宿屋"ユリカゴ"にて。
侯爵邸を飛び出してどのくらい経ったのだろう。首からさげた懐中時計を確認すればもう夕方だった。
オズマン領はそこまで治安は悪くないが、ガラの悪い人間がいないわけではない。子供が遅い時間まで1人なのは流石に危険なので、とりあえず今ある現金を確認して近場の宿屋"ユリカゴ"に入る。
正面にある受付のオバサンは私の姿を見て一瞬動きが止まったが、訳ありなのを感じ取ってくれたのか詮索せず対応してくれた。無事部屋を確保し、荷物を小さなテーブルに置いてベッドにダイブする。
「なんか記憶がぐちゃぐちゃだ。」
サラ・オズマンとして生きてきた記憶は勿論あるのだが、先程思い出した所謂前世の記憶というやつがじわじわ侵食してきてなんとなく気持ち悪い。知っている世界でもないから立ち回りが分からない。
ぐぅ。
「…お腹すいたな。」
腹が減っては戦は出来ぬ。受付のオバサンは夕食はいつでも平気だと言っていた。よし、まずは腹拵えだ。ついでに領内のことも色々聞いてみよう。令嬢としての生活では社交界で役に立つことしか教えてもらえなくて領地ついてなんてほとんど学べなかったから、正直地理すら危うい。
小さなポシェットに最低限の物だけを入れて食堂へと向かう。
既にそれなりの人で埋まっていて目立たないようにカウンターの隅に場所を取る。受付にいた人とは違ったオバサン2人が忙しなく動き回っている。奥の調理場には3人程いるのがここから確認できた。
宿屋の規模がそれなりに大きいのと、食堂は宿泊者以外も利用できることを考えればこれくらいの人員になるのだろうか。
「いらっしゃい!お嬢ちゃんは宿泊者かい?」
「あ、はい、そうです。」
「了解!ちょっと待ってておくれよ。」
どうやら宿泊者のメニューは統一されているらしい。奥に向かって叫んだオバサンその1は別のお客さんに呼ばれてすぐにいなくなった。
情報を集めたいがこれでは質問する時間が取れそうにない。さて、どうしたものか。身元がバレるリスクを考えると長期滞在は出来ない。かといって転々と宿屋を巡るのも資金が限られてくる。
運ばれてきた料理を黙々と口に運びながら、どうにかして話が聞けないものかと考えてみる。
その時私の席の後ろのテーブル席にお客さんが来たらしい。
注文した後、気配からして3人組はそれぞれ口を開きだした。
「オズマン領のミッションは軽めなものばっかりだな。」
「此処は比較的治安が良いからな。辺境と比べりゃそりゃ軽いわ。」
「瘴気の森の探索が出来りゃいいんだが。」
"ミッション"の単語から推測するに、彼等は冒険者か何かだろう。この世界にも存在するらしい。
「彼処は駄目だ、魔素の量が半端じゃねぇ。王族でも危うくて立ち入り禁止になってんだ。俺達には猛毒さ。」
「しかも入ったら2度と出てこれねぇとか。切り開けば魔素も四散するだろうが無理だよなぁ。」
瘴気の森は聞いたことがある。オズマン領と隣の領の間に存在する魔素の濃い森だ。
この世界の人間はもれなく魔法が使える。空気中に存在する"魔素"と呼ばれるものを、詠唱によってその人の持つ魔力と組み合わせ様々な魔法に変換するのだ。王族がとりわけその力に優れている。その王族ですら扱うのが難しい程の量が存在している瘴気の森は誰の手にも負えず、随分前から立ち入り禁止になっていた。
「でもここの領主の娘が魔女って噂じゃん?」
「あぁ、黒髪の異端か。」
「古い文献によれば黒髪の異端=魔女だが、実際どうなんだろうな。瘴気の森に入ってみてもらいたいもんだ。」
まさかここで自分の話題が出てくると思わなくて盛大に噎せてしまった。一瞬こちらへ視線が刺さった気がしたが、オバサンその2がタイミング良く運んできた料理に意識が向かってくれたお陰で助かった。
その古い文献とやらを読みたい。冒険者の言葉を信じるなら、私は瘴気の森に入っても無事な可能性があるってことで。そうなると王族より強い魔法使いというわけだ。
「あの森って建国当時からあるんだろう?今までの異端を森に入れたりしなかったのか?」
「王族より強い存在がいるかもしれねぇのが気にくわなくて発見次第処刑してたらしいぜ。せめて森で通用するか試してからにすりゃぁいいのに、その辺は王族も馬鹿だよな。」
「まぁ上に立つ人間の考えそうなことではあるが。」
王族に対しての暴言をそこまで気にしていないあたりシュゼール王国出身ではないのだろう。そして彼等の言うことにも一理あるから心の中で賛同する。
異端=魔女で森をどうにか出来るなら、利用してからにすればいいのに。それとも、魔女が森に入ることでのデメリットか何かがあるのだろうか。
「御馳走様でした。」
とりあえず明日以降の予定は決まった。
部屋に戻ったら瘴気の森の位置を確認しよう。確かトランクの中に地図も入れたあったはず。オズマン領から入るか隣の領から入るか。
冒険者達に感謝しつつ、階段を駆けあがる。
その直後に侯爵家の警備隊が私を探しに来たのなんて知らない。