第7話 あなたの名前は?
華の湯から出て、双葉荘に帰る。温かい風呂と番頭さんとの世間話でぬくもりを得た体は冬の外気程度じゃ簡単に冷えそうにない。背中にのぼせてグッタリとしているメリーを背負っているのもカイロ代わりになっているし、風邪を引くことは殆どなさそうだ。
「うーん。人形も体温を持つってのは……あらためて不思議だよなあ」
「私のボディはふぁんたじー……だもの……うぅ」
「ああもう寝てなさい」
自室のドアを開けるとシャンプーの香り。和花がドライヤーを使っていて、なびく黒髪の甘い香りが風に乗っていたのだ。道具の使い方を口頭で教えれば一発で覚えるという、和花の飲み込みと適応力の高さには目を見張るものがある。もし人間だったら才媛として名をはせたかもしれない。その才媛は、私のパーカーとスウェットを着ていた……明日はパジャマを買いに行こう、申し訳ない気持ちになってきた。
和花はやたら大きい音の鳴る古いドライヤーのせいで私とメリーが帰宅したことに気が付いていないようだ。和花がドライヤーのスイッチを切ったのを見計らって声をかけると、ようやくこちらに気づいた大きな瞳が驚きの色を見せた。
「わっ、おかえりなさい。メリーさんどうしたんですか? お布団敷きましょうか?」
「ああ頼むよ。昨日よっぽど寒かったのか、反動でどうも今日は長風呂しすぎたらしい」
私は、ゆでだこ状態のメリーを和花が敷いてくれた布団に寝かせ、シンクに向かい、濡れタオルを用意してメリーのおでこに乗せた。すると辛そうに歪んでいたメリーの表情がにわかに元に戻った。
和花に頼んでメリーの服を私のセカンドジャージ(通称中学ジャージ。カラーリングは青)に着替えさせた。私と和花はメリーが寝ている傍で座り、様子を見守っている。にしても都市伝説二名のアイデンティティがロストしているというのは奇妙な光景である。明日にはメリーが和花の着物を回収してくれるはずなので日中はオカルトめいた雰囲気が出てくるかもしれない。
「ま、和花は初対面からずっと怖くないけど」
「なんですかー、藪から棒に。怖がってくださいよ、いちおう呪いの人形ですよ」
がーっ、と両手を振り上げて和花が襲い掛かるポーズを作った。ぜんぜん怖くねえ……。
「ははは、ごめん。……和花、寒くないか」
こくりとうなずく和花。
「ええ、お風呂入ったので平気ですよ、嬉しかったです、タライ。はしゃいじゃいました」
「そりゃよかった。ん、ちょっと早いけど俺たちも寝るか?」
「はい、そうしましょう」
ふと部屋の時計を見ると九時を回っていた。うなっている人がいる傍で動き回るのは、可哀想だろう。だがここで、見逃していた解決できていない問題がもたげてきた。座ったまま固まっている私を不思議そうに和花が眺めてくる。
「どうしました?」
「布団がない」大問題である。
私の布団の上ではジャージ姿のメリーが気持ちよさそうに寝息を立てていた。体の火照りは収まったようなのでそれは良かった。しかしどうするか。昨日は私だけだったので毛布を使うだけで全然問題なかったのだが、和花に寒い思いをさせるのはいただけない。
「あ、ほらあの、布団に余裕ありますし三人で寝ましょうよ、川の字になって」
「えっ、なんかそれは……」
「むー」うなるメリー。そのうめきは私が横に寝ることが嫌という抗議声明なのだろうか……。ささいに傷ついていると、メリーが布団の右端にころりと動いた。
「んー」メリーはぽむぽむ、と布団に空いたスペースを二回たたいた。
「ささ、メリーさんが待っていますよ。どうぞ、お先に」
「いや……和花だけ入んなよ」
「もう、風邪を引いたら困りますでしょ。毛布だけで寝ちゃうなんて、もうなしですから」
微妙に怒っている和花に急かされ、私は二人に挟まれて眠る格好となったのだが、当然のごとく、全く落ち着かない。目をつむっているのに、睡魔が襲ってこない。過ぎていく時間がやけに長く感じる。
こんな風に、一つの布団に多人数で入るなんてことが人生の中で一度もなかったからだろうか。人間が寄り添いあう体温が、ここまで温かいとは知らなかった。落ち着かないけれども、どこか安らぐような。春の陽気のように心をもみほぐしていく二人の体温が、私の身体に満ちていった。
……もう思い出すことのできない、あの子の体温はどうだったか。あの子は私の体温で安らいだのだろうか。
