『饗宴』と『パイドロス』
ピロン。
スーツの左ポケットが――スーツの左ポケットに入れていたスマートフォンが鳴った。
警視庁の高嶺ユカは、そのメールを見るべきかどうかすこし躊躇っている様子だったが、オーク材もどきの書斎机の前でパソコンを調べていた今井登に、「確認して下さい」と言われると、社長室前の入り口で手を組んで立っている秘書の男性に軽い会釈をしてから、赤のスマートフォンを取り出した。
「多分、石神井のひとからでしょうね」と、パソコンの時計を見ながら今井が言った。「土曜日なのに、さすがの即レスですから」あの人にこの部屋の写真を送ったのは、つい五分ほど前のことだ。
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東京大門にある複合オフィスビル。その四階。ここは、問題の死体・高田保夫が代表を勤める――勤めていたコンサルタント会社である。
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「そのとおりですね」メールを確認しながら高嶺が言う。「石神井の方からでした」
「なにかアドバイスでも?」と、今井。
「《本棚を写メってください》……だそうです」
「それだけ?」と、今井。パソコンの画面から目を離し、高嶺の方に視線を移す。
「あとは、《大変ですけど、お仕事頑張ってくださいね》って、カワイイスタンプが付いてるくらいですけど……見ます?」
「本棚?」と、今井。カワイイスタンプには目もくれずに彼は、今度は高嶺から目を離すと、机の後ろに備え付けられている大きな書籍棚の方へと視線を移した。
「写メりますか?」と、高嶺。
「ええ……お願いします」と、今井。
社内資料のほとんどがサーバー上でのやり取りになっていることは先ほどまでの聴き取りで分かっているし、どうしても紙に出力しておかなければならない役所関係の資料などは別途保管室が用意されているのも、先ほど秘書から聞いた。なので、この社長室にある書籍類は基本的に高田個人のモノと考えて間違いないが……。
「今井さん?」スマートフォンを目の高さに構えた高嶺が今井に声を掛ける。「撮るんで、どいてもらえますか?」
「ああ、すみません」そう言って今井は場所を空けたが、高嶺が書籍棚のガラス戸を閉めたまま撮影しようとしていたので、「扉を開けた状態のも送ってあげて下さいね」と、彼女に注意を促した。書籍棚そのものよりもその中身を知りたいのだろう――と、考えるのが自然だ。
高嶺がガラス戸を開き、ふたたびカメラを構えた。そこに並ぶ本たちは異様にキレイで整理されている。一冊数千円から物によっては数万円はするだろう豪華本ばかりだが、手を触れて読まれたりはしなかったのだろう。知的さをアピールしたい連中が読む気もない本を書棚に並べ立てるというのはよくある話だが、映画や推理小説なんかだと、そこに一冊だけ――。
「まさか?」そう言いながら今井が書籍棚の方へと近付く。
「今井さん?」ふたたびスマートフォンを目の高さに構えた高嶺が彼に声を掛ける。「まだ撮ってないんですけど?」
「ちょっとだけ待って」
一行も読まれていないだろうプラトン全集の、その第五巻の背表紙だけがよく見ると汚れている。
「高田さんは、」と今井が、困った表情を顔に張り付けたままの秘書に訊いた。「読書はよくされていたんですか?」
「さあ……」と、まだ少し女性っぽさの抜け切らない声で彼が答えた。「あまり見掛けたことはありませんが……」
「なるほど。」本棚から問題の第五巻を取り出しながら今井が言った。「しかし、『饗宴』と『パイドロス』には十分な興味を持たれていたようですね」
本の内側には小さな切込みが入れてあって、そこにピタリと嵌まる形で、小さなUSBメモリーが入れられていた。