一章-2
2
学校から帰宅し、夕食も食べ終え、一日の終わりが目前にまで迫ってくる時間になっていた。見たいテレビ番組など何一つなく、ベッドの上に寝そべって何を考えるでもなく、ただぼーっと天井を眺めていた時、一つの記憶が湧き上がってきた。
昼間、ピナが話していた〝他人の夢の中に入る〟というもの。サキチがあんなことになったからあまり考えないようにしていたけれど、そう考えることによって余計にきになっていたのだろう。
もしかしたら本当に実在するんじゃないか? という淡い期待を持ちながらも、そんなものは絵空事だ、と現実として理解していて懊悩する。
もう一つ蘇る記憶、サキチの反応だ。
ピナがあの話しをするまではいつも通りだったと言うのに、それがこの話になったとたん目に見えて機嫌が悪くなった。
『昔の友達を思い出しただけだ』
きっとそれは事実なのだろう。ということはその友達とこの噂話に何か関係があるのだろうか? だとしたら、なおさら何も知らないわけにはいかない。
おせっかいなのはわかっているけれど、あからさまにあいつの様子が変わる事なのだからよっぽどに事に決まっている。
決め付け、むくっと身体を起こし、机に座りパソコンを起動する。
そして〝他人の夢の中に入る〟方法について検索を掛けてみる。
幾つもページをめくって、何度もキーワードを変えて調べてみたが、みつけられたものは良くて、質問用の掲示板の記事で、俺が調べているものと同じ物を訊いていて、寄せられた回答でも〝無理〟と言われていた。
どれだけ探してみてもそれらしいものが見つけられず、気持ちが滅入ってきていた時、一つのサイトのタイトルに目が行った。
〝人の夢の中に入れるんだけど、何か質問ある?〟と書かれた大手掲示板サイトの一つのスレッド。
タイトルに惹かれて入ってみたが、頭の中で思うのは「ファンタジーや妄想じゃないんだから流石に無理だろ」と夢の欠片もないようなものだった。
何にも期待をしないで、疲労から眠くなってきた瞼を擦りながら内容を確かめていく。
三日ほど前に立てられたあからさまなネタスレ。そしてその内容はスレッドを立てた〝主〟に質問をしていくと言う、よくあるような内容だった。
訊く方もネタだとわかっているせいで、質問も下世話なものが多く、雨のように文字を流していく。
取るに足りないくだらない内容。やっぱりハズレか。
欠伸をかきながらそれでも、最後まで確かめようと文字群を流していく。
だが、その時、一つの文章に目が止まってしまった。
潜入システム。
夢に入るのに名前とか付いてるの? と訊かれたモノへの返答。
何故だか不思議とその前だけが、降り積もる文字の中でも埋もれずに、見つけ出していた。
「潜入システム、か」
口の中で呟いたその名前。何故だか妙に頭の中に残り離れそうになかった。
そしてこみ上げてくる睡魔。急に眠気が身体を支配してきて、瞼が重たくなる。
逆らつもりがなかったので、そのままふわふわと漂う感覚に身を預け、眠りの世界へと耽る。
†
ふらふらと焦点の合わない視界。枕にしていたせいか、腕には痺れが残って感覚が鈍くなっていた。そんな腕に何かが触れた瞬間、目の前に灯る四角く縁取られた明かり。
蛍光灯の明かりが灯っていない暗い室内をその淡い明かりが、朧に辺りを映し出す。
霞が掛ったかのように薄暗い室内。街灯の明かりがカーテンの隙間から僅かに零れ、窓が暗闇の中で浮かび上がっているようだった。
虚ろな暗闇。
くつろげる自室の筈なのに、何故だか立ちこめてくる厭な空気。不気味な程に静かな室内。
ジーッ、
突如変圧器があげる、頭に着くような不快な音が響く。
虚ろな瞳で顔を照らす明かりを見つめる。
知らないうちに眠っていたようだが、視界も確かなもへと変わり始め、眠っていた実感を残すのは腕に感じる麻痺感だけとなっていた。
いつ消したのか記憶にない照明。だがそれよりも不気味なものが目の前にあった。
ノートパソコンの画面が映し出しているそのページ。
自分で弄ったのかとも思ったが、思い出そうとして見ても頭の中には重石のように重たいモノがあるだけで鮮明な記憶はない。
なぜか消えていた照明、なぜか変わっていたページ。これだけども異様だが、そんなものを霞ませてしまうものが目の前にあった。
黒の背景に淡々と白い文字で書かれたそれ。
潜入システム。
その文字を目の当たりにし、認識した瞬間。身の毛が逆立った、心臓が跳ね上がった。
探し求めていたモノがいきなり目の前に現れたかのような驚きに、身体が震えた。
だが、こみ上げてくる感情は、歓喜というものとは正反対、恐怖だった。
黒塗りの中に浮かぶ〝潜入システム〟の文字。
それ以外のモノは何も存在していないページ。
それだけなのに、ひしひしと厭な空気が伝う。
こんなサイト、閉じてしまえばいいんだ。
そう思い至り、マウスに向けてゆっくりと腕を動かし、掴んだ。
マウスの動きに連動して動く画面内のカーソル。それが〝潜入システム〟の文字と重なった瞬間、普段の矢印が指の形へと変わった。
つまり、この文字は何処か別のサイトへと繋がるリンクになっているようだ。
その事に気がついてしまい、閉じようと動かしていたカーソルが文字の上で静止佐多ママ動かせない。
このまま右上に動かし、閉じるボタンをクリックすれば、こんなモノ見なかった事にできるのに、その事を理解しているのに、この文字は引きつける力があった。
躊躇わせ、この先がどこに繋がっているのか気になっていた。
夏も過ぎ、暑さを忘れかけていたと言うのに、額からは一筋の汗がつーっと静かに流れた。いつの間にか口に溜まっていた唾を嚥下した。
部屋中を満たす静寂。
微かに動かした指先。
そして、
カチ、
静寂の中ではよく聞こえる音がマウスから放たれた。
直後、黒い画面が一瞬だけ白く反転し、リンク先のサイトへと飛んだ。
再び映る闇のように暗い黒の背景。浮かび上がるように綴られている白い文字。
〝ようこそ、ハルキ君。〟
そこに書かれているものが何なのか一瞬理解できなかったが、内容を把握した瞬間、椅子から転げ落ちそうになるほどの焦燥が押し寄せた。
なんで俺の名前が書かれている!?
