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日本家屋でケータイか猫が出る結ばれない恋の話

作者: 高岡たかを

 祖母が死んだ。

 熱中症で死んだ。

 珍しくオレより早く帰宅していた父親からそう聞かされたのは、大学帰りの夜八時で、夕食前だった。

 何とも思わなかった。

 オレの家族が暮らす街と祖母の暮らす田舎は、日本地図を用意した方が分かりやすいほどに遠く離れている。

 小さな時に数回しか会った事がない祖母なんて、ほとんど他人と同じだ。

 感想は「へえ」。

 次の言葉は「エアコンくらいつければ良いのに」。

 テーブルの向いでケータイに没頭している妹の清音も頷いた。

 オレの思考ベクトルは、祖母の死よりも、明日からの夏休みをどう遊び尽くすかに向けられていた。

 期末考査のせいで全然進んでいなかった大作RPGを徹夜してやるっていいな。友達とカラオケ、ゲーセンもいい。密かに筋トレして、身体を鍛えるのも健康的だ。本を読んで知恵をつけるのも捨てがたい。そうだ。高校の時、勢いで買ったベースを練習して弾けるようになろう。

 夏休みは実際に出来るかどうかを別にして、想像だけは無限の可能性を学生に与える。

 父親の報告は、テレビの向こうのニュースキャスターが喋る事件事故と同じで、自分が関与する事になるとはまったく思わなかった。

 だが、


「新幹線の切符を取ってきた。明日の朝出るから」


「うん。気をつけてな」


 この時はまだ、父親一人が葬儀に参加するのだと思っていた。


「なに言ってんだ。一輝も行くんだぞ」

 

 悲鳴をあげた。


「あの、ちょ、オレ、予定が」


「却下だ。参加しなければ、小遣いナシだな」


「卑怯だぞ! 兵糧攻めなんてよお!」


 うえええ。明日が。オレの輝ける夏休みライフが。大作RPGが。カラオケとゲーセンが。消えていく!

 ケータイからようやく顔を上げた妹がニヤつく。


「はいお兄ちゃん残念。行ってら~」


「お前もだ清音」


 今度は妹が悲鳴をあげる番だった。

 議論は白熱した。

 断固拒否する兄妹と、全員参加を訴える父親。

 行きたいなら一人で行けと叫べば、こう言う事は皆で行くべきと返される。

 途中から、我が家の最大実力者、母が父に味方し大勢決した。

 オレは小遣いを。

 清音は携帯使用料を人質に取られれば、無力な扶養家族にはなす術無かったのだ。

 ううう。ちくしょう。汚いよ大人。

 オレが大人になって人の親になった時は、小遣いや携帯料金を交渉材料にしない寛大な親になろう。そう硬く決意した。




 早朝に家を出て、新幹線を二本乗り継ぎ、特急に四時間半揺られた。

 地方駅のホームに降りた時、すでに日は沈みかけていた。

 そこで終わりじゃないからイヤになる。

 親戚が車で迎えに来る手筈になっているのだ。

 ゲンナリする。祖母の家まで車でさらに二時間近くかかるのだ。ここはどこだ。日本か。ちゃんと日本か? 東南アジアの奥地かアフリカじゃないのか? 気が付かないうちに出国ゲートを潜ってなかったか?

 数年ぶりに故郷に帰った両親は、どこか溌剌としていた。

 そこがまた、オレたち兄妹のカンに障る。

 迎えの車が来るまで、駅近くの喫茶店で時間を潰す事になった。

 父はハニーコーヒー。母はあんみつと抹茶セットを。オレは食欲がなく、アイスミルクティーをチョイスした。

 清音はケーキ二種とバナナセーキ。露骨に不機嫌顔な清音は、不満のはけ口を美食に向けるらしい。そう言えば、特急内で食べた駅弁も一番高い物を選んでいた。

 乾電池式充電器を挿したケータイを飽きもせず睨んでいる。妹のツィート件数は爆発的に増加した事だろう。



 小一時間ほど待った。

 迎えの車はまだ来ない。どうなってんだ。山手線なら一周してるぞ。これが田舎時間という奴か。

 何もすることが無い茫洋とした時間が過ぎ、オレは電話をかけなければいけない相手がいる事を思い出した。


「ちょっと電話してくるわ」


 父もタバコを吸うと言って席を立った。母と清音がタバコの煙と臭いを嫌がるので、家にいる時、父は一日に何度もリビングとベランダを往復している。


 カウベルを鳴らして外、


「あ、もしもし。夏見です」


『あい、こちらは梅田。お、おおう。夏見くん?』


 電話の相手、梅田さんは数コールで電話に出たが、会話の反応は鈍い。


「もしかして寝てました?」


『ううん。寝てないよ。寝てない。ウトウトしてただけ。ちょっと落ちかけてたけど』


 その状態は限りなく寝てる状態に近いのでは。

 梅田さんは大学の先輩だ。美術保存実習でオレの指導役だが、最近、大学院受験に向けての論文制作に忙しいらしい。テーマは古文書の修復復元のなんたらかんたら。研究棟に泊まり込んでいる日もあるとかないとか。おかげで、オレたち実習の方はあまり進んでいない。


