教育勅語の良いとこ悪いとこ
教育勅語について話題になったそうです。
懐かしいですね、教育勅語。
尋常小学校時代に校長先生が奉読するのを聞いていて、全文覚えてしまったこともあります。それは冗談です。
教育勅語は興味深いですよ。現代日本の歴史的な意味を語ってくれます。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜少し引用します〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
柴山昌彦 2018-08-15 21:24
『自己中心社会にあって、こうした無私の取組みをこそ私たちはたたえるべきでないのか→活動費は年金から 風呂も断った尾畠さんが貫く信念(朝日新聞デジタル) ...』
○○ 2018-08-16 06:20
『素晴らしい方です。無私の取り組みをする国民を増やすためにはどうしたらいいですか?』
柴山昌彦 2018-08-16 18:26
『私は戦後教育や憲法のあり方がバランスを欠いていたと感じています。...』
◆ 入閣会見 2018-10-02
「NHKの○○ですけども。大臣はご自身のTwitterで今年の8月17日に『私は戦後教育や憲法のあり方がバランスを欠いていたと感じています。』とツイートされていますが、戦後教育や憲法のあり方がどのようにバランスを欠いていたと感じていらっしゃるのでしょうか?」
「その私のツイートの趣旨はですね、やはり、教育というのは当然のことながら、私達の権利とともに義務や規律ということについても教えていかなければいけない。
これは当然のことだと思っております。
ただ、戦前、義務とか規律が過度に強調されたことへの、これもまた大きな反動として、個人の自由とか権利ということに重きを置いた教育、あるいは、個人の自由を最大の価値とする日本国憲法が制定されたということだと思っております。
そういう中で、憲法については我々、憲法尊重擁護義務(憲法99条)がある公務員ですから、ここではそのあり方について言及することは避けたいというふうに思うんですけども、少なくとも教育においては権利や義務あるいは規律ということを、しっかりバランス良く教えていく。こういったことがこれから求められるのではないか。
そういう趣旨でツイートしました。」
「関連してなんですけども、教育勅語について、過去の(下村博文)文科大臣は、『(教育勅語そのものの)中身は、至極全うなことが書かれている』といった発言をされている (2014-04-08) わけですけども、大臣も同様のお考えなのでしょうか?」
「教育勅語については、それが現代風に解釈をされたり、あるいはアレンジした形で、今の例えば道徳等に使うことができる分野というのが、私は十分にあるという意味では、普遍性を持っている部分が見て取れるのではないかと。そういうふうに思います。」
「どの辺が十分に今も使えるというふうに考えていらっしゃいますか?」
「やはり、同胞を大切にするですとか、あるいは国際的な協調を重んじるですとか、そういった基本的な記載内容についてですね、これを現代的にアレンジをして教えていこうということも、検討する動きがあるというように聞いておりますけれども、そういったことは検討に値するのかなと、いうふうにも考えております。」
◆ 教育勅語 (c) 1890 Emperor of Japan
朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
・https://ja.wikipedia.org/wiki/尾畠春夫
・https://twitter.com/shiba_masa 柴山昌彦
・https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181003-00010009-wordleaf-pol 柴山昌彦文科相が就任会見(全文)教育勅語の現代風アレンジは検討に値する
・http://www.mext.go.jp/b_menu/daijin/detail/1346282.htm 下村博文文部科学大臣記者会見録
・https://ja.wikipedia.org/wiki/教育ニ関スル勅語
〜〜〜〜〜ここまで引用でした〜〜〜〜〜
教育勅語の再評価というのはしばしば話題になります。
そのたびに、左翼と右翼は次のように言います。
左派「主権在民の原則にふさわしくない」
右派「普通にいいことが書いてあるだけ」
馬鹿ですよね。
戦後にモラルが言われなくなった面はあるのですよ。
だから、教育勅語が主権在民に反していることを指摘して、教育勅語に道徳主義が含まれていることを見落とせば、愚かだし欺瞞的です。
