第8話 甲冑の中身と、悪魔な眼鏡
しかして私は徹夜を決行した。といっても公園から帰ってきて十分しか経っていないため、時刻は四時前。昨日は空飛んだり、入院したり、買い物したりなど盛り沢山だったが、これまで休講貴族として過ごしていたので体力ゲージはまだ有り余っている。大丈夫だ。
私は使命感に燃えている。メリーが放置した甲冑をなんとかしないと、私の一服スポットが警察に占領されてしまうかもしれないのだ。そしてお母様方の井戸端会議がヒートアップし、子供は泣きだし、さあ大変。そんな事態は、いただけない。公園の平和は私が守る。
人が公園に来る前に事をすませなければ。ぐっすり眠っている和花とメリーを部屋に残して、外出の準備を完了させた私は公園まで走った。
すると、まだ暗い公園で甲冑が倒れており、もぞもぞと、しゃくとり虫のように動いていた。コンビニで買ってきた懐中電灯で照らす。ふいに明かりを当てられて甲冑がビクッと反応した。鎧の隙間に細い木の棒がやたらと挟み込まれており、自力で鎧を脱ぐこともできないようだ。
「……大丈夫?」
「ぜんぜ、ん大丈夫じゃ、ない」
ぐずる、女の子の声。無理もない。私も深夜の公園で身動きできなくなったら間違いなく泣く。頭の全面を覆う兜のせいで顔は見えない。呼吸をする音が聞こえるので中にだれもいないという展開はまずないだろう。
私は甲冑の隙間に挟まっている木の棒をすべて引き抜いた。
自由を取り戻した甲冑が立ち上がり、私に頭を下げてくる。
「すみません。恩に着ま……わ、先輩? 先輩ではありませんか!」
私の肩をつかんで甲冑娘が詰め寄ってくる。私の人生において後輩かつ、私のことを覚えている女の子となるとかなり限られるというか、ひとりしかいない。久しぶりの再会がこれとは実に、残念極まりない。いやこいつなら〝仕方がない〟の範疇に入るか。
「お前……どこで道を間違えればこんな姿になれんだよ」
「はっ! 先輩のようなヒーローになるにはまず形からと!」
懐中電灯にあてられながら敬礼する甲冑娘。ヒーローか……。
「もういい、わかった。とりあえず甲冑を脱げ。このままだと変質者だ」
「それが、その、これ、脱げないんです。そんで紫陽花に相談しに行く途中だったんですけど、こんなことに。先輩の言うとおり昼間は視線がやばいので、深夜に人目を気にしつつ歩いてたのに……。ほんと、いったい誰がこんなイタズラを……」
甲冑娘はしゃがんで棒をしげしげと眺める。犯人は内緒にしておこう。それにしても、メリーはなぜ私の後輩を拘束したのだろうか。
私と甲冑娘は紫陽花の開店時間を店の入り口で待つことになった。狸君の隣で直立する甲冑娘は動かなければ紫陽花の売り物のように見える。
開店時間になり、オヤジさんが入り口のドアを開けて出てきた。二日前に今生の別れをしようとした相手に再び会うというのは、想像以上に味のある体験である。
「よお、ちゃんと元気か、健康か?」
オヤジさんはニッと笑って白い歯をのぞかせた。私も笑顔で応じる。
「はい、あの子に直接聞いたら、俺には呪い効果ないみたいです」あくまで現時点は。
「おお、そうか! ようやっと肩の荷が下りたぜ……んで、そのプレートアーマーはなにもんだ」
三人そろって紫陽花の店内に移動し、甲冑娘がオヤジさんに事情を話す。骨董品に詳しいオヤジさんならあの鎧と兜をすぐに外してくれるだろう。
私の予想通り、オヤジさんはどんどん鎧を脱がしていった。残るは兜だけとなったのだが、甲冑娘が体育着の上に鎧を着こんでいたせいでビジュアル的に物凄くシュールになっている。というか変態。真冬に半袖短パンで甲冑を着こむとはさすが、体力馬鹿である。腕や足がしもやけになっている様子もない。こいつの身体の構成要素はなんだ、断熱材なのか。
「兄ちゃん、ダメだ。こりゃ、ずいぶん無理に押し込んだみてえだな。引っ張って取ったら頭がもげちまう。一度壊すしかねえ、後処理、頼んでいいか」
