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第二十九話 始まりの鐘が鳴る。

 伊月は、公香との関係を公表したのかもしれない。ゴーストライターを雇い、執筆させていた。その謝罪会見を行ったのかもしれない。公香が、二日酔いで苦しんでいる間に、何の相談もなく強行した。

公香は慌ててググり始める。ネットニュースは、伊月康介の話題で持ちきりであったのだが、理解する事ができずに混乱する。

 人気女優、戸枝梨花婚約! お相手は、人気作家―――

 伊月康介を検索したのだが、戸枝梨花が出てくる。

 公香は、髪の毛を掻きむしり、首を捻る。訳が分からず、ネットニュースを目で追って行く。フェイクニュースなのかと思った。美しい容姿をした二人の男女が、嬉しそうに幸せそうに寄り添っている。これは、どういう事なのだろうか? 脳味噌が理解する事を拒否しているように、内容が頭に入ってこない。どこを探しても、公香の名前は出てこないし、ゴーストライターの文字もない。

 人気女優・戸枝梨花と、人気作家・伊月康介が婚約発表!

 いったい何を言っているのか、意味が分からない。先日、二人で一緒に酒を飲んだ時に、そんな事一言も言っていなかった。確かに、婚約者がいるとは、言っていた気がする。会見は、公香が二日酔いで死んでいた、昨日にあったようだ。公香は、動画のアプリを起動して、会見の様子を見た。どうやら、緊急で行った会見であったようだ。

 動画が進むにつれて、真っ白だった頭が、まるで先日のワインの色に染まっていくように感じた。公香は、反射的に家を飛び出した。スマホを握って走り出し、広い道に出るとタクシーを捕まえた。運転手に目的地の住所を伝えた。住所は、覚えている。何度も何度も目にしていたからだ。伊月から郵送されてくる封筒に記された住所。スマホを横にして、公香は動画を眺める。

「ああ、昨日の会見ですね? いやあ、ショックだったなあ! 戸枝梨花好きだったんですよねえ! でも、まあ、美男美女でお似合いですよねえ?」

 タクシーの運転手が後部座席をミラーで眺めながら言うが、公香からの返答はない。首を傾げた運転手が声をかけようとしたが、荒々しい息遣いで目を見開いている公香を見て、咳払いをして口を閉じた。

 目的地に到着し、支払いを済ませた公香は、マンションを見上げた。たいして高級感がない、五階建てのマンションだ。小さな入り口に設置されたインターホンを押す。家主の返答をまたず、急かすように二回三回と押す。すると、返事がないまま入り口の扉が、解錠する音が聞こえた。公香は、オートロックの扉を開いて、狭いエントランスに入り、エレベーターに乗り込んだ。エレベーターから降りて、廊下を進み一番奥の部屋で立ち止まった。表札はない。玄関ドアの横のインターホンを押すと、静かに扉が開いた。縦長の隙間から見えた姿に、公香は息を飲んで硬直した。

「いらっしゃい。あなたが、本田公香さんね。さあ、入って」

 テレビや雑誌で見たままに、現実離れした美しい女性が、笑みを浮かべていた。

「と・・・戸枝梨花! ・・・さん」

 少々躊躇った公香であったが、おずおずと部屋に入った。部屋の中には、大小の段ボールが置かれている。

「ごめんなさいね。今、引っ越しの準備をしてて、散らかってるの。なんのお構いもできないけど、適当に座ってね」

 戸枝は、長い髪を後ろで一つに束ねている。いつも見る煌びやかな化粧や衣装を身に纏っていないけれど、それでも圧倒的なオーラを放っていた。公香は、気圧されるように、小さく首を左右に振る事しかできない。

「あの、伊月さんは?」

「ああ、康介なら新居の方にいるよ。家具とかが送られてくるから」

「ここで、お二人は一緒に住んでいたんですか?」

「まさか。ここは、康介の仕事場よ。結婚を機に、お互いのマンションとここを引き払って、同棲をするのよ」

 沢山の紙の束を段ボールに押し込んでいく戸枝は、ガムテープで開いた口を閉じていく。床に散らばった紙を一枚手に取った公香は、原稿である事に気が付いた。伊月作品を書き始めた初期の作品だ。赤ペンで、訂正がされている。伊月と繋がっていた証拠を目にして、公香の目が潤んでいく。

「その原稿あなたが、執筆したんでしょ? どうする? それ、持って帰る?」

 公香は原稿を胸に抱き、睨みつけるように戸枝を見た。

「知ってるんですか?」

「ええ、もちろん。全部知ってるよ」

 戸枝は平然と言ってのけ、段ボールを足でどけて、空いたスペースに腰を下ろした。紙コップを二つ段ボールの上に並べ、ペットボトルの緑茶を注ぐ。

「伊月さんは、ここに来ないんですか?」

「ええ、来ない。それが条件だったからね」

「条件?」

 戸枝は紙コップを一つ公香に差し出して、もう一つを口につけた。

「康介から、全て聞いたの。それで、康介に条件を出した。記者会見は見た? そこでの発言は、全て私が決めた事なの。それが条件で、康介の事を許す事にしたの」

 戸枝は、お茶を飲み干して、公香を見上げた。戸枝が伊月に出した条件とは、以下の通りだ。

 今すぐに結婚して、正式に会見をする。

 作家業は休業し、戸枝を支える。(戸枝梨花は、所属事務所を辞め個人事務所を設立する為、伊月が事務所の社長に就任する)