「あの、お疲れのところ申し訳ないんですけど、明後日の実習、ちょっと行けそうに無いんですよ」


『うん。分かった。夏見くんナシで進めるから。後で誰かからノート見せてもらいなよ。夏休みに入っちゃったししょうがないか』


 どうやら、誤解があるようだ。


「あ、いえ、ちょっと親族に不幸がありまして。それで田舎に二三日」


『そうなの。それならしょうがないよね。それじゃあおやすみなさい』


 電話が切れた。大丈夫なのかあの人。ちゃんと欠席理由が伝わったかスゲー不安なんですけど。

 テーブルに戻る途中、離れたテーブルに灰皿を置いた父と目が合った。


「そんなに来るのイヤだったか?」


 答えにくい質問をしてくる。そういう所がなんかムカつくんだ。


「イヤっつうかさ。面倒臭いんだよ。来るのに丸一日かかるしさ」


「そうか。面倒臭いか」


「ああ」


「おばあちゃんの事、嫌いとか、興味ないとか、そういうんじゃないんだな」


「……ああ、そうだよ」


「お前の名前な。おばあちゃんが付けてくれたんだよ。初めての孫で、とても喜んでくれてな。お別れ言ってやってくれよ」


「分かったよ」


 情に訴えるとか、そういうとこがまたムカつくんだよ。

 そう思って見た父の目元は赤みを増していた。

 小さく舌打ちが漏れる。

 目が潤んでいるのは、タバコの煙が目に染みたとか、そういうのじゃないんだろう。

 そんな顔すんなよ。悪かったよ父さん。



 親戚の運転するワゴン車が到着したのは、それから十分ほど過ぎた頃だった。


「おおー! 遅なって悪かったなあ。エンジンなんかからんなってのお。おお一輝くんかあ、はははデカなったのおデカなった。おっちゃんよりもデカいがやないがかだはは。おっちゃんの事なん覚えとらんか。ほらお父さんの弟やが。だははなん知らんゆう顔しとんの。ああ、清音ちゃんもデカなったのお。お母さんによお似てきはったは」

