お店の壁の絵(その1)
「こんにちは、叔母さん」そう言いながら咲希が勢いよく入って来たのは、石神井池近くのある小さな喫茶店でした。そこの三つ並んだ小さな窓の一番左側には空き箱に紫色のケールやアスパラガスが植えられてあって、残りの二つの窓には、今日の強い陽射しのせいでしょうか、日覆いが下りたままになっていました。
「あら、いらっしゃい」と、この店の店主・逢山美里はトマトとニンニクのパスタを作りながら言いました。
「トキワさんのパンと角砂糖を持って行ってくれって」咲希はそう言いながらキッチンの中へ入ると、持って来た紙の袋を小さなキッチン台の上へ置きました。
「そう。いつもありがとうね」と美里が言います。ニンニクの焼けるいい匂いがして来ます。「今日、姉さんは?」
「おばあちゃんのところに行ってる。三時ころには帰ってくるんじゃないかな?」
「鐘田さんの牛乳も?」
「今朝は届いてなかったんだって」
「そうなの?お母さん、あれも楽しみにしているのにね」
「なにか手伝うことある?」キッチンの水道で手を洗いながら咲希が訊きました。
すると美里が、お皿にパスタを盛り付けながら、「なら、これ、運んで貰える?三番さんに」と、言いました。
そう言われて咲希は、キッチン奥の扉に掛けておいた自分用の赤いエプロンを腰に巻くと、カウンターの外に出て、出来上がったパスタを窓際のテーブルへと運びました。まだ十二時を少しまわったところでしたが、それでも、小さな店のテーブル席は、そのほとんどが埋まっています。
「お待たせしました。トマトとニンニクのパスタです」
咲希が向かったテーブルには年配のご夫婦が座っていて、そのご婦人の方が咲希の顔を見るなり、「あら?あなた、木花さんの――?」と、訊いて来ました。
問われた咲希は、そのご婦人の言葉に笑顔で答えると、なにか言おうとしましたが、「やっぱり!すっかり大きくなって!」と、言うご婦人の言葉に、そのタイミングを失くしてしまったのでした。
それからご婦人は、フッ。と思い立ったように辺りを見廻すと、壁に掛けられた一枚の絵を指差しながら、「あんなに小さかったのにねえ」と、言ったのでした。
ご婦人の指差す先には、まだ小さかったころの咲希と、彼女によく付いて廻っていたザウエルと云う名前の、シッポがまるで箒のような近所の犬が描かれていました。
咲希の叔母さんはもともとが絵の先生で、このお店の壁には、この他にも、彼女の描いた絵やスケッチが、所々に飾られているのでした。
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『ガラガラガラッ。』と云う図書室の扉の開く音を、不意に咲希は想い出しました。きっとザウエルのシッポのせいでしょうか。それは昨日の放課後、和泉宏子たちから逃げ出した時の音でした。
「木花さん?」図書室の外には、佐倉八千代が心配そうに立っていました。「――どうやって?」と彼女は訊きました。
しかし、その質問に咲希は答えず、反対に「いつから?」と、彼女に訊きました。
そうして、そう訊いたあとで彼女は、手に持っていたスケッチブックのことを想い出し、今いちばん見られてはいけない相手に、今いちばん見られてはいけない場面を見られていたことに気付くと、祖母ゆずりの真っ白な顔を耳まで真っ赤にしながら、「ご、ごめんなさい」と、誰に謝るでもなく謝り、そのまま階段の方へと駆け出したのでした。
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