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第四話 天秤は、傾く事を躊躇っている。

 この小説に出会うまでの公香は、ほとんど小説を読んだ事がなかった。どちらかと言えば、アウトドア派の公香は、この狭いワンルームもほぼほぼ寝る為に帰ってくるだけであった。用事がなくても、外に出かけていた。優は、その逆で、インドア派だ。実家に住んでいる優は、仕事からの帰宅後や休日は、部屋にこもって読書に明け暮れている。まさに本の虫だ。母親から、それはそれで心配だと、何度も愚痴を聞かされていた。

 姉妹で、真逆の生活を送っていた。休日に一日中本を読んでいる何て、時間の無駄遣いだとも思っていた。外の世界には、もっと楽しい事があるんだよ。世界は、もっと広いんだよ。と、公香は優に、何度も何度も伝えていたのだが、まるで聞く耳を持たれなかった。しかし、実際は、違っていた事に、公香は気づかされた。

 毛嫌いしていた本の中には、楽しい事が沢山詰まっており、広大な世界が広がっていた。それこそ、現実世界では、どう頑張っても経験できない出来事に溢れている。

 何よりも、誰かに酷く傷つけられる事なんかない。

 それは勿論、大好きな登場人物が、傷ついたり、辛い目に合ったりすると、悲しくなったりはするけれど・・・それでも―――

 大好きな人に裏切られたり、可愛がり面倒を見ていた後輩に大切な人を奪われたり、『お化けみたいで、気持ち悪い』と陰口を叩かれる事もない。『終電間際の小夜曲』の主人公である美幸は、公香の写し鏡のようであった。作家の伊月康介が、雲の遥か上から公香の事を眺めていて、執筆したとさえ思った。美幸に感情移入してしまうのは、当然の結果だ。辛い出来事があったけれど、最終的には美幸は、純平との幸福を掴み取る。

 だったら、私も幸せにならなきゃ嘘だ。公香は、まだ見ぬ未来に、胸を躍らせている。

「ああ、美幸ちゃんと純平君に会いたいなあ!」

「・・・え? あの、お姉ちゃん? この小説は、フィクションだから、その二人は、実在しないよ?」

「そんな事は、分かってるよ! 真顔で答えないで! でも、会いたいと思うのは、勝手でしょ?」

 公香がクッションを振り回したので、優はソファに避難した。ヤレヤレと呆れ顔で、スマホを覗いた。ソファのスプリングが、軋む音を発した瞬間に、下から蹴り飛ばされるように優は、立ち上がった。

「お姉ちゃん! 朗報だよ!」

「え? 何よ、急に?」

「終電間際の小夜曲の重版が決まったんだって! それで、それを記念して全国の三九堂書店で、伊月康介のサイン会をやるんだって!」

「マジでぇぇ!?!?」

 脊髄反射で、公香は立ち上がり、優の両肩を激しく揺さぶる。三九堂書店は、全国展開している大型書店だ。

「いつ? どこの店?」

「えーと、明後日! ○○店だって! 正午から先着順で整理券の配布で、二時からサイン会だって! 当日、本書をご購入の方、先着二十名様! だって!」

 人差し指で、スマホの画面に触れながら、優は興奮を隠しきれない。公香は勿論、伊月康介作品を紹介した優も、彼のファンだ。

「それって、ニ十冊買ったら、伊月康介を独占できるって事!?」

「できる訳ないでしょ!? 一人一冊しか買えないよ! でも・・・あーーー!」

「どうしたの?」

「明後日の二時って、私普通に仕事だよ」

「はあ!? そこ天秤にかけるとこ!? 仕事と伊月康介とどっちが大切なのよ!? 有給取りなさいよ有給! 何の為の正社員なのよ! 有給取らせてくれないような、ブラック企業なら辞めてしまえ!」

「簡単に言わないでよ! 仕事は仕事! 趣味は趣味でしょ!?」

 優は、体の力が抜けたように、ソファに腰を下ろした。深い深い溜息を吐く。勿論、優も伊月康介のサイン会に行きたいに決まっている。大好きな作家で、大好きな小説だからこそ、公香に勧めたのだ。しかし、社会人としての責任感が、優を苦しめている。確かに、公香が言うように、有休を申請すれば通るだろう。サイン会に行きたい、伊月康介に会いたい、そんな理由で会社を休んでも良いものか、優は葛藤に苦しんでいる。すると、公香は腕組みをして、わざとらしく溜息と共に、肩を落とした。

「情けない。情けないよ、優。お姉ちゃんは、悲しい。会社なんか、いつでも行けるでしょ? でも、伊月先生には、なかなか会えないんだよ? 先生に会える可能性を捨ててまで、やるべき仕事なんかあるの? 私は、優をそんな子に育てた覚えはありません」

 ベッドに腰を下ろした公香が、『嘆かわしい』と言わんばかりに、首を左右に振った。優は、顔を上げて、茫然と姉の姿を眺めている。

「・・・お姉ちゃん? 会社を辞めて、馬鹿になったの?」


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