伯父さん。なに言ってるのか分かりません。





 駅の周りはわりとビルが並んでいたのだが、二十分ほどで見える風景が急に背の低い物になった。

 灯りがひどく遠い。


「本当になにも無いなぁ」


 頬杖を付いて眺める窓の外。

 青い夜空に山の黒い稜線が流れ、まるで子供の頃に見た影絵のようだった。

 清音は、携帯の電波が届かなくなる事を何よりも恐れていたようだが、未だに携帯感度は良好状態を保っている。

 伯父さんの家でもある祖母の家に着く頃には完全に日が暮れていた。

 伯父の家は、小さな頃遊びに来た時の記憶とは違い新しかった。壁紙は白く、新築の匂いがする。

 去年の春、母屋が古くなったので、畑を二つ潰して新築したらしい。

 伯父夫婦の子供はまだ小学五年生。素直ちゃん、って名前だ。都会から来たオレたちを珍しそうに見ている。

 オレたち家族は祖母に手を合わせると、夕食を御馳走になった。

 伯母さんの作った煮物は、最初こそ箸を着けづらかったが、一度食べてみると悔しいくらいにウマかった。




 虫の。鳥の、風の。山の葉擦れ。

 田舎って静かなイメージあったけど、そうでもねえな。

 車の排気音とか、救急車のサイレンとか、人工の音じゃないからそれほど気にもならないけれど。

 むしろ、落ち着く。静かすぎるよりは良いかもしれない。

 用意してもらった部屋には親父と二人。

 隣の親父はすでに眠っているらしい。

 親と同じ部屋で寝るのって、久しぶりだな。

 たまに、親父の寝息が二十秒ほどピタリと止まるのが気になると言えば気になるが……。

 無呼吸症候群とか言う奴か。

 オレは中々寝付けず、ウダウダしていた。

 疲れているから寝入りは早やかろうという目算は、環境の変化の前に御破算になった。オレ意外と繊細。

 寝返りをうって枕もとの携帯に手を伸ばす。

 先週、買い代えたばかりのスマートフォンだ。店員に勧められて買ったので、イマイチ使いこなせていないが。

 表示された時刻は、日付が変わっていたものの、先ほど確認した時から三十分しか経っていなかった。

 ホーホー。

 ホーホー。

 梟の鳴き声が聞こえる。

 そう言えば、ガキの頃の夏休み、暗い山から聞こえるあの鳴き声が怖くて眠れなかったっけ。

 ホーホー言う声が、梟のモノなんだよ、と優しく教えてくれたのは祖母だった。


「ばあちゃん……」


 そう言う事もあったな。

 鼻の奥がツンとしてきた。




 山間にある祖母の家は大きかった。

 古い木の匂い。陽の匂い。土と草の匂い。

 セミの鳴き声。

 麦わら帽子で汗だくのオレ。首に掛けた虫取りカゴには、今日の狩猟の成果。

 奥の部屋が祖母の部屋で、玄関から家に入らずとも、広い庭から回り込めばすぐに祖母の部屋に上がる事が出来た。

 小さなオレは、田んぼのあぜ道で見つけたヤゴの抜け殻やら、キレイな花、小川で見つけたキラキラした小石を拾っては、祖母に見せに行っていた。


「おばあちゃーん」


 縁側に手を付き、サンダルを脱ぎ散らかし、部屋へと上がる。

 絣の浴衣姿の祖母は古い扇風機の前でクッキー缶を広げていた。

 オレは一瞬前まで今日の収穫を披露しようと思っていたのだが、青い畳の上に広げられていた紙片への興味が勝った。


「なにそれ?」


「これはね、おばあちゃんの大切なものだよ」


「宝物?」


「そう。宝物」


 祖母は細い指で、広げていた紙片を丁寧に油紙で包み直すと、クッキー缶に仕舞った。


「片付けちゃうの」


「うん。充分だからね。カッちゃんとおばあちゃんの秘密だよ」


「秘密? うん良いよ」


 何も分からないまま指きりをした。大好きな祖母と何かを共有できる事がただ嬉しかった。

 と、伯母さんの声がした。


「カッちゃーん。おばあちゃーん。スイカ切ったよー」


「スイカだって、カッちゃん」


「うん。今行くー!」


 オレはカゴと麦わら帽子を置くと、駆け出そうとした。


「ばあちゃん。早くしないと、オレが全部食べちゃうよ」


「はいはい」


 祖母はにこやかに笑いながら、天袋に『宝物』を仕舞った。





「一輝。起きろ」


 親父に起こされ瞼を上げた。


「寝相の悪い奴」


 オレを揺さぶる父は笑っていた。

 なるほど。寝ている間にゴロゴロと移動してしまったのか、畳の上だった。

 畳って涼しくて気持ち良いな。今度、畳タイプのマットでも買ってベッドに敷いてみようかな。


「朝飯食べたら、顔洗って着替えろよ。ヒゲ剃り持ってきたか?」


 親父に応えず、オレは寝ぼけ頭のまま、体を起こして周囲を見た。

 記憶の部屋とは違う。そうだった。新築したんだった。


「おい。まだ寝てるのか?」


「聞いてる。分かった。シェーバーは自分の持ってきた」


 のっそりと体を動かす。朝飯より先に眠気覚ましにシャワーでも浴びたい気分だった。その後、氷をたっぷり入れたアイスコーヒーでも飲みたい。


「……ばあちゃんの夢見たかもしれない」


 寝癖で浮き上がった髪に指を入れながら言うと、親父は「そうか」と小さく笑った。





 母屋で倒れている祖母を見つけたのは素直ちゃんだった。


「あたしビックリした」


 まさか、巷でよく聞く熱中症だとは思わず、最初は何かの冗談だと思ったとか。

 一人ではどうする事も出来ず、大慌てで伯母さんを呼びに走った。 その時はまだ涙は出なかったと言う。


「なんでか分からん。死ぬとは思わんかった」


 そう話す素直ちゃんの日焼けした横顔。うっすらと涙が浮いていた。

 素直ちゃんから緊急事態を知らされた伯母さんは、畑に出ていた近所の農家に助けを求めた。

 救急車を呼ぶよりも、軽トラに乗せてでも病院に運んだ方が早いと判断したらしい。

 隣三軒両隣。困った時はお互い様。田舎の結束力に村社会。農家のオジサンは農具を放り散らした軽トラの荷台に布団を敷き、グッタリとして動かない祖母を寝かせた。助手席には農家の奥さん、荷台には氷嚢と水を抱えた伯母が乗った。

 素直ちゃんはお留守番。仕事に出ている伯父に電話したが繋がらず、不安で不安で仕方がなかったらしい。分かる気がする。

 農家のオジサンの運転する軽トラは年式に見合わぬ頑張りを見せたが、間に合わなかった。

 夜中、伯母さんが疲れた顔で帰ってきた。病院で合流した伯父さんも一緒だった。


「大往生や。大往生なんや。そう思わななぁ……」


 伯父さんの言葉から、素直ちゃんは祖母が亡くなった事を知った。


「あたしがもうちょっと早く、見つけとれば、ばあちゃ死なんかったんかなあ」


 近所の寺まで歩いて移動中、素直ちゃんの言葉にオレも清音も涙ぐんだ。


「素直ちゃんのせいじゃないよ」


 清音は、うつむく素直ちゃんの頭を撫でた。


「ほやけど。ほやけどさあ……」


 ダメだ。マジでダメだ。切なすぎる。

 素直ちゃんの声に嗚咽が混じり、自然と歩く速度が遅くなる。

 寺はもう見えている。

 でも、もう少し、時間をかけても許されるだろう。

 いっそ立ち止まっても良いだろう。

 オレたちのばあちゃんは、優しい人だったから、孫たちが少しくらい遅刻したって、大目に見てくれるだろう。

 白いカッターシャツに黒のネクタイのオレも、セーラー服の清音も、小学校の制服姿の素直ちゃんも道の真ん中で立ち止まってしまった。

 頭上の青空、飛行機雲が三人を追い越して行った。


「やけど、母屋におるなんて分からんかったんやもん。ばあちゃがおるがやなんて分からんかったがいもん」


 オレは来た道を振り返った。

 青い山に囲まれた曲がりくねった窪地。田圃に挟まれた農道。伯父さんの家。すぐ近くの垣根越しに見える古い母屋の屋根。

 黒い甍が陽の光を返している。

 不意に思った。

 祖母が母屋にいた理由。

 祖母は『宝物』を見ていたのではないのか。

 そして、戻る途中に具合が悪くなって動けなくなった。

 祖母は秘密だ、と言った。

 だとしたら『宝物』の存在を知っているのはオレだけではないのか。


「お兄ちゃん?」


「なあ、清音。式までまだ少し時間あるよな」


「あるけど……。どうしたの?」


 親族は少し早目に集まる事になっている。清音に聞くまでもない。

 確認と言うよりも、自分の背を押すためのものだ。


「ちょっと用を思い出した。父さんとかに聞かれたら、適当に答えといて」


「お兄ちゃん!?」


 オレは走り出した。





 垣根を回り込んで、縁側から上がるのが祖母の部屋までの近道だ。

 が、


「げ!」


 雨戸が閉められている。

 誰だよ! 田舎は防犯意識が薄いから、鍵掛けたりしないって思ってたのは! オレだよ!

 一か八か、オレは雨戸に手をかけ、思い切り持ち上げた。

 バコン、という敷居が外れる音がして、重い雨戸が倒れた。良かった……。これでダメなら、誰かから鍵を借りてこなければならない所だった。そうなったら、事情をどう説明したら良い物だったのやら。

 革靴を脱いで縁側に上がると、記憶の通り大きな家だった。少し廊下が狭くなったような錯覚があるのは、オレの体が大きくなったせいだろう。

 外した雨戸から光と外気が差し込み、室内に溜まった埃が光って見えた。

 ……動かせる物は、全部新築の方に移したんだな。

 畳の上にタンスの四角い跡が残っていた。

 懐かしいな。

 色の違う壁に手を当てる。ここら辺に茶棚があって、その上にガラスケースに入った藤娘の人形が有ったんだよな。無表情で怖かったな。

 そうそう、鴨居のあの辺りに額縁があって、赤富士が掛ってたな。

 なんだ。この部屋に入るのは十年ぶりくらいだけど、意外と覚えてるもんだな。

 そうそう。あとアレだ――じゃねえよ。

 オレは懐かしさのあまり目的を忘れかけている事に気づいた。

 いかんいかん。

 オレはネクタイを外して丸めると、ポケットに仕舞いこんだ。

 天袋に手を伸ばす、襖に指先が触れた。背の低い祖母は脚立か何かを使っていた気がするが、オレは背伸びすれば何とか届いた。


「たしか、ここの天袋だったと思うが……」


 いらん事覚えてたクセに、ここ間違えてたらテンション下がるな、と若干の不安を感じていたが、杞憂で済んで良かった。

 粉っぽい埃と一緒に、少女の横顔が描かれたクッキー缶が出てきた。指で引っ掛け、落とすように引っ張り出す。

 古いクッキー缶は四隅が剥げて錆びが浮いていた。


「……よし」


 やっぱりあった。これが祖母の宝物だ。

 丁寧に下ろし、蓋を開ける前に一応手を合わせた。


「拝見いたします」


 変色した油紙に包まれていたもの。子供の時に見た紙片の正体は、記憶の通り、何通もの手紙だった。


「…………」


 脆くなった油紙を壊さないよう、細心の注意を払い、手紙に触れ―――――――――――――――――――……………




 …………―――はえっ?