「命かかってますし、了解です。任せてください」
オヤジさんは兜の後頭部にあるわずかな隙間にマイナスドライバーを入れ、てこの原理で兜を破壊した。バギン、と後頭部の鉄板がとれて、床に転がる。
甲冑娘が兜を脱ぐ。そして甲冑娘から、はれて体育着に戻った後輩がオヤジさんの手を両手で握り、ぶんぶんと上下に振り回した。
「うっひゃ――――っ! 助かったよ、おやっさん! 一日ぶりに直で空気が吸えるー!」
言いながら後輩はぴょんぴょん跳ねる。連動して後輩の紅色の長髪もぴょんぴょん跳ねる。
「そりゃよかったな。最近見ねえと思ったらあいかわらず馬鹿で安心したぜ」
「ひどい! 学業とヒーロー業の両立は大変なんだよ? 多忙なの、馬鹿じゃないよ!」
「ああいや、嬢ちゃんの場合もっと根本的というか……なあ?」
そこで私に話を振って来るか、オヤジさん。
解説しよう。私の後輩は外見素敵、中身残念ということに定評がある。生まれつきの赤い髪はルビーにたとえられ、その絢爛な紅玉の持ち主はそれを身にまとうにふさわしい、童話のお姫様のような容姿の可愛らしさを誇っている。だがしかし、中身は断じておしとやかな姫ではない。高校生になってなお特撮ヒーロー物が大好きなやんちゃ娘であり、年頃の女の子なのにも関わらず、甲冑を着て街を歩く馬鹿者なのだ。
「まあ、あの姿で風邪になってないってことは……だいぶ手遅れでしょうね」
「手遅れってなんですか! 先輩ってば、久しぶりの再会なのにつめたすぎです……むしろ私の名前も憶えてなさそう」
うなだれる後輩。
「たった数年でそれはないから安心しろ。さって、とっとと仕事をするかね……」
私は床にある金属片を拾い集め、無残にも後頭部を失った兜を後輩から受け取り、パーツを近くにあったテーブルに乗せた。そして鉄くずと化した兜だったモノに手を触れ、目を閉じる。精神を集中させ、耳からの情報を一切遮断し、世界との隔絶を図る。イメージする。鉄くずになったモノに、もう一度、存在の機会を。
〝うまくいった〟という確信が、私の身体を充足させた。私はゆっくり目を開ける。
刹那、鉄くずが光り輝き、店内が激しい光に一瞬照らされた。完成だ。
「もうかぶるなよ。また壊すことになる」
私はばっちり元通りになった兜を後輩に渡した。
「はい、すいません! 大切にします。にへへ、先輩、まだまだ現役ですねっ」
後輩は兜をわきに抱えて私の手をぺとぺとと触ってくる。握手大好き人間か、こいつは。
「現役とか引退とかないだろ、こういうのに」
私の奇妙な能力。モノをイキモノにすること。そして今実演したように、モノを〝治す〟こともできる。本来なら〝直す〟だが、私はモノを擬人化したほうが再生をイメージしやすいのである。後者の能力は私自身にはあまり使う機会がない。なぜならモノを壊すことを極力避けているからだ。
「じゃ、俺はこれから学校だから。お前はこれ以上奇行に走らずにとっとと家に帰れ」
「帰りませんよ。私だって学校ありますもん。高一ですよ、ぴちぴちの。どうかな、私、グラマラスになりました?」
後輩は私の前で決めポーズをとった。戦隊物のポーズを臆面もなく決めているうちはグラマラスとは無縁だろう、と口にしようと思ったがスルーし、真面目に指摘する。
「お前、体育着で登校するつもりか? 丸一日くらい鎧着てたんだろ、着替えたほうがいい」
「あ。そうでし………………」
黙り込んだ後輩は、よろよろとした足取りで店の奥へと消えていった。馬鹿でも女の子だ、言及は避けてあげよう。ちょっとした用事から帰ってきた後輩は、それはもう、すがすがしい笑顔であった。
私は後輩とオヤジさんに別れを告げて、大学へとやってきた。昼休みのため、学内の人通りが授業時間帯よりも多い。いつも通りの賑やかしすぎても、明るすぎてもいない学内の風景。ここで昨日事件が起きたとは思えないほどの平和ぶりだ。私は、この平和加減に、解決した事件の余韻なんて噂の種にもならないものなのかと疑問を感じながら授業のある教室まで歩いた。