そして、教育勅語に道徳主義(普通にいいこと)が含まれているとはいえ、主権在民に逆行していることは明らかな事実ですから。それを見落とすことも愚かだし欺瞞的です。
愚かで欺瞞的な人間しかいない国ですね。
愚かだけど善良な人や、欺瞞的だけど知的な人が一人もいないところが残念な国でした。
左派的な脳のロジックに立脚して教育勅語の各部を評価してみます。
朕惟フニ ← 反主権在民
我カ皇祖皇宗 ← 天皇の先祖など知ったこっちゃない
國ヲ肇ムルコト ← 国家主義
宏遠ニ ← 長い歴史を誇るところが日本主義
德ヲ樹ツルコト深厚ナリ ← 道徳主義は自由主義に反する
我カ臣民 ← 臣民じゃなくて市民
克ク忠ニ ← 忠を徳目と見なすのは封建主義的であって民主主義的でない
克ク孝ニ ← 孝もまた自由意志を抑圧する方向性がある
億兆心ヲ一ニシテ ← 集団主義
世世厥ノ美ヲ濟セルハ ← 皇室に褒められるいわれはない
此レ我カ國體ノ精華ニシテ ← 国体という概念が反主権在民
敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス ← 教育の主目的が思想統制だと言っている
爾臣民 ← 臣民違う
父母ニ孝ニ ← 家庭に国が口を挟むな
兄弟ニ友ニ ← 同上
夫婦相和シ ← 離婚も権利
朋友相信シ ← 価値観を強いてる
恭儉己レヲ持シ ← 金銭を愛することも用いることも個人の自由である
博愛衆ニ及ホシ ← 他者を労ることを義務とまで言われたくない
學ヲ修メ ← 勉強すべきとする価値観を強いている
業ヲ習ヒ ← 労働すべきとする価値観を強いている
以テ智能ヲ啓發シ ← 愚かでも人権は等しい
德器ヲ成就シ ← 徳で人間の価値を測ることは本質的には思想統制である
進テ公益ヲ廣メ ← 人間には(犯罪を犯さないかぎり)利己的に生きる権利がある
世務ヲ開キ ← 人間には世間のために生きる義務まではない
常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ ← 問題なし
一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ ← はいアウト。軍国主義
以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ ← 皇室のために死ねとはナンセンスだ
是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス ← 忠良な臣民たることを美徳と見なすべきでない
又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン ← 祖先が天皇崇拝だったという仮定を強いている
斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ ← 封建主義で人民を搾取してきたくせに
子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所 ← 遵守すべきものは法律だけである
之ヲ古今ニ通シテ謬ラス ← 正しさに歴史的な普遍性はない
之ヲ中外ニ施シテ悖ラス ← 正しさに地域的な普遍性はない
朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ ← 封建主義なのに苦しみを分かち合うがごとき虚偽と欺瞞
咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ ← 徳を一つにするという発想が全体主義
というわけで全面的にアウトということになります。
一文字目でもう主権在民に反しているからアウトもなにもないのですが。
じゃあ、こんな戦前の教育を換骨奪胎して、民主主義に反するところは取り除いて、道徳主義を残そう!、っていうのが素朴な発想ですよね。
でも、ここから国家主義を取り除いた道徳主義が戦後教育で教えられたという事実は無いわけです。
あれれ、不思議ですね。
教育勅語は、国民は国のために生きて国のために死ね、って言ってます。
でも次のことも言っています。
教育の目的は人間性であり、人間の価値で最も大切なのは人間性であり、国家の目的も人間性であり、王室の目的も民衆と共に自らの人間性を増進しようというところにあると。
そしてそこで言う人間性とは、「博愛衆ニ及ホシ」つまり、利己主義ならぬ、弱者への十分な利他主義であると。
そのような「徳」は、「中外ニ施シテ悖ラス」つまり、外国人からも尊ばれ愛されるものであると。
つまり倫理主義の普遍性を言っている。
これだけの倫理主義は、戦後教育には含まれてこなかった。
「博愛衆ニ及ホシ」なんてやっている企業経営者が今どれだけいるでしょうか。
そんなことしてたら普通倒産しちゃうでしょう。
行政に怒られない範囲で法律ギリギリにグレーなことみんなしてますよね。
