おわり
おじいさんは、しわくちゃの手で重たそうな本の扉をゆっくりと開いた。
しかし、本の最初のページは真っ白。目をこらしてみても写真はおろか、絵も文字さえもどこにもない。
がっかりしてリョウがおじいさんの方に目をやろうとしたそのとき、後ろの方からパタパタと人が走ってくる音がした。
目を上げると、そこは公園ではなく、夕暮れの光に染まる広い部屋の中だった。
後ろを振り返ろうとしているのに、リョウの視線は左手の壁までしか届かない。窓の向こうから差し込んでくる木漏れ日が、壁一面に貼られた動物たちのイラストの上に大きなかげを作ってゆっくりとゆれている。
ふわっとリョウの体が空中にうかび上がった。後ろから誰かの手がリョウの両脇をつかんで抱えあげたのだ。そのまま空中でくるっと回転したリョウの体は、その人の胸の中にすぽっとおさまっていた。
「遅くなってごめんねぇ」
リョウを抱えた女の人の声が胸を伝ってびぃんびぃんと響いてくる。
その声を聞いたとたん、リョウは突然がまんできなくなって、大声でうわんうわんと泣き出した。
ひとしきり泣いて目を開けると、公園の植え込みが見えてきた。とんぼがつぃーっと前を横切っていく。目に手をやったが、涙はすっかりかわいていた。横を向くと、おじいさんがにこにことほほえんでいる。
リョウが何か言おうとしたとき、おじいさんの手がゆっくりと次のページを開いた。
次のページも真っ白だ。
本からゆっくりと目を上げると、前には夜の景色が広がっていた。見慣れた景色。それはリョウの家の近くの道路だった。
向こうにいつも行くコンビニが見えている。ずいぶんと高いところからコンビニの白い灯りを見つめて、ゆっくりと近づいていく。ふあんふあんと体がゆれて、灯りも大きく上下にゆれる。
「リョウ」
下から、男の人の声が呼びかけた。びっくりして下を見ると、そこにはパパの顔がある。リョウはパパの肩車に乗っていた。
「パパは今度お仕事で遠くに住むことになったんだよ。しばらくリョウとママとふたりで暮らすようになるけれど、大丈夫かな」
パパがリョウの足の間から見上げて聞いた。リョウはパパの顔を見下ろして、『ぜんぜん大丈夫なんかじゃない!』と言おうとしたが、リョウの口からはちがう言葉が出てきた。
「大丈夫だよ、パパ」
「そうか。たのんだぞ、リョウ。ああ見えてママはけっこうこわがりなんだぞ。リョウは強いからママのこと見守ってやってくれな」
「うん、まかせておいてよ」
パパはそれを聞くと「ようし」と言って、コンビニめざしてかけ出した。コンビニの灯りが笑っているようにはげしく上下する。リョウはパパの髪の毛をつかんできゃあきゃあとさけんだ。
―― このあと、パパはたのまれていたものを間違えて買って帰って、ママに文句を言われたんだっけ。ふたりで顔を見合わせて舌を出して笑ったんだった。
それじゃあ、これは、みんなぼくの思い出じゃないか。前のページは保育園のときの出来事だ! ――
リョウがはっと顔を上げると、また目の前は公園の風景にもどっていた。おじいさんはぱたんと分厚い表紙を閉じた。もうだいぶ日が傾いて、空はうすいピンク色になっていた。
「おじいさん、これは、ぼくのアルバム……」
「スズキさーん!」
リョウの言葉をさえぎるように、背中の向こうから女の人の声がした。ぼくとおじいさんは、同時にふりかえる。
「まったく、困るじゃないですか、スズキさん!勝手にいなくなって!」
看護師さんのような白いスモックとズボンを来た女の人が、おじいさんの方を見て、慌てて走ってきた。
「おじいさん、ぼくと同じ苗字なんだ」
「ほう、そうかい? まあ、たくさんある名前だからの」
おじいさんはリョウに軽くウィンクすると、本にまた鍵をかけて、どっこらしょと立ち上がった。それからゆっくりと女の人の方へ歩いていった。女の人はだいぶ探し回ったのか、肩で息をしながら、おじさんに何やら文句を言っている。おじいさんはすまんすまんと言いながら、うなじのあたりの白髪をしきりにかいていた。
そのときリョウは、おじいさんのうなじに大きなホクロを見つけて、びくっとした。自分でうなじのあたりを探ってみる。今朝ママが指でぎゅっと押したあたりを……。
「おじいさん!」
リョウが呼びかけると、おじいさんは人差し指を立てて口に当て、シィーっという口まねをした。
おじいさんの方へかけ出そうとしたとき、つま先に何かが当たりチャリンと小さな音をたてた。
リョウの家の鍵が、足元に転がっていた。
リョウが鍵を拾ってまた立ち上がったときには、もうおじいさんの姿も女の人の姿もどこにもなかった。
空はいよいよ茜色に変わっていた。
リョウはポケットに鍵を押し込んで、ランドセル背負うと、さっきやって来た道を走って戻っていった。
「はてさて、ちょうちょうが男の人になった夢を見たのか。
それとも、男の人がちょうちょうになった夢を見たのか」
「いったい何のお話?」
「うん? むかし聞いたお話じゃ」
「それで、本当はどっちなの?」
「どちらかのう?」
「なんですか、それ。分からないの?」
白衣の女性が車椅子を押しながら、はあと大げさなため息をついて見せた。
おじいさんはふふと笑って、ひざの上に置いた本の固い表紙を優しくなでた。
(終)
(胡蝶の夢)
以前のこと、わたし荘周(荘子)は夢の中で胡蝶となった。喜々として胡蝶になりきっていた。
自分でも楽しくて心ゆくばかりにひらひらと舞っていた。荘周であることは全く念頭になかった。はっと目が覚めると、これはしたり、荘周ではないか。
ところで、荘周である私が夢の中で胡蝶となったのか、自分は実は胡蝶であって、いま夢を見て荘周となっているのか、いずれが本当か私にはわからない。
荘周と胡蝶とには確かに、形の上では区別があるはずだ。しかし主体としての自分には変わりは無く、これが物の変化というものである。
―― 物の変化とは表面に現れた現象面での変化に過ぎない。胡蝶と荘周が形の上において大きな違いを持ちながら、共に己であることに変わりはない。万物は絶えざる変化を遂げるが、その実、本質においては何ら変わりのないことを述べているのである ――
Wikipediaより引用