無駄に広い、いつもの教室。話を聞く気のない生徒が、教授の目が届かない最後列で合コンの打ち合わせをしていた。その声も無駄に大きい。大学生活を充実させようと努力している姿を多くの人に見てもらいたいのだろうか。私は一度しかない人生を全力で楽しもうとしている彼らの声に耳を傾けながら、真ん中あたりの列に座る。和花に殺されるために希望を集めなくてはいけないが、どう集めたものか相変わらずわからない。やはり彼らくらいの努力を毎日する必要があるのだろうか。だが、人間を愛せない私がその努力を行うのは絶望に限りなく近い行為だと思える。となると、これも違う、か。
私はため息をひとつついて、鞄から教科書とノート、そして筆記用具を取り出し、授業開始に備えた。
「隣いいかな?」
落ち着いたトーンの声が降ってきた。目を向けるとフチなしの眼鏡をかけた黒髪の好青年がにこやかに笑っていた。接客業のアルバイトをそつなくこなしそうな雰囲気である。
「ああ、どうぞ」
私が座っているのは本来三人掛けの椅子で、私はそれの右端の席に座っていた。私は真ん中の席に置いていた鞄を床に下ろす。
「俺は床でいいからよかったら荷物置いて」
「すまない、助かるよ……っと」
彼は随分と重たそうなリュックを背負っていた。大学に行くための荷物と言うより、三泊四日の旅行にでも行くのかというほどの大きさである。荷物を置いた彼は左端の席に座り、
「さすが、人助けのためなら空を飛ぶ人間は親切だね」
とリュックから教科書などを出しながら小声で言った。私の血の気が引いていく。つい彼の顔を凝視してしまう。眼鏡の奥で何を考えている。
「そんな顔をするのは、いささか変だ。ただ僕はふつうに見ただけ。きみが女の子と手をつないだと思ったら、空に浮かんでいたのをね。あれはどうやったんだい。どうしてきみは空を飛べた、あの子に秘密があるのか、なにか特別な装置でも使ったのか」
頭の隅で考えてはいた。あの転移の瞬間を目撃した人間がいるだろうということを。事件が起きているとはいえ、病院でメリーが言ったように、あそこは衆人環視の場だった。私のことを見た人間が皆無な方がおかしい。
「ほとんどの人が騒ぎに気を取られていたけど、僕は興味がなかった。どちらかというと、僕は他人がどうにかなろうと自分さえよければいい人間だ。だからこうして、きみの気持ちも考えずに一方的に話している。さあ、解答をくれないかい、きみはどうやって飛んだ?」
「……なにを言ってる、俺は飛んでなんかいないし。昨日は授業が午前だけだったからとっとと帰ったよ」
「はは、嘘が下手だなあ。最初から学校に居ないとでも言えばまだまし……いやそれでも変わらないか。そうだね、じゃあ、証拠を見せよう。まずこれが一枚目」
彼はリュックからデジカメを取り出して操作した後、画面を私に向けた。その画面にはメリーに手を引かれて歩いている私の姿が映っていた。私は写真にうつる自分と同じくらい青い顔になる。
「で、二枚目」
画面には私が鳥になった瞬間がこれでもかと表示されていた。羞恥心がくすぐられる。
「もしも解答してくれないというのなら、この写真を僕のホームページに掲載するよ。根も葉もない噂に尾ひれをたっぷり付属させたテキストと一緒にね。さ、事象の根拠を聞かせてくれ」
「そんな、ただの大学生が運営してるホームページに載せたって痛くもかゆくも」
「僕のページのアクセス数は一日あたり二百万だ」
デジカメを持った悪魔が笑う。脳裏にメリーの言葉がよみがえる。常識人だけがあの場にいたとは限らない。言動から考えるに、こいつはおそらく非常識側の人間だ。
