第八話 作品を通して知る、姉の想い。
「あああああ! 何も覚えてないっっ!」
公香は、自宅マンションに到着し、布団の中に潜り込み発狂している。平日の夕方ではあるが、ご近所迷惑にならないか、優は困惑した様子であった。
優に連れられた公香は、ベッドの上に座り相変わらずの腑抜けた表情をしていた。そして、我に返り部屋中を見回すと、『伊月先生は!?』と、辺りを探し始めたのだ。トイレやクローゼットの中、複数ある伊月作品をパラパラと捲り始める。
「先生は、本の中にいないよ。栞じゃないんだから」
優は、呆れた口調で、公香の両肩を掴んだ。そして、心ここに在らずの状態であった頃の、公香の様子を説明した。絶句した公香は、布団をまくり上げ、逃げるように布団で身をくるんだ。
「もっと、伊月様と触れ合いたかった! 色々聞きたい事とか、あったのに! 私の馬鹿馬鹿馬鹿!」
伊月様って・・・優は、開いた口が塞がらない。公香は頭の中で、様々なシミュレーションを繰り返していた。その想いを、現実では晴らす事ができず、伊月康介の神格化に拍車がかかったようだ。成就されなかった願いは、深く根を張る。不本意な形で、憧れの人物との遭遇を不意にしてしまった後悔を、公香は発狂という形で埋め合わせする。
そんな公香の様子を眺めていた優は、姉の行く先が不安になった。仕事も辞めてしまい収入もなく、妄信的に作家を追いかけるのではないか。ホストクラブに入れ込んでしまう女性を、テレビのドキュメンタリー番組で見た事を思い出した。このままでは、財産を全投入してしまい、夜の道へと向かってしまうのでないのか。優の妄想力もなかなかのものだが、公香の直情型の行動力も捨て置けない。主要都市で行われる、伊月康介の全てのサイン会へと、馳せ参じるかもしれない。公香一人で行かせるのは心配だけど、仕事を休んで全てに付き合う事も困難だ。
「お姉ちゃん。伊月先生には、また会えるよ。先生の作品を愛し続けていれば必ず。先生は、作品の中にいるんだから。それまでは、陰で応援しようよ。応援していれば、また会えるよ」
「さっき、居ないって言ったじゃないの」
「それは、ページの間には、挟まっていないって事。でも、作品の中には、先生はいるよ。先生の癖とか、息遣いとか感じるでしょ?」
優はベッドに乗り、伊月作品を差し出した。公香は、布団を跳ねのけ、小説を受け取る。活字を目で追い、ウンウンと頷いている。
「きっと、『終電間際の小夜曲』は、私の為に書いてくれた作品なんだよ」
優は、優しく笑みを見せて、小さく顎を引いた。たぶん、そう思っている読者は、沢山いると思う。そう思ったが、優は静かに飲み込む。アーティストやアイドルのライブに付き合いで行った事がある。その時、友人は『私の事を見たよ!』とか『私に手を振ってくれたよ!』など、興奮気味で優に話していた。それに近い感覚なのだろうし、わざわざ楽しんでいる人を、叩き落す必要もない。
現実が正しい訳でもないし、非現実に身を置く事の幸福も、優はよく理解している。
現実世界だけで生きていける程、この世界は優しくないのだから。
現実逃避をしている根暗で、オタクと呼ばれようとも、非現実の世界に救われたのは確かで、そんな優を否定する人間は、決して助けてくれない。少し前までは、姉の公香も否定側の人間だったのだが、今ではこのありさまだ。
理想と現実の境界線を踏み外さなければ、誰に迷惑もかけないし合法だ。用法容量を守って、適度に楽しみましょう。公香には、その事を教えてあげなければならない。
犯罪が起こった時に、ゲームや小説、漫画や映画などに責任を押し付ける風潮に憤慨している。悪いのは、罪を犯した人間であって、作品ではないのだから。だけど、作品世界に没入し過ぎて、足を踏み外してしまう気持ちも分からなくもない。作品世界が、あまりにも素晴らしく、あまりにも居心地が良いのだから。
「『君だけじゃないよ!』って、言ってもらえた気持ちになったの」
公香は、思いを吐露し、涙ぐんでいる。そんな公香の想いを、誰が否定できるのか。優は、そっと公香の頭に手を置いた。姉と妹の立場が逆転しているようにも思えたが、優にとっても公香にとっても、そんな事は関係ない。
窓際の小夜曲の主人公である美幸と、公香は同じような境遇にいた。その事を悟った優は、静かに息を飲んだ。公香は多くは語らなかったけれど、姉と元カレの事情を理解した。だからこそ、この作品に、そして作者に、のめり込んだのだ。
「まさか、お姉ちゃん、し・・・」
「え? 何?」
「・・・ウウン。何でもないよ。ほんと良い作品だよね」
優は、大袈裟に頭を振った。脳裏に浮かんだ言葉を、吹き飛ばそうとするように。
死のうとしたの?
そんな事、聞ける訳がないし、聞きたくない。口角を吊り上げる優に、公香は振り返って満面の笑みを見せる。しかし、瞬間的に幕が下りたかのように、公香は目と口を丸くする。
「どうしたの? 優! どこか痛いの?」
「は? 急に何? 別にどこも痛くないけど」
「どうして、泣いてるの?」
公香が優の頬に優しく触れる。公香が言っている事の意味が分からず、優は自身の顔に触れた。すると、触れた優の手が濡れている。無意識の内に、涙が零れていたようだ。優は、慌てて顔を背け、服の裾で目元を擦った。
「色々疲れたからだよ。眠くなっちゃた」
優は、わざとらしくあくびをする。
先程、どこか痛いの? と、公香に尋ねられた。
きっと、目には見えない部分が、痛かったのだ。