布団に入ってから何時間が経過したのだろうか。眠ろうとする意思と無意識の思考がぶつかり合って、なかなか寝入ることができない。体温以外は今でもはっきりと覚えているあの子。煩悶しながら私は寝返りをうった。そしておもむろに目を開く。
その時目に入ったのは、暗闇に潜む二つの点。その点は私の方をじーっと見据えている。暗がりに融ける髪の色は黒。和花だ。
「どうした?」
私は寝ているメリーを起こさないように、ささやき声で和花に話しかけた。
「んと、目がさえてしまって、なんだか眠れないんです。変な感じ。人間の近くで、こんな気持ちで眠ろうとしているなんて。人殺しの人形なのに、わたし、あなたの隣で寝ようとしているんです。……普通の人形とかぬいぐるみって、毎日こうしているんですかね」
小さなささやきは複雑な響きをもっていて、和花がどんな気持ちでいるのかを掴み取ることができない。混ざり合う感情を無理矢理ひとつの言葉にまとめようとしているような、そんなとまどいだろうか。そういった感情を吐き出せるようにしたのは私だが、私が手を加える前からモノは感情を持っている。記憶を、思い出を、過去を持っているのだ。
それを知ったのは随分昔のことだ。
では、それを知っている今の私は、とまどう和花になにができる。
着替えてなかったジーンズのポケットを探ると煙草が入っていた。そういえば今日はまだ吸っていなかった。携帯で時刻を確認する。午前三時。この時間ならば人通りはほぼ皆無といっていい。うん。注意深く行動すれば大丈夫だろう。
思い立ったが即行動。和花の手を取り、玄関に向かった。
「外に、行くのですか?」
「ああ。がっつり深夜だし、人に会う心配もない。ちょっとさ、散歩に行こう」
今日――というより昨日か。一日、ずっとメリーと行動していて思ったのだ。私の家にひとりで留守番している和花は外に出たくないのだろうかと。紫陽花から出ても、私の家でしか過ごせないとしたら、それは結局なにも変わっていないんじゃないかと。
行動を制限され、閉じ込められる窮屈さは、私も嫌というほど知っている。だから、せめて夜くらいは。
寒くないように和花に上着を着せてから玄関のドアを開けると、深夜独特の静けさが私の身体をなでた。目の前の柵に手をのせて辺りを観察する。期待通り、人っ子一人いない。開けっ放しの玄関で待機している和花に手で合図を送る。
ゆっくりと、和花が私の方へ近づいてきた。小さな歩幅で一歩一歩、そっと。その姿が、まるで和花と出会った時の自分のようでなんだか可笑しい。
「おお……」
私の隣で和花は夜空を見上げている。その口から感嘆の声が漏れた。この子はいま初めて、これを見ているのだ。やけに澄んだ星空。田舎住まいの特権。
「いいよな、これ。でもあんまり見てると首が痛くなるんだけど」
和花は慌てた様子で首を下げた。
「ううむ、これが星空。しかしこれは魅力的かつ狡猾な罠ですね、夜の散歩は危険がいっぱいということでしょうか……首の痛みに耐えながら、さながら訓練が如く闊歩するのですか。無事に帰れるのかいささか不安になってまいりましたよ」
「大げさすぎるって。歩きながらちょいちょい見ればいいんだよ」
私は和花の手を握った。
「動けるようになってから階段を上り下りするの、初めてだろ。外でこういうことするのは、ちょっと恥ずかしいかもしれないけど我慢してくれ」
「あ、はい。いえ、恥ずかしくはないですけど……」
和花はそういって私の顔を見たと思ったら、すぐに玄関のドアの方に顔を向けてしまった。な、なんだろう、『恥ずかしくないけど~、単純に嫌です☆』って内心では私のことを……。いい子世界選手権優勝候補者の和花に言われたら呪い抜きで昇天できちゃうかも☆
それから慎重に階段を下り、ふたりで夜道を歩いた。
和花は初めて自分の足で外を歩いていることに感動している様子。やはり、外に連れ出してみるという判断は好ましかったようだ。
しかし安心してもいられなかった。未知の世界への興奮のせいなのか、和花がなにもない場所で転んだ時には焦らざるを得なかった。地面激突の瞬間にジャケットをひっつかみ、なんとか鼻血がでる事態にはならずにすんだ。
ん……人形……血……。急激に胃のあたりがざわざわし、ひどい虫歯にかかった時のような頭痛が私を襲った。
「どうしました? お体、悪いのですか?」
私の顔を見上げてくる和花。
「いや、なんでもねえ、平気だ」