しかしどうしたものか。下手な嘘をついても私の腕前ではばれるだろうし、事実を言えばメリーをつけねらうかもしれない。……いや、メリーなら魔法でこんな眼鏡デビル、軽くいてこますのではないだろうか。それにあの見かけに似合わない怪力と、大男を一発で気絶させる驚異の手刀をメリーは持っている。
すまない、メリー、私はキミを信じているんだ。
「俺といた金髪の子、あの子は魔法少女なんだ。それであの子のお得意の魔法……瞬間移動、つまりテレポートな。それを使って俺を空に飛ばしたんだよ」
正直に話すことを許してくれ。
「嘘だね、きみは馬鹿か。魔法なんてものが正解として存在していいわけない」
「いや、いま言ったなかに嘘は一つもないぜ」
「……さっきみたいに動揺してないな。本当なのか、そんな馬鹿な、ありえない。科学的、学術的根拠を提示してくれないと僕は何日でも、何年でもきみにつきまとうぞ」
眼鏡悪魔のレンズの奥の眼差しがギラリと光った。本気だ、こいつ本気で私につきまとうつもりだ。いくら春が来ないからって、男を呼んだつもりはないぞ、神様。いやまて、いるのかいないのか不明な神様よりも、
「ちょっと待て、な、五分でいいから電話をかけさしてくれ」
「電話だと!? そんなことしてる暇があったら!」
眼鏡悪魔はリュックを押しのけて私に顔を近づけてくる。興奮している青年のアップとか全然嬉しくない。
「頼むよ、授業までまだ十五分あるんだし、焦らずいこうぜ……」
私はプレッシャーにあてられながら携帯を操作して電話をかけた。プロフィールをもらっておいてよかった。十秒ほどコールすると相手が出た。
『は、はい、わた、私、メリー、ですけれども、ななな、なにかしら』
なぜかメリーはしどろもどろだった。
「すまん、俺のいる場所、わかるよな。面倒なことになった、ちょっと来てくれないか」
『……なんだ。……残念ね、これから和花さんと格ゲーやるからパス。というより、お昼を食べたばかりであまり動きたくないわ』
私の部屋で都市伝説たちが格ゲーか。こんな状況じゃなきゃぜひ参加したい。
「そのお昼のお金は誰が机の上に置いていったものか、聡明なメリーさんなら理解できますよね……。頼む、昨日のアレの目撃者に絡まれてるんだ。メリーの魔法を信じさせないと、毎日二百万アクセスの変なサイトに俺たちの写真を載せられちまう」
「きみ、変なサイトとはどういう了見かな」
眼鏡悪魔が詰め寄ってくるのを空いている手で押さえる。
『そう……仕方ないか。ばら撒かれる種はひとつでも少ない方がいいし。和花さん、ちょっといってくるわね』
そこまでメリーの言葉が聞こえたかと思うと電話が切られ、
「はい、こんなもんでどうかしら」
机の下からもぞりとメリーが出てきて、そのまま机上に座り、優雅に足を組んだ。どや顔を決める魔法少女は本日も絶好調である。もう私はこれくらいのことでは驚かなくなっているが、眼鏡悪魔はどうだろう。ちらと顔を窺ってみる。
「ははあ、やるね。ステルス迷彩か……気配も呼吸も消すとはなかなかのエージェントのようだね、ゾクゾクするよ」
したり顔でまったく見当違いのことを呟いて悦に入っていた。怖い、この眼鏡、怖い。
「ステルス迷彩じゃなくて、たった今、この子はこっちに来たんだぞ。待ってろ」
私はメリーの携帯に電話をかける。ピリリリ、とメリーの肩にかかる鞄から着信音。私は電話を切った。
「ほら、さっきは鳴ってなかったけど今は鳴ったし、話し声も机の下からは聞こえなかっただろ。なんなら俺の発信履歴とメリーの着信履歴も見るか?」
「いやよ。着信履歴は見せないわよ、ぜったい」
メリーはつややかなポニーテールを振り乱すように首を横に振り、自分の鞄を胸にぎゅうと抱きとめ、携帯を死守せんとする構えになった。確かに着信履歴は他人においそれと見せるものではないな。私はメリーに軽く謝罪し、話を続ける。
「とにかく、この子が俺を空に飛ばしたんだ。まだ信じられないか」
ハッ、と乾いた笑い声を出した眼鏡。