 オレは雪降る駅のホームに立っていた。

 何が何やら分からず、周囲を見ると、大勢の人間がいる。そのほとんどが老人や、女子供で、皆着物に似た服――いや、あれはモンペとか国民服とか言う奴だ。

 戦争映画とかドラマ、近代史の授業で見た事がある。

 それが、なんで?

 と、遠くから低い汽笛の音が響いてきた。

 レールの先に目をやると、蒸気機関車が走り込んで来る。

 ウソだろ……! SLじゃねえか!

 戸惑いながらホームに目を戻すと、一人だけレールに背を向け、駅舎に向いている人がいた。

 オレとそう年も違わない若い男だ。坊主頭に小さな帽子を乗せ、ちっとも似合わない軍服の肩には『祝出征』の文字と日の丸。

 男がビシッと敬礼すると、歓声が沸き起こった。

 どうやら、大勢の人々は彼を見送りに出てきたらしい。日章旗が振られ、八幡宮の幟を掛けた竿が並ぶ。六人がかりで掲げる横断幕には日の丸を挟み『武運長久』『七生報國』の文字。

 どうなってるんだ。


「それでは、行って参ります」


 男はそう言うと、客車に乗り込んだ。


「万歳!」


「万歳!」


 一斉にバンザイが始まった。

 駅員が扉を閉め、笛を吹くと、機関車が黒煙を吹き上げる。

 ゴトン、と重たい音がして、車輪が動き出す。

 見送る人々は雪が強くなる中、さらに強く旗を振り、バンザイを叫ぶ。

 列車がゆっくりと動き出す。

 雪は吹雪にも近くなる。

 歓声と、汽車の駆動音の中、その声は響いた。


「一輝さん!!」


 ハッとした。

 声に反応したのはオレだけじゃなかった。

 客車の中の男もその声に振り向いていた。

 人々の壁をこじ開けるように、背の低い着物姿の若い女性がまろび出てくる。

 驚いた男が客車のガラス戸に両手を当て、顔を近づける。

 走りだした機関車にもう一度、女性が叫んだ。


「一輝さん!!」




 …………――――――――――――――――え?

 な、なに?

 今のなに?

 セミの声。歓声も汽笛も消えていた。

 毛羽立った畳。祖母の部屋だ。

 い、今、オレ。間違いなく、ここにいなかったよね……?

 汗が顎を伝っていた。

 セミの声。

 そう。季節は夏。祖母の葬儀でオレは親父の田舎に来て。

 でも。

 でも一瞬前。たしかにオレは雪降る駅のホームに立っていた。

 なにが、起きたのだろう。

 幻覚と言うにはあまりにリアル過ぎて。

 蒸気機関が吐きだす石炭の煤っぽい匂いも、頬に触れた雪の冷たさも、人の熱気も、五感に触れた何もかもが幻想とは思えなかった。

 じゃあ、何かよ。アレかよ?

 オレ。時をかけちゃってた?


「は、ははは……」


 呆然とし、状況がまるで飲み込めないまま、視線を落とすと、手の中に祖母の手紙の束が収まっていた。


「……マジっすか」


 この手紙が、あのリアルな幻覚を見せたのだろうか。

 恐る恐る油紙を剥がし、手紙を取り出す。

 何枚かのハガキに便箋だ。日焼けで紙の色が変わり、文字も擦れてロクに読む事が出来なかった。

 ただ分かる事は小さな紙片に、文字がビッシリと書き込まれている事。

 アレは。さっき見たホームの幻はこの手紙に関係した事だったのではないのか。

 唾を呑むと、汗が滴になって畳に落ちた。

 なんだったのだろう。

 アレがもし、実際に起きた事だったと仮定して……。いや、不思議と確信が持てる。オレが幻視したものは、手紙に綴られた一場面だった、と。

 と、なると気になる事がある。あの、オレと同じ『一輝』という名前の男は、出征してどうなったのだろうか。

 さっき見たホームの幻から手がかりを探す。横断幕には、『昭和二十年』と書かれていたような……。昭和は二十五を足すと、西暦に直せるから、西暦では1945年……って待て。終戦の年じゃないか。

 終戦直前の冬に赤紙が来たのか。あと、半年ほどの辛抱だったのに。

 無性に気になった。『一輝さん』は無事に生き残れたのだろうか。

 多分なのだが、ラストに登場したあの女の人。アレ、若い頃のばあちゃんだ。一輝さんとの関係も気になるところだ。

 擦れた文字を追うが、ほとんどが消えかけていたり、文字が滲んでいたりして意味をなさない。


「どうなったんだよ……あれから……」


 手紙は何通もある。あの場面の後に送られたものがあれば、出来れば、昭和二十年の八月十五日以降のものが出てくれば、あの一輝さんが無事だと分かるのに。

 ……チクショウ。日付印まで潰れていて分からない。

 それに、これ旧字と言う奴だろうか。一見して難しい漢字とカタカナが入り混じる文章を読み解くのは、ひどく難解な作業を予感させる。

 葬儀が始まるまで時間はそれほど残されていない。

 どうすればいい。

 どうすれば―――


「あ」


 いるじゃないか。

 一人、その道のプロが。





『はいよぉ梅田です! 寝てませんよ!』


「……寝てましたね。梅田さん」


 大学の先輩にして、院生受験に挑む梅田さんはワンコールで出た。早押しクイズの回答者もビックリのスピードだ。


『なんだ夏見くんか。目覚まし時計かと思った』


 しかも寝ぼけていらっしゃる。


「あの、梅田さん。今、大丈夫ですか?」


 オレはなるべくゆっくり事情を説明した。


『ふむふむ』


「で、研究室に古文書を復元解析するパソコンあったじゃないですか」


 五百年前の古文書を解読できる人なら、たかだか六十年前の手紙を解読できないはずがない。たとえ文字が飛んでいたとしても、データ化して光を当て、陰影から文字を浮き上がらせる最新鋭の機材が存在するのだ。


『ふむふむ』


「あ、あの梅田さん? 聞いてます?」


『くかー』


「梅田さん! 起きて起きてぇ!」


『なんだよぉ。眠いんだよぉ。夏見くんのそれ、完全に私用じゃねえかよお。いけないんだ。研究設備を勝手に使ったら怒られるんだぁ。そんなに気になるなら、橿原にでも頼めよお』 


「それじゃ、間に合わないんです。お願いです。梅田さんしか頼れる人がいないんですよ」


 『ふむ』と電話越しに溜息が聞こえた。


 そのまま、二十秒ほど沈黙。もしやまた寝られてしまったかと不安になり、声をかけようとした時だった。


『しょうがないなあ』


 やった! 心中喝采。


『で、どうすんだっけ? 放射性炭素測定だっけ』


 ……やっぱ寝ぼけてないかこの人?