使われるほうも利己主義だから、権力を手にしたら同じことするでしょう。
それが現代の日本人の器だと思います。
教育勅語の道徳主義の部分は単に綺麗事で、搾取と利己主義は昔も変わらないという意見もある。
だったら、教育勅語が言う道徳主義的な部分は全て、心にもないことを言っていることになる。
だとしたらちょっと器用ですよね、嘘にしては整っている。こんな賢い嘘つきあまり見ません。
しかし嘘だとしてもいいでしょう。問題は、真っ赤な嘘だとしても、戦前には一応の道徳教育があったという事実ですよ。
左派はそれを説明できない。
右派は、そんな道徳主義が封建主義的にしか存在できなかった事実を説明できない。
だからどちらも愚かだと言えるのです。
道徳主義を教えないということは、教育は暗に何を教えていることになるか。
教育の目的は職業訓練であり、人間の価値で最も大切なのは金銭であり、国家の目的は国民の生命と財産の保護であり、王室の存在意義は国民文化のための象徴以上ではないと。
つまり国家が導くべき個人の徳目は存在せず、個人の利己的な行動も価値観も根本的に自由だと言っている。
その果てにおいて、愛情を語らずに性教育を語る。
愛情は価値観であり、肉体の性は客観的事実ですからね。
それでうまくいくならいいですよ。
正直、日本のGDPが米国と中国を合わせた百倍くらいあったら、非常に文句を言いづらい。
でも、あらゆる欺瞞と偽善でガタガタになっている国だと感じます。
だから個人の利己主義を思想の自由と見なすことの合理性には限界があると言える。
一定の道徳主義は合理的であり、諸外国は(キリスト教や国家主義などとして)やっています。
教育で道徳教育をやるということは、実態としての権力関係が必ずあるから、国家権力による思想の強制をいくらか許容することになります。(逆に言えば子供を教会に連れていくことは思想的な虐待とも言える。)
なので、国家権力を絶対悪のごとく見なしたら、国が痩せる面がある。
そして戦後日本の言論は、国家権力を絶対悪と見なしてきた面がある。
その歴史的な理由は、核兵器が落ちてきて灰になった翌日に民主主義が落ちてきたということです。
だから日本人は民主主義をよく勉強して、理想的な平和社会を目指した。
でも尊敬していた先進国達は、実際には民主主義なんてほどほどに運用してたわけです。
平和憲法をくれた米国に平和憲法ありませんし、何か少しあるとUSA、USA、USAとわめく。
善意を信頼できる地球市民など概念上にしか存在せず、国家主義や地域主義のパワーバランスによってしか個人の利益は担保されないと日本人以外は知っている。
トランプ大統領の誕生は、米国の市民がリベラリズムの限界を看破したということです。
経済指標を見て指導者を選んでも経済指標は向上しません。指導者の中にある哲学を見てこそ結果として経済指標は向上するものでしょう。
リベラリズムは非常に「いいこと」を言う。
権力による不当な搾取から民衆を救済する互助を言います。善意でリベラリズムに染まる人も少なくない。
しかし、家族同士思いやり合えなどと、教育勅語にも「いいこと」が書いてある。
一見、矛盾するはずがない。
実際には、水と油である。
家族のために死ぬことは美徳たりうる。家庭の中でその美徳を助長することは、合理たりうる。
国家のために死ぬことも美徳たりうる。国家の中でその美徳を助長することは、しかし肯定されえない。
しかし両者の違いはスケールだけで、数理的には自明に連続的である。
私のために死んでください、私もあなたのために死にます、という誘いは合理たりうる。
私のために死んでください、でも私は、あなたのために死ぬつもりはない、という誘いは、詐欺でしかない。
つまり国が国民を誠実に愛するなど全く疑わしいから、国に自身を捧げろとは悪徳である。
家族がその一員を誠実に愛することは珍しくないから、家族や仲間を愛せとは美徳である。
それだけの差。
実際、国家から国民への誠意などあまりにもわずかだ。
しかしその0.0001を0と見なすことで社会は失速していきます。
つまり0なら、国を愛する義務はない。さらには、倫理主義の枠組みの価値観に制約されて生きる義務がない。
そこには、ものすごい快感があります。
善意でリベラリズムに染まる人も少なくない。
悪意でリベラリズムに染まる人も少なくない。
リベラリズムは人間の脳にとって猛烈な快楽ですから。
なぜなら、動物の脳は、常に権力と権威とを求めているのです。
リベラリズムによって国家権力の価値はゼロになる。その瞬間、自分自身がこの世界の王様になることができるのです。
もちろん脳内だけですが、脳内で一度喜びを味わったら、一生それを手放せないのですよ。
だから馬鹿ほど、「主権在民」を手放せない。
リベラリズムに立てば、「個人の人権としての自由性を解放する」と言えば、無限大に正義を買えます。