「信じられないね。そりゃ見事な潜伏には感服したけど、僕は全然納得してない。なんらかの装置を使って空を飛んだんだろ。テレポーテーションなんて漫画やアニメの世界、まさに空想だよ。この現実に存在していいわけがない。僕はそれらの存在を真っ向から全否定する。あれは娯楽として楽しむものであって、現実世界と混同するものではないんだ。それくらいの分別はつく年頃だろう? きみも、そして僕もね。もう子供じゃあないんだよ」
眼鏡悪魔はあくまで淡々とした口調で自身の論を展開した。話を聞いて驚く。奇遇にも、空想の存在を全否定するというこいつと私は対極の位置にいるのだ。私は呪いや超能力を全肯定する立場にいて、しかもその考えは根拠のあるものだ。なぜなら現実に、私自身が変な能力を持っているのだから。
だがどうすればこの悪魔は納得するのだろう。かたくなに空想を否定する人間に、空想の存在を実感させるには……だめだ、てんで思いつかない。
「もういいわ、紳士。この眼鏡さん、飛ばしちゃえばいいんじゃないかしら」
にんまり笑顔でとんでもないことを言い出すメリー。
「いやあれ結構痛いし、それにどこに飛ばすつもりだ。今日の大学は至って平和だぞ」
ドドドドドドドドドド。
教室の外からなにかが、大量のなにか近づいてくる音がする。それとほぼ同時に教室のドアが勢いよく開け放たれた。そこにいたのは、
「あっ、マジだ。いたいた! 昨日の金髪ちゃん! わたわたわたし、サイン貰おうかなあ!」
「やめてよ、金髪ちゃんは遠くから観察するのが掟でしょ。サインなんてファンクラブ会員の裏切り行為なんだからね! 絶交だかんね!」
「うきゃーっ! 番頭さんとはどういう関係なの!? 気になりすぎてあたしもう華の湯に行けない! ひゃああ――っ!」
「……番金か、いや金番もアリね、アリアリね……むふぅ」
女生徒二十人ほどの集団であった。鼻息を荒くして彼女らでしか通じない言語形態で話す彼女たちはたしか、女生徒オンリーの漫画研究部、『しらゆり』の部員たちである。去年の文化祭、あまりにも暇だったのでブースに行ったのだが、男子禁制ですぅ! とか言われた記憶がある。俺、という一人称を出した途端に大勢に問い詰められたのは軽くトラウマである。受付で言って欲しかった……。
「どこが平和なのかしら紳士。あの獣じみた視線、ちょびっと身の危険を感じちゃうわ」
「ああ、ファンクラブとか……知名度ぐいぐい上がってるみたいだな」
隣から携帯を弄る音がした。この状況でひとり楽しそうにしてる眼鏡だ。
「いやあー、ネットって恐ろしいね。漫研の掲示板に件の金髪のゴスロリがいますって書いただけでこんなになるとは。相当人気者なんぐぼぉッ……」
「あなた少し黙って」メリーの容赦ない蹴りが眼鏡の腹部をえぐった。
そして机に顔を伏せ、悶えている眼鏡の携帯電話を強引に剥ぎとったメリー。その携帯の画面を確認するやいなや、メリーの白い肌がいつにもまして白くなった。いったい何を見てしまったのだろう。都市伝説にだって人権はあるのよ……と力なくつぶやいたメリーの顔は白から一変して真っ赤になっていた。気になる。
「なあメリー、それちょい見せぐぇッ!?」容赦なしキックver.2が私の腹に放たれた。
机に座りながらこの威力とか……地面で軸足のふんばりを効かせたら一騎当千も夢じゃないのではなかろうか。私の内臓が久方ぶりの衝撃にうずく。キックをかました本人はいまだ携帯にかぶりつき状態だ。眉間に皺を寄せて、頬を紅に染めながらも目はかたくなに画面から離れない。細い指はクリックを繰り返している。
「な、なにコレ、たった一日でこんなの描いたってわけ……なんなのかしら、その熱意をもっと他のものに向けられないのかしら……あら、なんで紳士まで苦しそうなの、平気? おなか壊したの?」
大きな夕焼け色の目をぱちくりさせて、私を見つめるメリー。
「無意識の一撃かよ……」こいつ、絶対に武器使わない方が強い。