「製作年代は昭和初期だと判明してますから」


『そう言えばそうか。で、どうすんの?』


「あ、今から写真撮ってメール添付しますんで」


『……本物送れないなら、それしかないかぁ。出来れば実物預かって筆跡みたいのもあったら良いんだけどな。精度は期待しないでよ。ああ、低精度でも意味さえ繋がれば大丈夫なのか。眠いなあ。でもね、夏見くん』


 梅田さんは欠伸を一つした後、


『その手紙はさあ、夏見くんのおばあさんの『宝物』なんだよね。そんな超プライベートなものをアタシみたいな部外者が読んでも良いのかなあ。そこ考えてよね』


 電話口から『ふぁあああ……』と聞こえてきた。

 祖母は手紙の束を宝物だと言っていた。オレに秘密だとも言った。

それを、本人の断りも無く他人の目に触れても良いものか。

 しばし逡巡し、


「あの、梅田さん。信じてもらえないかもしれないんですが――」


 オレは、さっき体験した出来事を語った。解析依頼の時は、意図的に話さなかったのだ。


『……オイオイよぉ』


 電話の向こうで梅田さんが呆れた顔をしているのが容易に想像できた。


「別に、信じてもらえなくても良いんです。オレは、信じてみようと思いますから」


『それは良いんだけどねえ』


「あちらの一輝さんがどうなったのか、気になります。それに、この手紙を見つけた事は何かしらの意味が有るような気がするんです。多分、オレには知っておかなきゃならない事があって、祖母がオレをココに呼んだ気さえするんです」


『…………』


「だから、読めなきゃ意味がないんです。すみませんが、他人の手紙を盗み見る共犯者になってくれませんか」


『――へくしっ!』


 ……この場面でクシャミしちゃうのかよ。この人。


『よーし。活力湧いて来た。眠気覚ましにコーヒー買ってくるから、その間にアタシのパソコンまで送っといて。ちゃっちゃーとやっちゃうから』


「それじゃあ」


『うん。葬儀前に決めちゃうよ』


 オレは梅田さんがいると思われる方向に頭を下げた。




 一枚目の返信は予想以上に早かった。


『超楽勝。現代語に訳してあります。何通かは消印と住所氏名が無かったから、直接渡した可能性大。以下、文面』





――拝啓。朝田なつ様。見知らぬ男から、絵のモデルになってくれとの突然の申し出、大層、戸惑いになられた事でしょう。正直に白状いたしますと、私は以前から貴女を知っていたのです。私は西洋画家の道を志し上京しましたが、中々に自活の道なく、細々と少年雑誌の挿絵を描いて糊口を凌いでおりました。理想と現実の我が身の落差に気持ちが塞ぎ、鬱屈とした日々を過しておりました。そんな中、悪友(私が貴女に声をかけた際、私の後ろでニヤニヤと笑っていた男であります)が、カフェーに行こうと私を誘いました。気乗りせぬまま、嫌々赴いたカフェーで給仕として甲斐甲斐しく働く貴女の姿を一目見て、私は恋に落ちたのです。率直に申し上げれば、一目惚れであります。幾度か用も無いのにカフェーに足を運び、珈琲一杯を購う銭も無い時は、店先をひどくゆっくりと歩いた日もありました。欧州はフランス国の詩人ならば、この心を言い表す美しい言葉を幾らでも紡げるのでしょうが、私は自活の道すら見えぬ絵描きで、絵を描くより他、我が心を綴る術を持ちません。甚だ無礼千万と承知の上、勤労に勤しむ貴女を引き止めて話を切り出した次第です。もし万が一、私の胸中お察しの上、それでもモデルの件お引受頂ければこれ以上ない幸いと思います。

 追(世間では洋画は裸婦を描きて破廉恥であるとの声を耳にしましたが、私は裸婦を絵にしませんのでご安心のほどを)


  



 やっぱり、と言うか何と言うか、ラブレターだった。

 朝田ってのは、ばあちゃんの旧姓か。

 しかし、この一輝さんよく分かんない人だな。直球で勝負しようとしてんのか、変化球で勝負しようとしてるのか。なんとなく、直球投げようとして思いがけない変化が掛ったとか、変化球投げようとしてスッポ抜けて直球になったとか、そんな感じがする。

 誠実な人だったのだろうけど。

 つか、文面から察して、ばあちゃん東京にいたのか。それに一目惚れされてるし。ホームの場面で見た時はたしかにキレイな人だったが。

 そう思っているうちに、二通目のメールが来た。




 『二通目でーす。文通を始めたみたい。何通分かをまとめて送ります。以下文面』



 ――土用と言えば鰻を食すのが世間一般でありますが、僕の生地では専ら泥鰌を食す事が多く有ります。



 オレはスマートフォンを持ったまま脱力した。

 なんなんだこの人。ウナギとかドジョウとかどうでも良いよ。他に話す事ないのかよ。てか、会える距離にいるんだから直接話せば良いじゃないか。

 スクロールさせると、そこには六十年前の若者の姿があった。


 ――貴女をモデルになっていただいた件の絵についてですが、下絵を先生に見ていただいたところ、お褒めの言葉を頂きました。先生曰く、モデルが良いのだ、との事。我が身の至らなさ痛感するばかりです。


