたかしら?」
「そんなこと、とても美味しいですよ」
「本当に?」
「本当に。」
「この干物、佐藤さんのお土産なのよ」
「佐藤さん、旅行にでも行かれたの?」
「熱海……湯河原だったかしら?」
「熱海……いい所らしいですね。」
「あなた、行かれたことは?」
「それが、旅行はまったくで」
「そう?お若いのに」
「色々と、忙しくて」
「そうなの?」
「そうなの。」
「お醤油いる?」
「お願いします」
「じゃあ、取って来るわね」
そう言って年嵩の女は立ち上がり、台所の方へと戻って行った。
若い方の女は、台所に向かった年嵩の女の後ろ姿を見送りながら、四角い皿に置かれた干物の身を取ろうとしたが、丁度一番固いところに当たったのだろう、どうも上手くはほぐせなかった。
「あなた、お名前を聞いたかしら?」と、台所の女が訊いた。
「それは、お伝えしていませんから」テーブルの女が答えた。
「それは、困ったわね」醤油の瓶に新たな醬油を足しながら女が言った。
「それでは、なんてお呼びすれば良いのか知らん?」
「なんでも、あなたのお好きなように呼んで下さい」
「それも、困ったわね」醤油の瓶を片手に、女がテーブルに戻って来た。
「いつもは、何て言われてるの?」
「いつもは、人によって色々です」
「最近呼ばれた名前は?」
「ヒナとか、直人とか。」
「直人?」右耳に着けた補聴器を軽く叩きながら年嵩の女が訊いた。
「あなたは、女のひとよね?」
「自分では、そのつもりです」
彼女たちの食事は、こんな調子であるから、遅々として進まない。年嵩の女が若い女の干物の身をほぐしてやった。若い女は、そんな彼女に抱き付きたくなる気持ちを上手くかわすと、年嵩の女に軽い会釈を送った――痕跡は、可能な限り、残さないようにしなければならない。
それから数十分が過ぎ、この異様な会食は、ごく当り前に、静かに、敢えて言えば、若い女の望んだとおりの和やかさの中に終わった。
洗い物を片付けて、年嵩の女がテーブルに戻って来た。
若い女の方は、またしても、テレビを見るでもスマートフォンをいじるでもなく、かと言って、後片付けの手伝いをするでもなく、ただただ、彼女のことを見詰めていた。
「そうそう」と、思い出したように年嵩の女が言った。「お薬を飲むんだったわ」
彼女は、テレビ台の上に置いてあったピルケースの中から、青と赤の錠剤を一粒ずつ取り出すと、テーブルの上に置き、薬を飲むための水を取りに、ふたたび台所へと戻って行った。
「これはなんのお薬なんですか?」テーブルの若い女が訊いた。
「糖尿病と……何だったかしら?」台所から年嵩の女が答えた。
「そうしたら、お願いがあるんですけど」若い女が言った。
「はいはい。なにかしら?」そう言いながら、水を持った女は席に着いた。
「この青いお薬」若い方の女が言った。
「この青いお薬」年かさの女が言った。
「これを飲むと」
「これを飲むと」
「わたしのことを」
「あなたのことを」
「あなたはわすれます」
「わたしはわすれます」
「さあ、飲んでください」
「さあ、飲んでみますね」
年嵩の女はそう言うと、青い薬だけを手に取り、それを口に含んだ。
「さよなら、ママ。」若い方の女が言った。
「さよなら、ママ。」年かさの女が言った。
「ママにまた会えて、とてもうれしかったわ」
「ママにまた会えて、とてもうれしかったわ」
「さよなら、ママ。」
「さよなら、ママ。」
「ほんとうに、さよなら」
若い女はそう言って、年嵩の女のほっぺに軽いキスをした。
キスをされた女は、そこでそのまま目を閉じ眠りに入った。
それから彼女は、これより数時間後、町内会の集まりから戻って来た夫に、眠りを覚まされることになる。が、しかし、この奇妙な会食のことはもちろん、若い女のことも、まったく覚えてはいなかった――ただ、飲み忘れた赤い薬だけが、テーブルの上に残されていた。