ともかく、このままでは和花がまた転びそうなため、階段以外でも手を繋いで行動することにした。和花の手にふれると、頭と胃の痛みがちょっとずつ引いていった。
カラン、コロン。カラン、コロン。
人気のない深夜の道では和花が歩くたびに鳴る下駄の音がよく聞こえた。
呪い殺してもらおうとしている当事者の立場で、こんなことを考えるのも変な話なのだが。もしも、和花の体に巣食う呪いを祓えるかなにかして、昼でも朝でもこの音を和花が鳴らせるようになれば。そうなればこの子は幸せなのだろうか。私の横を歩く和花の顔からは、深夜の散歩イベントに高揚している以上の情報を読み取ることができなかった。とりあえずいい気分転換にはなっているようだ。
そうして公園に到着した。双葉荘からそう遠くないここで私はくつろぐことが多い。規模も狭すぎず広すぎず、実に丁度いい。ブランコ、砂場、シーソーという定番の遊具たちが時間帯のせいでちょっとオカルトめな空気をかもし出している。風に揺れているだけのブランコに怯えていた頃を思い出した。
昼間は井戸端会議中の母親や、縦横無尽に走り回る子供たちが散見されるこの場所も、この時間では私と和花だけが存在していた。
和花をベンチに座らせ、その隣に座り煙草を口にくわえ火をともした。和花は道中で買ってあげた激甘コーヒーをちびちびと飲んでいる。
夜の空気に紫煙が混じり始めて少し経ったころ、唐突な言葉が隣からやってきた。
「あの、ずっと気になっていたんですけど。聞いてもいいのかもわかりませんけど」
声の方を見ると、コーヒーを両手に持って不安げな顔をしている和花がいた。私は、ふう、と煙を上空に吐き出して、
「気になることがあるなら、すっきりさした方がいい。なんでも聞いて」
「……あなたって……本当に殿方なのですか?」
「げはっ……」心に突き刺さるご質問ありがとうございます。「男っす」
「で、ですよね。ごめんなさい」
「いいよ、いいよ。にしてもなぜ俺の性別を疑ったんだ?」
「いやその、昨夜、わたしとくっつくのを恥ずかしがっておられたのに、さらりと手をつなぐのは……どこか不自然に思ったので、もしやと」
「そのもしやは無理あると思う……手はよくつないでたから。和花より小さい子とだけど、あ、もちろん俺も小さかった時にね。よく遊んだんだ」
「そうですか……あの、もう一ついいですか」
私はうなずいた。すると和花は三秒ほど悩んだ様子を見せてから話を始めた。
「……先ほど、表札を拝見したのですけど、あなたの名前がありませんでした。部屋のなかにもあなたの名前がありませんでした。……あなたの名前、お聞きすることはできないのでしょうか」
驚いた。が、出会って二日にもなって名乗らない不自然さは、ごまかしきれないのも当然だろう。私は名乗らずに済めばそれでよいと思っていた。これまでもそうしてきた。
「……聞いてもどうしようもないぜ」
「たとえこう、ほんのすこし穿った名前でも驚きませんから、ご心配なく」
「いやうん、そういう系統ではない。でも聞くと聞かないとじゃ、俺に対する和花の見る目が変わってしまうかもしれないって思うとな、情けないけど怖いんだ。だからあだ名をつけてよ、和花の好きな風に」
「わたしがあなたの名前を?」
「そう、俺がキミにつけたように。適当でも雑でもなんでもいいから」
「うーん……あ……お兄様!」
いきなりの妹属性付与に私は咳き込んだ。動揺をもろに顔にだし、煙草を落とした。穿っているのは和花の方ではないか! 急いで消火活動をして、携帯灰皿に吸殻を収納した。
「ああ……もしかして、昨日の俺とオヤジさんの会話、憶えてたのか……」
「いや、もうあれは憶えてない方がおかしいですよ。呪いを知ってなお触ってきたとき、本当にびっくりして……そのままおぶわれての直後のことでしたから。今日も平気で手を握ってきてくださいますし、他にも初めてのことばかりで」
ぎゅう、と缶コーヒーを握りしめている和花。スチール缶じゃなかったらつぶれてそうだ。溺れる者がつかむ藁のように缶を握りしめて、和花は言葉を続ける。
「ええと……その」
悪すぎるタイミングで携帯に着信。どうぞ、という和花の指示に従い、電話に出る。
『もしもし私、和花さんと一緒にベンチの裏の茂みに隠れなさい、早く』
早口で話してきた電話相手はメリーだった。
「メリー、なんというか空気を」
『いいから、早くしなさい』