 ――芝居鑑賞の誘い、お受けしていただき嬉しく思います。


 今で言うメール感覚なのだろうか。ただ、口下手だったのだろうか。

 やり取りされた手紙を読み、口元が緩む事が何度かあった。

 これ、ばあちゃんもまんざらじゃなかったんだろうなあ。

 絵が売れた事、絵の先生に褒められた事。日々の嬉しかった事が綴られていた。

 何通か分を読んでいくと、次のメールが梅田さんから届いた。


『文面』


 梅田さんのコメントが無い。気にせずにスクロールさせ、


 ――以前、徴兵検査を受けた折、兵隊の方(確か何某少佐という佐官の方であったと記憶しております)から、キサマのような軟弱者はいらぬと突っ撥ねられました。国民皆兵とは言いますが、やはり、兵隊となるには心身頑強たる男子が良いようです。私は幼い頃に肺を病み、今でも息がしづらくなる事が時折あります。故に、兵隊にはなりたくともなれぬようです。心配は御無用に願います。


 オレは息を呑む。

 戦争の足音はしっかりと近づいていたのだ。


 ――支邦以来の大東亜戦争で、絵の具が入手困難になりつつ有ります。又、洋画は米英の文化であるからけしからぬと御上よりお叱りを受け、先生の主催する洋画塾は門を閉める事となりました。


 ――先日、同郷の友が私に会いに来ました。彼は志願して明日兵隊に行くのだと言い、どこからか手に入れた絵の道具を私に使えと置いて行きました。物品不足の昨今、貴重な絵の具が手に入る事は有り難く思いますが、なにやら今生の別れに形身の品を渡されたようにも思え、心穏やかではありません。


 ――どこぞこで空襲があったと聞く度に、貴女は無事であろうかと思っておりました。知人を頼り疎開されたと聞き、安堵しております。


 ――さて、いよいよ私にも臨時召集令状が届きました。一度はいらぬと突っ撥ねた私を、兵隊に欲しいとの事です。腹を括り、御国のお役に立ちに行こうと覚悟を固めました。以前、貴女をモデルに描いた絵を一葉のハガキに書き写し、千人針の代わりと胸にしまい、汽車に乗り込むつもりです。覚悟鈍るといけないので、くれぐれも見送り不要に願います。(検閲印)。


 ……ウソだろうが。

 ホントは戦争になんか行きたくなくてしょうがないクセに。

 あの時、雪の降るホームで名前を呼ばれて、泣きそうな顔をしたクセに。

 強がりでもないのが、文章の最後に落とされた検閲印の一文字が示していた。

 一輝さんは、これからだったんだ。

 絵が売れ始めて、評価され始めて、これからだったんだ。

 それなのに……!

 スマートフォンにメールの着信。

 胸が苦しくなってきた。もう、ここでやめておこうか、とも思う。

 歯を食いしばり、指をスライドさせる。

 ここで止めないでくれと、知ってほしいんだと誰かが囁いた気がした。

 メールを開く。


『文面』


 やはり梅田さんからのコメントが無い。

 スクロールさせ―――――――――――――――…………




 ……―――――――――――――――――ここ、どこ?

 一瞬の眩暈があった後、オレは夕暮れの草原に立っていた。

 乾燥した冷たい風。茶色くなった草が波のようにさざめく。

 どこまでも広がる大地。

 赤い地平線に沈む、見た事も無いほどにバカでかい太陽。斜陽は薄くたなびく雲で虫食いのように見えた。

 地平線?

 日本じゃないのか。

 辺りを見回せば、丘陵に兵隊が一人立っていた。

 銃を肩にかけ、薄汚れくたびれた姿。

 一輝さんだ。


 ――手紙を書く事が許可されたので、一通したためます。

 

 ――おかわりはありませんか。私は元気でやっています。

 

 ――隊内でインキを持ち込んだのが私だけであったようで、我も我もと皆でワイワイと取り合いになり、大変賑やかな騒ぎとなりました。


 ――あの日、貴女が遠路より遥々、入営する私を見送りに来ていただけた事、嬉しく思いました。改めて御礼申し上げます。


 静かな声が聞こえる。

 一輝さんの細い肩がかすかに震えていた。


 ――本土を離れ、二か月が経ちました。生来、臆病な私ですが、あの遠く日出る方角に私の武運と御国の必勝を祈る貴女の姿があるのかと思うと、我が身に不思議と勇気が湧いてきます。


 ウソつけよ。じゃあ何で、泣いてんだよ。

 一人って事は、大方、泣いてる所を見られたら色々とマズいから、適当な理由でもでっち上げて抜け出して来たんだろう。

 きっと、ばあちゃんが祈っているのは、あんたの武運でも御国の必勝でもなく、一輝さん、あんたが無事に帰ってくる事だけだろ。

 一人、遠い戦地で涙を流す一輝さんを見ながら、オレは震える拳を握る。

 不意に一輝さんが顔を上げた。

 オレも気づいた。

 夕焼け空。

 どこかから羽音に似た音が聞こえる。

 音は次第に大きくなっていく。

 一輝さんは慌てた様子で周囲を見回すと、銃を背負い直し、丘を駆け下りた。

 何が近づいてくるのか、判明する前にサイレンが鳴った。

 目を凝らせば地平線に霞む程の距離に、建物の影。街があるのか。

 音は大きく重く低くなっている。

 ひっ迫したサイレンの甲高い音と混じり合う。

 空を見上げた。

 赤い空。轟音。羽音じゃない。プロペラを回すエンジン音だ。

 赤い星を翼に描いた巨大な飛行機が、何機も頭上を過ぎて行った。

 何機も、何機も。




 祖母の部屋に戻ってきても、まだ耳の奥に飛行機のエンジン音が残っていた。

 唾を呑む。嚥下の音がやけに大きい。

 鼻から息を吸う。埃混じりの濃い山の匂い。

 スマートフォンに新しいメールが届いていた。

 呆然とした頭のままにメールを開き、


「……ウソだろ」


 後悔した。


 ――昭和二十二年四月一日に死亡通知書が届きました。 

 