でも実態としては、「俺に説教する権利は誰にもない」って言っているだけのことが多い。
だから、悪意でリベラリズムに染まる動機はあるのです。
どんな貧乏人でも資本家を見下せるし、どんな愚者でも学者を見下して楽しめます。
権力そのものを悪と見なすことは、大多数者にとって最高のファンタジーなのです。
教育勅語について左翼と右翼は次のように言う。
左派「主権在民の原則にふさわしくない」
右派「普通にいいことが書いてあるだけ」
つまり現代に欠けている倫理主義や道徳主義が教育勅語には強烈に含まれていることを左派は積極的に無視します。主権在民の快楽を手放すわけにはいかないので。
右派もまた、倫理主義を謳う教育勅語が同時に封建主義を宣言していて、主権在民の原則に矛盾していることを積極的に無視します。やはり主権在民の快楽を手放すわけにはいかないので。
馬鹿なのでは、って口から漏れそうになります。
リベラリズムは法律の範囲内では利己主義や拝金主義を許しますし、現代日本は大いに拝金主義に染まりました。
でも部分の自由性が集団全体の対外的合理性と矛盾することはままありますよね。
ゆえに拝金主義者がかえって貧乏人になることもあります。
日本人は、貧乏な拝金主義者であることを非常に愛しているように見えます。
実態として奴隷になるとしても、脳内では王様でありつづけたいなら、主権在民を今後も抱き締めていればいいんじゃないですか。
でもそれと心中したくない人達もいるかもしれないので、こういった話を書く意味はまだあるでしょう。
自由や人権なんて、リベラリズムの美徳は、どこまでも徹底的には言えないんですよ。
実態社会は無限大に複雑ですから、そんな安い正義は偽善に終わります。
凡才が何か本質を理解したと思ったら、その理解はきっと間違いなのですよ。
モラルの価値は、どこかで古典的な徳治主義に連なっている。
「私達の権利とともに義務や規律ということについても教えていかなければいけない」
そう大臣が指摘したことは、重要な事実だと私は思います。
しかし教育勅語を持ち出すのは乱暴だとは感じます。
もう一度核兵器が落ちてくることになりかねません。
現代に現代の道徳主義を再構築することが難しい作業だとは思えない。
しかしそのためにはリベラリズムの限界を200%理解する必要があります。
超超難しいですよ。でも簡単なわけないですよね。
日本人は恵まれている。
欧米や中東はリベラリズムを嫌うとキリスト教やイスラム教に回帰してしまうけど、そこは袋小路です。そこは反リベラリズムではなくて、リベラリズムの根元なので、ただただカルト宗教です。
中国の歴史的な儒教は宗教的な色彩薄く道徳主義を構成しているので、長所がある。でも現代に権力の善意の限界を200%理解する武器としては全く不十分でしょう。それに、共産主義に一度染まってしまった国は、その過去を否定しきれませんから、アイデンティティの正当性を求めるとリベラリズムを肯定することから逃げられない。
日本人は、一神教に染まるほど愚かではなかったし、共産主義に染まるほど愚かでもなかった。
それらに染まった歴史がないから、自らの出自のアイデンティティを、リベラリズムに依存することなく取り出すことができます。
リベラリズムに喧嘩を売って核兵器を落とされたという過去は、非常なプラスの価値ですらありえる。
日本人は、最も善良で最も知的な民族の一つだと、私は信じます。
明日の人類のための哲学、アンバランスでないモラルの哲学を、日本人ならば建設できる。
そのために、教育勅語の功罪からは学ぶべきところ、学べるところが確かにあります。
だから私は、しばしば教育勅語が論争の的となることを、肯定的に捉えています。
しかしどうでしょうね。
現代というファンタジーを外側から見ればほとんど地獄ですから。
真実を見る目など持たないほうが幸せには違いありません。
どうせ深くは理解されまいと思っているから書けているのかもしれません。
あまり深く理解しないでください。
個人で挑んでも殺されるだけですから、時代の空気を少しずつ改善するくらいを目指しましょう。
大雑把にまとめます。
主権や人権という近代的なリベラリズムの概念は妄想であって、現実には存在しません。
「早まった一般化」です。つまり過度に抽象化された社会モデルからの論理的帰結なので、現実社会をそれに完全に帰着させようとしたら、ユートピアを目指してディストピアになっちゃいます。
公正を美徳とすべきであり平等を美徳としてはならない。そして何を公正と見なすべきかは思考し議論しつづけるしかありません。信じる公正を論理的に述べ立てる力を欧米に学びましょう!
逆に言えば、主権や人権の正義に酔えば、かなり気持ちいいという誘惑はあります。
脳の病気なわけです。人類にはお医者さんが必要です。
権力と並んで偽善こそは、公正な社会を建設するにあたって、代表的な危険因子です。