「同じ匂いがしたら、教えて下さい。」
『おかしい……』と、今井登は思った。
いや、飛び降りをしたゲイの中年男性のことがではない。男が男を好きになるのも女が女を好きになるのも男が女を女が男を好きになるのも三次元が二次元を好きになるのも二次元が三次元をすきになるのも各人の人生であるし、内縁の夫を裏切って男漁りをするような男がいたとしてもそれもまた各人の人生であるし、そんな周囲の人間の気持ちなどおかまいなしに好き勝手生きているように見える人間がある日、良心の呵責なり人生の無情なりを知って突然ビルの七階から飛び降りてみたくなることがあっても、それもまた各人の人生ではあるだろう(周りは迷惑だけど)――まあ、もちろん、実はまったく別の理由で空を飛んでみたくなったのだとしても、それにも各人それぞれの理由があるだろうし(スーパーマンにあこがれていたとか)、それもいつかは分かるだろうし、分からなかった時は分からなかった時だろう。
またそれは、いま自分が呼び出された現場で自殺未遂を図った若い女性のことでもない。大変な資産家の家に生まれて何不自由なく生きて来たうえに、中学からの付き合いであるイケメンこのうえない男性と何百万 (何千万?)も掛けた結婚式の直前であったとしても、ついつい魔が差して自作の3Dプリンター銃を造ってしまうことも、その自作の3Dプリンター銃にネット経由で手に入れた実弾を入れてしまうことも、その自作の3Dプリンター銃を結婚式の相手の胸に撃ち込んだり、またあまつさえ、その直後に自分の頭を吹き飛ばしたくなることだって、長い人生を生きていく間には何度かはあるだろう(周りは迷惑だけど)――まあ、もちろん、実はまったく別の理由で銃をぶっ放したくなっただけだったとしても、それにも各人それぞれの理由があるだろうし(『ファイトクラブ』のエンディングに感化されたとか)、それもいつかは分かるだろうし、分からなかった時は分からなかった時だろう。
またそれは、六回の裏になってとうとう一点を取られそうになっている岡田のことでもない。彼はよくやっていると思う。応援もしている。よくここまで0点で抑えたと思うし、どちらかと言うと小川相手に一点も取れない広島打線の方が『おかしい……』とすら思う……が、まあ、野球と政治の話は簡単に炎上するので、職場やSNSではしないのが鉄則だし、こんな小説に作者の野球観を書き残しておくのも如何かとは思う……話が逸れた。
そう。『おかしい……』のは、いま、まさに自分が、この高級ホテルの一室で、殺人事件の調査に当たっていると云う事実そのものなのであって、そのおかげで七回表の広島の攻撃をテレビで見ることもラジオで聞くことも出来なくなっていると云う点である。誰が自分をこの現場にまで引っ張り出したのだ?自分は飛び降り自殺の事件を追っていたのではなかったのか?
「どうかしました?」と、まるで人を疑ったことがないような目で高嶺がこちらを見て来る。
君はよくそんな瞳でよく刑事になろうなんて考えたな――と今井は想ったが、いや、もう一人似たような目をした警察官を彼は知っている。きっと、自分をここに寄越したのは彼女だ。
「いや、なんでもないですよ」と、声も表情も変えずに今井が言った。「で?なにをするんでしたっけ?」
「ああ、はい」と、左手に持っていたスマートフォンを改めて確認しながら高嶺が言う。「『匂いを嗅いで下さい』とのことです」
なるほど。やっぱり石神井のあの人だ。
「まさかとは思うけど……」と、今井。
「そのまさかかも知れないそうですよ」と、高嶺。「『同じ匂いがしたら、教えて下さい』とのことです」
『まさか……』と、正直今井は思っていた。
『またあの人の暴走だ……』と。
ベッドを嗅いでみた。
何も引っ掛かる匂いはなかった。
大きなソファを嗅いでみた。
こちらにも引っ掛かる匂いはなかった。
玄関。キッチン。バスルーム。
どこにも、それらしい匂いはなかった。
『やっぱり、あの人の暴走だ……』
最後に、部屋の奥に置かれていた一人掛けのソファを嗅いでみた。
『おかしい……』と、今井は思った。
今回も、残念なことに、彼女の暴走ではない――少なくとも、その可能性は低くなった。いやな感じがした。あのマンションで嗅いだ女の匂いと、まったく同じ匂いだった。