 ――息子、西島一輝は昨年の冬、捕虜収容所にて病死したとの事。


 ――大変心苦しい中、一人の人の親として貴女様に申し上げなければなりません。どうか息子の事はお忘れ下さいますよう。


「あんまりだ……」


 小さな画面に映る無機質な文字。

 薄く光る文字の隙間に、背を丸め、泣き崩れる若き日の祖母を幻視した。

 スマートフォンの光が落ちた。

 分かっていた。

 初めから分かっていたんだ。

 多分、一輝さんは生きていないと。

 一輝さんは手紙のどこかで死ぬのだと。

 その後の経緯は分からないが、祖母は祖父と結婚し、父や伯父が生まれてオレや清音、素直ちゃんにつながるのだ。

 スリープモードの画面に映る、祖母の涙が一粒、また一粒と落ち、幻視はやがて幻である事を止めていた。



 オレは薄暗い部屋で、声も無く涙する祖母の小さな背を見下ろしていた。

 両の手に皺くちゃになった手紙。

 一輝さんの親から送られた、最後の手紙だ。

 と、


「ごめんください」


 部屋の外から男の声がした。


「お久しぶりです」


 オレは、もしや、とわずかに期待して目をやる。しかし、そこにいたのは一輝さんとは違う別の男だった。

 無精ひげに汚れた服。真っ黒に日焼けした顔。男は気まずそうに頭を掻く。


「南方に送られていたのですが、運良く引き揚げ船に乗る事が出来ました」


「……よくぞ、ご無事でお帰り下さいました」


 祖母の声は枯れていた。


「戦地では大変なご苦労をなされたのでしょう。南方は地獄だったと」


「はい」


 男は膝を付き、訥々と話し始める。


「……西島くんの事は、残念でした」


「ご存じなのですね」


「人づてではありますが、昔の仲間から聞いています。シベリアで肺を悪くした、と」


「ごめんなさい」


 祖母は手紙を胸に抱き、怯える子供のように身を丸めた。伏せた目から涙が畳に点々と落ちる。


「ごめんなさい。ごめんなさい。もう、それ以上、喋らないで下さい。西島さんの話をしないで下さい」


「なつさん、俺は……」


「苦しいんです!」


 顔を上げた祖母の表情にオレも男も息を呑む。鬼気迫る、と言うのだろうか。

 極限の精神状態で、支えられそうにない感情をギリギリの理性が抑えている。

 絞り出される、痛々しい声。


「……お引き取りを願えませんか」


 男は眉間に深くしわを寄せる。 


「大変な苦労をして、生きて帰ったアナタに、わたし、きっと、アナタに、酷い事を言って、しまう」


 もう見ていられなかった。


「今日は帰ります」


 その一言と、嗚咽をこぼす祖母が夕闇の部屋に残された。



 場面が変わる。

 どこかの部屋。壁のあちらこちらにキャンバスが立て掛けられ、饐えた油の匂いが鼻につく。

 二階にあるのか、磨りガラスの外、すぐ近くに電線が張られていた。


「――そんな風に部屋に籠ってちゃ、カビが生えるぜ」


「布団にはとっくの昔にカビが生えてるさ」


 二人の男が喋っている。椅子に腰かけた一輝さんと、あの祖母を訪ねてきた男の二人だ。

 一輝さんも、男も、少し幼く見える。

 戦争が始まる前に戻ったのだと思った。


「とにかく、外を歩かないか」


「せっかくキミが誘ってくれてなんだが、そんな気分にはとてもなれそうには無いんだ」


「カフェーにでも繰り出して、珈琲片手にタバコを燻らせようや。そうすりゃ、そんな気分とやらにもなる」


 一輝さんは首を振った。


「キミはまるで何も分かっちゃいない。いいかい? 絵画というのはキミが思うよりも遥かに崇高で高尚なものなのだ。精神の発露なのだ」


「相変わらず分からん理屈をこねる奴だ。俺はオツムの出来が悪いから、貴様の言う事を半分も分からん」


 男の口調が少し乱暴になる。だが、怒りの色は見えず、むしろ優しげだ。


「見ろ。貴様の前にある絵を。先月、俺が部屋に上がった時からまったく進んでおらんじゃないか。一体いつ仕上がるんだ」


「それは……」


「ああ。いつかは仕上がるのだろうな。だが、その『いつか』とやらはいつだ。きっと俺も貴様も、頭が真っ白のジジイになっているだろう。何十年も先の事なら、一日くらい外に出ても大差ない」