「きゃーんっ、私も蹴られたーい! そして見下して、罵倒して、さげすんで――っ!」
メリーファンの女性一名が噴水のような鼻血を吹いて倒れた。ああ、初めて見た、興奮して鼻血とか出るもんなんだなあ。実際目にすると、ものすごく病的な光景である。
「……しゃくだけど。紳士、私を抱えて逃げなさい、全力で人目のないところまで走り抜けなさい。このままじゃ死人が出そうよ。呪い以外で人を殺したくはないわ」
「おう、わかった」
「あと、眼鏡さん。意識があるならついてきなさい、あなたに魔法を使ってあげる」
メリーの言葉を受けて、眼鏡が机に着陸させていた顔面を離陸させた。そして、かけている眼鏡のずれを直しながら、話しはじめる。
「……ほう、それはありがたい提案だね。どんな奇術なのか詳しいネタばらしを添えてくれるとさらにありがたい……でも授業をサボるわけにはいかない。単位の方が大事だ。僕が単位を落としたら世界が終わるし、破滅するに違いない」
人をホイホイ脅迫してきた眼鏡悪魔のくせに変なところがクソ真面目である。
「平気さ、一週間休んだって世界は終わらなかったぜ。嫌でも続いてくよ、世界は」
「ふうん……きみって案外、不真面目だったんだね。……わかった、ついていくよ」
私は床の鞄を拾い上げ、メリーをわきに抱え走り出す。そして女子軍団がひしめき合っている反対側のドアから教室を出た。走り出す前に懸念していたメリーの体重は、和花より小柄ということもあって、あまり全力疾走の負担にはなっていない。一方、眼鏡はデカいリュックをしょいながらも軽快に足を回転させている。体育会系なのだろうか。
廊下を走り、校舎を出て、広場を駆け抜ける。
「待って、金髪ちゃん! どこに行くのぉぉぉぉおお!」
非常にまずい。まずすぎる。漫研部員になぜスプリンターがいるんだ。必死の形相で一人の部員が私たちに追いつこうとして来る。彼女は漫画を描くよりも世界陸上にでも出た方が賢明だと説得したくなるスピードだ。どうする、このままじゃ確実に追いつかれる。
「紳士! 布かなにか、持ってない?」
私の右わきに収まっているメリーが早口で言う。
「布っ? 布じゃ、ないけど、ズボンの後ろポケット、に、ティッ、シュが」
私は合間に呼吸をはさんで返事をした。かなりしんどい。
「上出来よ、貰うわね」
メリーは私のズボンからティッシュを取り出すとビニールから中身を出して、消した。
私が後ろを確認するとスプリンターの顔一面にティッシュが張り付いていた。それはまぶたも覆っており、ふいに訪れた暗闇に大変困惑している様子で、なに? なに? と彼女は足を止めて顔をまさぐっている。
「うふふ、汗しっとりでなかなか取れないはずよ。さ、今のうち今のうち!」
「へえ! 地味な嫌がらせっぽくて僕は好きだなアレ! すごい速さで投げつけたんだねえ。ぺらぺらなティッシュが離れた相手の顔面に命中するなんて。きみ、野球選手にでもなればいいのに」
息ひとつ切らせずに並走している眼鏡がメリーに笑いかける。重そうなリュックを背負ってこの余裕か、驚くべきスタミナだ。というかことごとく眼鏡はメリーの魔法を信じない。不思議がるどころか勘違いして、そのまま感心している。私がこれまで生きてきて、あまり出会ったことのない反応である。
私が走りながら右隣を走る眼鏡を見ていると、突然、眼鏡は声を出して笑い始めた。
「くくっ、ははっ! なにやってんだろうね! 大学生にもなって鬼ごっこか、くくく。普通の生徒は、普通に授業してるってのに。はは、俄然、きみらに興味がわいてきたよ、さあ、もうちょっとだ、頑張れ不良少年!」
校門まであと五十メートルほど。
「少年って、年じゃ、ねえけどな!」
学校を出て適当な場所に隠れれば、安心してメリーの魔法を使うことができる。それまで止まらずに走る。メリーが稼いだ時間を無駄にしないように、私は必死で足を動かした。