最憶的故郷
王都から七年ぶりの帰郷。梅の香りの中、初恋の娘に再会にする。
タイトルは白居易の漢詩から。
王都の教坊に勤めて三年、わたしと哥さんは、それぞれの故郷の役人になることが決まった。
「薛梁、元気でやれよ」
哥さんはわたしの肩を叩いた。
「哥さんこそ、ヘマしないでくださいよ」
三年間尻拭いをしてきた身としてはかなり心配である。
「本当に一言多いな」
哥さんが年上のくせに心許ないからだろう。
「あ、そうだ。おまえ、故郷に帰ったら祝言だろう? おめでとう」
哥さんは目を細めた。この人は他人のことも自分のことのように喜んでくれる。
「ありがとうございます」
「本当に他の女に目移りしなかったな」
わたしは一途なんだ! 哥さんが気が多いのだけだ。
「哥さんはもう少し誠実になったほうがいいと思いますが。また振られますよ」
この間も二股がばれて若い妓女に頬を叩かれていた。
さらに目のあたりには墨が塗りたくられていた。禿たちの攻撃にあったのだろう。
「本当におまえ、塾の頃から七年も一緒だったのにつれないな」
「今生の別れということもないでしょう。ぜひ遊びに来てください」
「確かおまえの故郷は西湖のある街だったな。雷鋒塔の白娘子でも拝みに行くか」
雷鋒塔に鎮められているのは白蛇の化身である。
「蛇女でもいいんですか」
「美人なら何でもいい」
「……本当に呆れた」
思わず心の声が漏れたらしい。
「今なんか言ったか?」
「いえ、何も。ではまた」
「うん」
こうして、七年間をともに過ごした兄貴分を後にした。
◆◇◆
七年ぶりの故郷は大して変わっていなかった。行き交う人の中にはたまに知り合いもいて、「おかえりなさい」と声をかけられる。
湖のほとりで、包子をひとつ買って頬張った。なるほど昔と変わらない味だ。
家より真っ先に向かったのは、早咲きの梅の香りが香ばしい、懐かしい邸だった。
小柄な侍女と鞦韆で遊ぶ女性がいた。七年前より大人びてはいるが、笑った顔は相変わらず愛嬌がある。
侍女はわたしに気付いて、鞦韆を止め、「姑娘」と呼びかけた。
後宮では官女でも、ここでは「姑娘」なのである。
「木蘭姐姐、久しぶり」
◇◆◇
地方官になって二年後、「拝啓 哥さん」から始まる流麗な文字の文が届いて、俺は薛梁に会いに西湖の街へ行った。
薛家は大きな門の邸で、街行く人に訊けばすぐに分かった。
あいつ、清貧なふりをして意外と良いところの少爷だったらしい。
門を叩くと、女中のような出で立ちの大女が出迎えた。
「薛梁殿はおられるか?」
薛梁、と言っただけで、女は思い当たった顔になる。
「許さまでしょう? 主人には良くしてくださったようで」
「主人?」
女中ではないのか?
「わたくし、薛家の嫁でございます」
目の前には女将軍のような細くはない細君がいる。背も薛梁とそんなに変わらないだろう。
「珊瑚宮にいらしたそうですね?」
「後宮ではお妃さまの籠担ぎをしておりました」
なるほど、そういうことか。
◆◇◆
「いやぁ、意外も意外よ」
俺は街を歩きながら言った。
「何がです?」
「おまえの許嫁って、それはそれは嫋やかな美女かと思ったから」
「それは哥さんの趣味でしょう? 木蘭はわたしが近所の子供たちからいじめられたときすぐに助けてくれたんです」
「初恋か」
薛梁はこくりと頷く。酒を飲んでもいないのに顔が赤い。
「これが雷鋒塔です」
薛梁は高い楼閣を指差した。
「ああ、これが」
「あそこには白蛇の精が鎮められている、という伝説があるんです」
「白蛇伝だろう?」
「ええ」
「その話をしてくれたのも、木蘭です」
「悲恋伝説だったな」
「ええ」
「美女の伝説に、きれいな湖、素敵なところだな。ここは」
「はい。白楽天もこの地に派遣されましたから。洛陽の都に帰るとき、この地をこう詩に詠みました」
わたしは一度、呼吸を整えて言った。
「最憶是杭州とね」
◇◆◇
「なぁ、また来てもいいか?」
別れ際、俺は薛梁に訊いた。
「急に神妙な顔して何ですか?」
いつも笨っぽいのに気味が悪いとか言われる。これしき慣れっこだ。
「だから、また来ていいか? ここへ」
「ご勝手に」
薛梁は飄々と言いのける。
「それはまたいつでも来いってことだな?」
「だからお好きにしてください」
「だから友達いないんだぞ、おまえ。せいぜい奥方に愛想尽かされないようにな」
「余計なお世話です。哥さんこそふらふらしてないで早く妻帯してくださいよ」
やっぱりかわいくない弟弟である。
天に極楽あり、地に蘇州・杭州あり