「なんて乱暴なんだキミは。もっと知性のある会話をしてくれたまえ」


 一輝さんは溜息を吐く。


「まったく。キミは子供の頃から変わらない。田舎のガキ大将のまんまだ。面倒な男と再会してしまったものだよ」 


「運の尽きと思って諦めろ。行こう。駅前のカフェーに美人の女給がいるらしい。美人を見れば、きっと貴様の動かぬ筆も動くようになる事だろう」


「それこそ分からん理屈だ。結局、キミがその美人の女給とやらを見たいだけではないかね」


 苦笑気味にもう一度溜息。一輝さんは腰を上げた。


「大工仕事の給料が入ったのだろう? ならば、珈琲の一杯でも奢りたまえよ。それと、タバコはやめてくれよ。知っているだろうが、ボクは肺が弱い」


 男は「そうこなくては」と笑った。



 場面が変わる。

 夜。雨。二人の男。コウモリ傘が一つ。一人は濡れるに任せている。

 弱い街灯。


「コレをどこで?」


 一輝さんは、傘を肩にかけ、両手に持った紙袋と男の顔を交互に見た。


「ある所にはある、という事だろう」


「本当に貰っても良いのか?」


「ああ。そのために買ってきた。絵描きが絵の具がないでは、商売にならんだろう」


「絵なんて……。皆が食うに必死なんだ。もう誰も買いやしない」


「それでも、だ。一輝。貴様は貴様にしか描けないものがあるのだろう。それをやれば良い。それと、コレを食って精を付けろ。俺にはもう不要だ」


「牛缶じゃないか。こんな高級品を……。まさか……」


 男は笑った。少し、悲しそうに。


「志願した。自分から兵隊になれば、多少有利になると聞いたしな。僅かな貯えも全て郷里に送ってしまった」


「馬鹿かキミは」


「しっ! 滅多な事を口にするな。どこに特高がいるか分からん」


「……戦争に行くのか。自分から」


「そうだ。なに、今生の別れのようなシケたツラをするな。俺は頑丈だ。千切っては投げての大活躍をして、大将になって帰ってくるさ」

「ガキ大将の間違いだろう。……子供のケンカと訳が違うんだぞ」


「そうだな」


 二人はうつむく。


「明日の朝、列車に乗る。じゃあな。元気でやれよ」


 去っていく背中。

 一輝さんはうつむいたまま。

 去っていく背中。街灯の光も届かぬ暗がりへと。

 と、


「夏見!」


 一輝さんが叫び、男が足を止めた。


「夏見! 死ぬなよ! 死ぬんじゃないぞ!」



◆ 


 ……―――――コトン。

 小さな音がして、オレは意識が現代に戻っている事に気づいた。

 息をつく。ひどく汗をかいていた。シャツが肌に張り付いている。

 手元から落ちたスマートフォンは画面が真っ暗になっていた。


「……あの人が、オレのじいちゃん?」


 祖父はオレが生まれる少し前に他界している。顔も知らない。どんな人だったのかも知らない。

 写真を見た事はあるが、老人会の温泉旅行で撮った一枚と、さっき見た復員兵の姿が中々重ならなかった。

 手が汗ばんでいる。

 スラックスで手のひらを拭い、なんとなく畳を見ると手紙の束が目に入った。

 祖母と一輝さんのやりとり。

 一枚、一枚。なるべく丁寧にクッキー缶に戻していく。


「ん?」


 最後の一枚。一輝さんの死を告げた手紙の裏に、もう一枚張り付いている。

 全部、スマートフォンに取り込んだと思ったのに。

 剥がそうとすると、自然に手紙は手元から落ちた。

 拾って眺める。宛名もない。

 違和感。

 新しいのだ。他の手紙や便箋に比べ、その封筒は紙質からして違う。

 封筒の口から便箋を取り出す。

 キレイな文字。祖母から一輝さんに宛てた、手紙だ。

 梅田さんに頼む必要もなかった。


『――西島一輝さま』


 送られる事のない手紙。

 送るつもりもない手紙。

 ただ、祖母の心情が綴られている。

 それだけなのに。

 それなのに。

 冷たく凍えるほどだったオレの胸に、あたたかいものが溢れてくる。

 ああ、これはおばあちゃんの手だ。

 オレの頭を撫でた手だ。

 汗疹がかゆい、と言ったオレの背を撫でた手だ。

 フクロウの声が怖いと言って泣いたオレを抱いたおばあちゃんの胸だ。

 蚊取り線香と、ベビーパウダーの匂い。

 ありありと思い出せる。

 夏の記憶が。

 溢れてくる。


「ばあちゃん……」


 涙がこぼれた。

 汗よりも静かに、よりあたたかく滑らかに。



 おだやかな顔をした祖母にあらためて手を合わせ、棺に手紙の束を入れる事にした。

 発車する霊柩車を参列者全員で見送る。

 父も伯父さんも、母も伯母さんも無言。

 素直ちゃんは泣いていた。

 清音は嗚咽をこらえていた。

 オレは空を見上げた。

 もう泣かないように。

 白い雲。

 眩しい夏空。突き抜けるほどに青い。

 あの空の向こう側に、夏の記憶よりもさらに深いところで。

 祖母も、祖父も、一輝さんも、みなが笑っているのだろうか。




『――西島一輝さま。久しぶりに貴方に手紙をしたためようと思います。先日、長年連れ添った夫、夏見忠明が鬼籍に入りました。貴方と親友同士、天国で笑い合っている事と思います。昭和二十四年に私は夏見の家に嫁ぎました。貴方の訃報を知った時、私は辛くて悲しくて仕方が無かった。そんな私の救いとなったのは、貴方の親友である忠明さんだったのです。式の前日、夫は私に貴方の事を忘れる必要は無いと言って下さいました。貴方から頂いた手紙を焼こうとする私を、あの人は、本気で怒って止めたのです。あの人は不器用で、私にも多くの事を言いませんでしたが、きっと、貴方を失った悲しみを私を通して埋めようとしたのではないかと思います。苦労もしましたが、私に人並み以上の幸せをくれました。私は、二人の男を愛し、二人の男から真心を頂いた喜びを、得難い幸福だと思います。時に触れ、私は貴方からいただいた手紙を読み返す事にしています。貴方の文字をなぞるたび、若かった日の楽しげな思い出が、まるで昨日の事かのようにありありとよみがえります。

 忠明さんが鬼籍に入った年の暮れ、初孫にも恵まれました。貴方の名前を頂戴し、一輝、と名づける事にいたしました。貴方のように、優しい人に育ってほしいと願いを込めて』




 総合病院。重病者用の個室。

 空調の音に、ベッドを囲む複数の医療機器の作動音が混じる。


「……寝ちまってたみたいだな」


 老人がゆっくりと目を開けた。

 ベッドのステーに掛けられた名札には『夏見忠明』。

 傍らの椅子に腰かけた老婦人が微笑む。


「寝ててもいいじゃありませんか」


「久しぶりに夢を見たな。西島の夢だ」


「まあ」


「お前もいたよ。野郎、相も変わらず絵を描いてやがった」


「そうですか」


 昼の日差しが、病室の白い壁をやさしい色に染める。


「孫の顔は、拝めそうにねえなあ」


「なにを弱気な事を。貴方らしくありませんよ」


「てめえの体なんだ。俺が一番、よく分かってる」


「だったら、お医者なんていらないじゃありませんか」


 クスクスと小さく笑う。


「間違いねえや」


 多くの時間を共有した二人、老夫婦のやりとり。


「男の子だってな」


「ええ」


「一輝、って名前はどうかな。お前はどう思うよ」


 しばしの間。


「……良い、名前だと思いますよ」


「そうか。お前もそう思うか。じゃあ、決まりだ。夏見一輝」


 老人は床に伏せたまま、口の中で初孫の名前を繰り返す。


「ああ、残念だなあ」


「気が早いにもほどがあります。まだ生まれる前じゃありませんか」


「だから余計に残念なんだろうが」


 そうは言いつつも、老人の顔は笑っていた。


「また夏が来たなあ」


「そうですね」


 老婦人の手が、老人の手と重なった。


「平和だなあ。ずっとこうなら良いのになあ……」


 窓の外には眩しい夏空が広がっている。

 



                                  ―― 了



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― 新着の感想 ―
[一言] 最初は面倒くさがっていた主人公が、だんだんと記憶の中の故人を呼び覚まし、過去の秘密に精神のタイムスリップをしていく様がとても上手く描かれており物語に引き込まれました。 ありがとうございます。…
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