『第一幕 第一場』より
「《誰だ?》」林の奥で男が言った。
その声に男性はしばし動揺したものの、奥から出て来たその顔が、見知った顔だと見て取ると、木のベンチから立ち上がり、「《なに?貴様こそ。》」と応えた。「《動くな、名前を言え。》」
その日の夜明けは一時間も前に過ぎていて、互いの顔はハッキリしている。それに、そもそもここに自分を呼び出したのはあの男だ。が、しかし、それでも、この世界での物事は順番通りに進まない。《なにかが腐っている》国が舞台だからだ。
「《わが君の長寿と繁栄を!》」林の側の男が言った。
言われた男性は、それに応じるように、「《バーナードか?》」と、体を少し男のほうへ傾けながら言った。
「いいや、浅井だ」男が応えた。「《よく来てくれた。時間どおりだ》」そう言いながら長く伸びた髪の毛をかき上げてはいるが、実はどちらも十五分ほど早い。
「もうすぐで六時だな」と、上着の左ポケットから女物の腕時計を取り出しながら浅井が言った。「店ももうじき開くだろう」
「《ありがたい。なにしろひどい寒さだ》」男性が答えた。
「そうか?大分温かくなって来たじゃないか」と、浅井。
「《それに、気鬱になってしようがない》」
「大丈夫か?」浅井は言い掛け、そうして気付いた。自分が始めた遊びを彼はまだ続けているのだ。そう云うことならば――、
「《なにも異常はなかったろうな?》」と、浅井は続け、男性に歩くようにと促した。
「《ねずみ一匹出なかった》」公園の出口に向かいながら男性が言った。
「《そうか。では、休憩してくれ》」と、浅井。「《途中でホレイショーとマーセラスに会うかも知れないが、今夜の見張り仲間だ。急いで来るよう……》」
と、ここで浅井はセリフを止めた。小道の向こう、公園の入り口側からジョギング姿の若いカップルが走って来たからである。
しかし、浅井の友人・山崎和雄は、いたずらを仕掛けようとする子どものような顔になって、「《あれがそうらしい》」と、言った。「《止まれ!誰だ?》」
問われた方のカップルは、しかしそれでも、ジョギング用のイヤホンが邪魔をして、この声自体を聞き取れなかった。
道の真ん中を走っていた女性が一瞬、二人の顔を見はしたものの、一緒に走る彼女にそのことを伝えることはなかった。
走り去るカップルの背中を眺めながら「少し、似ていたか?」と、浅井が訊いた。
「いや、」と、走り去るカップルの背中を見るでもなく山崎が返した。「――似ているひとなんかいないよ」