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第五話 二つの初体験。

「お姉ちゃん? 何回も聞いて、ごめんなんだけど」

「何よ?」

 優は、前にいる公香に、声をかけた。振り返った公香は、首を傾けてから、コンビニで購入したブラックコーヒーのカップに口を付ける。

「こんなに早くから並ぶ意味って、ある?」

 優は、スマホの画面を公香の顔の前に押し出した。画面には、9時10分と表示してある。

「ね、念の為よ。想いが強ければ強い程、行動が伴うものなのよ」

 公香は、コーヒーを啜り、『ああ、美味しい』と、正面に向き直った。閉ざされた両開きの扉には、公香の姿が映し出されている。午前十時開店の三九堂書店の入り口の前で、公香と優は既に三十分程佇んでいる。

 本日は、人気作家の伊月康介のサイン会が、開催される。路面店である三九堂書店に面した歩道を多くの人々が行きかっている。その多くが、公香と優に視線を向ける。優は恥ずかしそうに、帽子を深く被った。

 公香の強引な誘いを断り切れず、優は有給休暇を取得した。作家のサイン会とは言い出す事ができず、定番の法事だと嘘をついた。その後ろめたさもあり、万が一職場の人に目撃されてはいけないので、帽子を深めに被りマスク着用だ。

 昨夜は、仕事が終わると、公香のマンションへ集合がかかった。テンションが上がりに上がりまくっていた公香と、伊月康介座談会が繰り広げられていた。明け方まで、公香に付き合っていた為、寝不足だ。優は、マスクに手を当てて、大きなあくびをした。

 まさか、開店前の本屋さんに、並ぶ事になるとは。昨夜から、何度も公香の説得を試みたが、全てが空振りに終わった。姉がここまでのめり込むとは、夢にも思わなかった。厄介なものを勧めてしまったと、後悔の念が頭をよぎる。

 確かに、紹介した本を読んでもらえて、気に入ってくれたのは嬉しい。だが、いくら何でも限度がある。幼少期から、ずっと見てきた姉の姿と現在の姿が重ならない。公香は、優と違って、社交的で活発な女性だ。学生の頃から友達も多かったし、男性との交際経験も豊富だろう。これまでに、何度も何度もお気に入りの小説を勧めてきたが、全てはぐらかされていた。きっと、今までに優が紹介した小説を、公香は一冊も読んでいないだろう。

 どうして、今回紹介した小説だけ、読んでくれたのだろう? 優は、心の中で頭を傾げる。タイミング的に、以前交際していた男性と別れた時期と同じくらいだ。失恋した時に髪を切ったりするあれと、同じなのかもしれない。これまで読んでいなかった小説を読む事で、心機一転を図ろうとしているのだろうか? しかし、公香が落ち込んでいるようにも、空元気なようにも、優の目には映っていない。謎は、深まるばかりだ。そして、今日のような、奇行。もともと、行動力があるのは知っているけど、公香の動きは優の予想を超えていく。

 公香が、落ちこんでいるようにも、傷ついているようにも見えない。そもそも、恋愛経験が乏しい優にとっては、まるで未知の世界だ。これまでに、沢山の恋愛小説を読んではいるけれど、やはり現実の恋愛は、フィクションとは別物なのだろう。

 あまりにも、極振りで戸惑ってはいるけれど、公香が優の好きな世界に足を踏み入れてくれた事は、単純に嬉しく感じている。何が原因かは、分からないけど、公香が小説を好きになってくれて、胸の鼓動が早まった気がする。まさか、仕事をずる休みする羽目にはるとは、思わなかったけど。

「あっ!」

 優は思わず、声が漏れてしまい、咄嗟にマスクを押さえた。

「優、どうしたの?」

 振り返った公香に、優は顔と手を左右に振って応えた。首を傾けた公香が、扉に向き直る。

 そう言えば、社会人になってからは勿論、学生時代も含めて、ずる休みをしたのは、初めての経験だ。その事に気が付いた優は、急に周囲の人々の視線の意味が変わった気がした。犯罪者にでもなった気分で、皆が後ろ指を指している気分になった。すると、優は、公香の背中にピタッと張り付いた。

「え? どうしたの? 具合でも悪いの?」

 公香は体を屈めて、優の顔を覗き込んだ。

「違うよ。開店前の本屋さんに並ぶ人なんかいないから、恥ずかしいだけだよ」

 優は、咄嗟に嘘をついて、顔を背けた。しかし、公香は目を細めて、優の頭に手を置いた。

「確かに、本屋さんで並んでいる人って見た事ないね。なかなか、レアな経験だ。一人だったら、恥ずかしいかもだけど、二人だったら恥ずかしくないでしょ?」

「・・・うん、まあ、そうだけど」

「あ! 優と一緒に並ぶの初めてだね? そうでしょ? 今まであったっけ?」

 優は、顔を左右に振った。公香に言われて、初めて気が付いた。そう言えば、姉と一緒に並んだのは、初めての経験だ。年齢が三歳しか離れていない姉妹であるが、今までの人生で行動を共にする事はなかった。それは、二人の性格や趣味が、まるで違ったからだ。子供の頃は、両親が一緒であったし、年頃になると公香は友達と過ごす時間が増えた。買い物に行ったり、遊園地に遊びに行ったり、外出が目立っていた公香に対して、優は対照的な生活を送っていた。

 ずる休みをした後ろめたい初体験よりも、姉と共に並ぶ嬉しい初体験の方が、優の心を満たしていった。優は、するすると公香の背から離れた。

「ん? もう良いの? もっと、お姉ちゃんの背中に甘えてもいいのに」

「もう平気」

 優は、先ほどまでとは、別の気恥ずかしさに襲われている。顔が蒸気していくのを感じ、優は唇を尖らせた。すると、居心地悪そうに、視線を足元に向けていた優の耳に、ガチャと鍵を開ける音が聞こえた。顔を上げた優の瞳には、緑色のエプロンを着けた書店員が目を丸くしている姿が映っていた。


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