 ゴーストライターの事は、公表しない。そして―――

「本田公香さん。あなたの件は、全て私に任せる事。康介は、今後一切、本田さんには関わらない事ってね」

「え? 今後一切?」

「そう、今後一切。だから、私がここで、あなたを待っていたの。まあ、来なければ来ないで良かったのだけどね。まさか、あなたに書籍を郵送する際に、馬鹿正直に住所を記していただなんて、驚いたよ。真面目と言うか、なんと言うか」

 封筒に記されていた住所は、自宅ではなく別で借りている仕事場であった。交際していた伊月と戸枝であったが、公香が代筆していた事は、秘密にしていた。しかし、公香の様子が変化し、伊月に仕事以上の関係を求める言動が目に付き始めた為、全てを終わりにする決断をした。戸枝にも正直に自供し、関係を清算するつもりでいた。しかし、戸枝がそれを許さなかった。

 公香は、大きく深呼吸を繰り返す。なんの考えもなく、ここへと来てしまった公香であったが、テレビや雑誌で目撃していた人気女優の突然の出現に、混乱は深まるばかりであった。しかし、本来なら奇跡的な遭遇を喜ぶべきなのだろうが、公香にとってはそれどころではない。公香にとって、憧れであり、神様であり、世界の中心であった伊月と離れなければならない元凶だ。

「あ! もしかして、私の事を恨んでいる? それは、お門違いだよ。逆恨みだね。私の方が先に、彼と深い関係だったんだからね。横やりを入れてきたのは、あなたの方よ。ちなみに、ゴーストライターの事に関しては、私は特に問題ないと思っているの。お互いの利害が一致しての事だったのだから」

「で、でも、私と伊月さんは、最高のコンビで・・・」

「仕事上はね。仕事とプライベートは別よ。とは言っても、後半は、あなたの力だけで書いていたそうじゃない? あなたは、彼を踏み台にして、高く飛ぶべきよ。康介が、あなたを一人立ちさせようとした気持ちは分かるの。同じ戦う女として、あなたには道を踏み外さないで欲しいの」

「そんなの勝手です」

「あなたほどじゃないよ」

 立ったまま睨みつける公香と、澄ました顔で見上げる戸枝。戸枝は紙コップを握り潰し、段ボールの上に転がした。そして、ゆっくり立ち上がり、公香の顔を見つめる。

「あなたの選択肢は、二つよ。作家として高みを目指すか、負け犬のように尻尾を巻いて逃げるか。ゴーストライターの件を世間に公表したとしても何も変わらない。一時の優越感に浸れるくらいかしら? 馬鹿どもに餌を与える程度ね。私と康介の関係は変わらない。そして、この場で私を殺したとしても、康介はあなたを選ばない。どうするべきなのか、考えるまでもないけど、自分で決断しなさいよ。本田公香さん」

 真の通った凛々しい顔で、戸枝は公香を見据える。公香は、歯を食いしばって、力を込めて拳を握る。悔しくて悔しくて堪らないけど、何も言い返す事ができない。戸枝に対して、公香は酷く矮小な存在に思えた。

 何一つ勝っている部分がない。その上、最も手に入れたい伊月も、手中に入れている。なんだ、この不公平は。その事を知ってか知らずか、戸枝の上から目線も癇に障る。

 公香は、唇の端から血が滴ると、目を見開いて腕を大きく振りかぶった。公香の手の平が戸枝の顔面に向かう。しかし、接触直前に、戸枝は公香の腕を平然と掴んだ。公香の歯ぎしりが響く程、顔を歪めて戸枝を睨みつけている。殴りつける事すらできないのか。腕力も運動神経や反射神経も、身のこなしも全て公香よりも戸枝の方が上だ。

「舐めるんじゃないわよ! あなたの数倍、私の方が修羅場をくぐってきているんだから!」

 戸枝は、公香の腕を離して叫んだ。掴まれていた右手がしびれている公香は、手を押さえながらよろめく。互いに睨み合い、戸枝は溜息を吐いた。

「殴りたいなら殴らせてやるわよ。同じ男に惚れたよしみでね。あなたが、私より勝っている事なんか、一つしかないのよ。さあ、殴りなさい」

 戸枝は腕組みをして、仁王立ちする。

 公香は、荒々しく呼吸を繰り返し、叫び声を上げて、右腕を振りかぶった。


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