メリーの言うとおり、腰くらいの高さがある茂みに姿勢を低くして隠れる。昼間ならば子供でも隠れられないほど葉っぱの隙間が空いている茂みなのだが、深夜かぎりのカモフラージュ率上昇により絶妙な潜伏場所になった。私も和花も暗い色の服を着ているので、80%は堅いだろう。
「上出来よ、二人とも。いいと言うまでそこにいなさい」
「のわっ」「メリーさん」
完璧なカモフラージュ率を誇っているとも言えなくはない黒ゴスを身につけたメリーが、私と和花の目の前に現れた。そのせいで腰が抜けそうになった。何度もテレポートを見ているのに、この時間帯に唐突に目撃すると、すこし肝が冷える。
そしてあたりに漂うのは、番頭さん事件のときに感じた嫌な雰囲気。
まさか一日一回この雰囲気と遭遇するとかそんなこと……。
「……紳士、昨日、やっかいな電話に出たでしょう」
私と和花は黙ってメリーを見つめる。
「いや、私のことでなく、やめて、その目線やめてちょうだい。あ……来るわよ、あなたたちは無言をつらぬくこと」
メリーは茂みから離れると、シーソーの方へ歩いて行った。
そしてシーソーの真ん中に仁王立ちしている。絶妙なバランスで立っているのかシーソーは全く動いていない。やってることは達人級だが、見た目は完全にただの不審者である。
ガチャリ、ガチャ、ガチャン。
ふいにどこかから聞こえてくる、鉄がこすれあうような音。耳をすませ、音源を目で探してみると、公園の入り口にそいつはいた。街灯に照らされている、銀色の西洋甲冑。鎧全体に施されている模様のデザインがやけに複雑で俗っぽい。腰には鞘に納められた剣を帯刀していた。コスプレにしては妙な真実味を帯びている謎の甲冑はなにかを探すように首を動かしながら公園を歩く。
和花に動く甲冑について聞いてみたいが、言葉を出そうにも、私は完全にあの動く甲冑の雰囲気にのまれてしまっていた。メリーに忠告されなくても、言葉を発することなどできないかったろう。
闇を歩む銀色の甲冑。
その様子は得物を狩ろうとするハンターに似ていた。あの腰にあるドデカい剣で叩ききられたら、痛みで悶え、すっぱりとは死ねないだろう。すっぱり派なら日本刀をオススメする。
甲冑がシーソーに近づく。メリーは依然仁王立ちのまま腕を組み、動こうともしていない。
という風に見えたのだが実際は違った。
私もとっさのことなので理解が追いつかなかったのだが、おそらく甲冑の隙間に鋏か何かをメリーお得意の魔法で食い込ませ、可動域をふさいだのだろう。甲冑は棒立ちのまま、動かなくなっていた。
ギシッ、ギシリ、ギシィ! 甲冑が身を必死によじらせる音が聞こえてくる。直前まで漂っていた風格がどこかにいってしまわれた。駄々をこねる子供のようにもがく甲冑がメリーに気付いた様子は全くない。『夜は影が薄い』というメリーの謎特性が発動しているようだ。私にはバッチリ見えているので姿を見せない相手をある程度指定できるのかもしれない。
「ほいほい、終わったわ。帰りましょ」
がさり、と音を立ててメリーが茂みに転移してきた。深夜の公園に突如現れた怪奇、銀の甲冑を行動不能にしておいてきながら、何食わぬ顔で私たちの元に戻ってきたので、私と和花の開いた口がふさがらない。たまらず私はメリーに質問する。
「え、あれ放置なの、大丈夫なの、ほのかに漂っていたシリアスっぽい雰囲気は?」
「シリアスなんてほっときなさいよ。私の睡眠時間の方が大事よ」
とんでもなく理不尽なことを言い始めた。この子、ねぼけているのか。
「紳士がどうしても気になるなら、朝になってから調べなさい、かなり面倒なことになるけど。でも……紳士なら丁度いいかもしれないわ、うん」
メリーは私の返事を待たず、一方的に得心がいったというふうにうなずいて、私と和花の肩に手を置いてきた。
次の瞬間には、もう私の部屋。靴下で畳を踏む感覚。ご親切に私と和花の履物は玄関に転移させてくれたようだ。
わたしと和花は手洗いうがいなどをすませ、六畳間に戻った。すると畳の上に寝転がっていたメリーが立ち上がり、
「紳士、携帯のプロフィールを交換しておきましょう。電話の相手が私だってわかった方がなにかと便利でしょ」
「いや……俺の電話相手なんてメリーしかいないようなもんだから別に」
「もう。いーから、女子のアドレスがひとつもない残念紳士へのプレゼントよ」
「…………とっとと交換しようか」
「いいなあ、ふたりだけ、ずるいなあ。はいてく」
布団にもぐりながら、ふて寝体勢に入った和花のつぶやきが聞こえてきた。