突如、頭の上の方から下の方へと冷たいモノが降りていった。
不気味さから、不安から、逃げ出そうとしたが、縫いつけられたかのように視線を画面から外すことができなかった。
そして、自分の名前の記された行の次を読む。
〝君に潜入システムを受け取る権利をあげよう〟
何なんだ? このサイトは?
更に不安が募るが、それでも尚、読み進める。
〝望むか否か、君が決めるんだ〟
その最後の一行を読み終えた瞬間、画面の中に浮かんでいた文字が崩れ、ノイズか走った。そして次の瞬間には新たな文字が記されていた。
漆黒の中に浮かぶたった二つの単語。
〝是〟
〝非〟
それだけが白く、形をなしていた。
触れたきりマウスから放していなかった腕が動き、連動してカーソルも移動する。
操り糸によって操作をされているかのように、淡々と動く腕。
虚ろな瞳で画面を見つめたまま、カーソルを見つめ、止まる。
そして、
カチ、
虚しい暗闇の中に、再びクリックの音が響いた。
刹那、頭に響く鈍痛。内側から石で殴られいるかのように、割れる鈍い痛みが意識を刈り取っていく。
「うっ、がっ」
声にもならない悲鳴が小さく闇に吸われる。
痛みに耐えようと抵抗して、焦点すら定まらなくなっていた視界が縦にぶれた。
下から上へと画面の明かりが残像として映る。
椅子から落ちたのか?
そんな一瞬の思考すらも、生まれる痛みによって掻き消されわからなくなっていく。
彩度を失い輝度も消え去っていく視界。
何もない、暗い意識の中に消えていく。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
白く、どこまでも白く塗りつぶされた空間。
天から降り注ぐ輝きがなければ、地からの照り返しもないにも関わらず、遠くどこまでも見渡すことのできる程明るい空間。
影が落ちない地面、限りが見えない天井。進んでいるのか戻っているのかもわからない、真っ白で真っ新な空間。
そんな物悲しい空間の中を浮き、漂うものがあった。
長方形の縁があしらわれている幾つもの窓枠。
数え切れないほどの窓枠が、無味閑散としている筈の白んだ空間を賑やかせていた。
窓枠の中で流れる、記憶。
それをなるべく見ないようにしながら、前も後ろも右も左の判別が付かない中を進んでいると信じて歩み続ける。
己の感覚だけを頼りにしてどれほどの距離を歩いてきたのだろうか?
一時間歩きつめていたようにも思えたが、本当は一分しか経っていないのかもしれない。
時間の感覚すら麻痺してしまうような空間の中で、刻々と時を減らしていく時間。
視界の左上に張り付いて、その場から離れることのない行動時間が35:43、35:42、35:41と、一秒ずつ減らしていく。
残りの時間を気に掛けながらまた暫く歩む、と今まで何もなかった筈の目の前に一つのモノが浮かび上がった。
年代を感じさせる、荘厳な木目の扉。
今まで何度も見てきたこの扉、そして見るたびに逸る気持ちがこみ上げるが、見つからなかった時の事を考えて、期待しすぎるな、いさめておく。
そして、鈍い金色を放つドアノブに手を掛けた。
金属のひんやりとした温度が手に伝わり、掌の汗がドアノブに張り付く。
ギィ、
重たい音と共に扉が開き、中の姿を少しずつ露わにしていく。
開いた扉、その中へと一歩踏み入れる。
新たな空間の中に広がっているもの、それは、白。
そして、その中を幾つもの窓枠が漂っていた。
その中に広がっていたモノは、扉を潜る前との違いを見つけ出す方が困難とも思えるほどに、似通った空間。
身体全てが扉を通り抜け、今度は音を立てる事もなく勝手に閉まる。
そして、その扉は光の粒のように解けて消えた。
新たに入った空間も前の空間と同じく、無数の記憶が流れるだけで、他のモノは何一つとして存在していなかった。
ここもハズレか。
胸中で呟き、歯噛みする。
ここにはない、それがわかっているのにも関わらず、諦める事が悔しくて探し回るが、予想通り何もなかった。
もうここで選び取ることのできる選択肢は残されておらず、仕方がなく諦めた。
「離脱」
無念の声色と共に、その一言を詠唱した。
直後、足元から光の粒へと解け出す。爪先から太腿、腹部、更に光の粒は上がり、肩が解け、首が解け、頭が解けると同時に視界が消え去った。
そして、真っ白な空間から人の形が完全に消失した。