第3話 湯けむりと都市伝説
同居する話がまとまったところで、私は彼女に留守番を頼み、コンビニに電球を買いに行き、その足で銭湯へ向かった。紫陽花の深部を歩いた時に埃にまみれてしまったからと、彼女に「わたしの着物は洗うのに、あなたが遠慮してお風呂に行かないのは変です」と言われたからだ。そのありがたいお言葉に甘えることにしたが、暗い部屋に何時間も待たせるのは悪いのでサッと入ってサッと出ることにする。
双葉荘にはキッチンはあるが風呂はない。
だから必然的に双葉荘の住人は、『華の湯』の常連になる。
双葉荘から徒歩三分ほど。湯冷めの心配もない。
のれんをくぐり、男湯の方へ進んだ。古く歴史のある銭湯なので番台がある。なので当然番頭さんも存在する。脱衣所の入り口で私は風呂道具一式を突っ込んであるプラスチック製の桶に入れておいた小銭を番頭さんに渡す。
「へい、どうも。あんた、なぁんか普段より早くないかい?」
番頭さんは私より年上(あくまで私の推測)のお姉さんだ。黒い短髪とギラギラしたツリ目が特徴的。全身から姉御風を無意識に吹かす特性を持っている(あくまで私の主観)。
「ええ、今日は少し早めに……」
にんまりと笑う番頭さん。
「ああ! あんたにもついにコレができたのかい。もうこれじゃ隅に置いとけねぇな」
番頭さんはにやにやしながら小指を立てて、私に見せつける。
「ええっ! いや、ちが」
「うんうん。そら良いわ、あがったらフルーツ牛乳おごってやるよ。双葉の人らには内緒で」
腕を組んで爽やかに笑う番頭さん。
その爽やかさは全く見当はずれなのだが。いやしかしありがたいな……フルーツ牛乳はありがたいな! いやまて、待つんだ。釣られてはならない。ああ、でも美味しいだろうな。格別だろうなぁ。フルーツ牛乳……いや駄目だ! 彼女についての噂は極力立てない方がいい、我慢だ。何を隠そう、私は我慢強い男ランキングでも上位ランカーなのである。
「いや、違いますっ! 恋人なんていません! オゴラナクテいいです」
片言になった。
「えっ、ほら……だって、そのコンビニの袋って、そういうこと……だろ?」
なぜそこでほのかに顔を赤らめる。どういうことだよ。電球だよ。これは電球だよ。
「俺にできると思います? 俺ですよ。よく見てください、この身から間欠泉のように噴き出ている禍々しい負のオーラを……彼女できてハッピーな奴に見えますか」
番頭さんよ、とくと再確認するがよい。生誕から今日に至るまでずうっと春とは無縁な男の姿を。私は全身全霊の負のオーラを放ったが、番頭さんは意に介さず、
「……見えるね。なんかあんた、ちょっと目が違う。雰囲気っつーかな、なんか違う。恋人じゃないにしても良いこと。あったんじゃねぇか?」
そういって微笑んだ。目? 雰囲気? 自分ではそれらの変化に全然自覚がない。
「ま、深く詮索はせんよ。アタシの気分がいいから素直におごられとけ、お得意さん。ああ、電球、預かっといてやるからよこしな」
「あ。どうもすいません」
私は番頭さんに電球を渡す。はいよー、と和やかに番頭さんが受け取る。良い人だなあ。
「……いや、ちょ、待て、気づいてたんすか! 袋の中身!」
「たりめーだろ。ほれ、この袋スケスケじゃねーか。アンタをからかうのはアタシの趣味だ」
「趣味悪いっすよ!」
「知ってるよ。でもさ、辛いんだぜ言うの、アンタに恋人ができたなんてさ……嘘でも」
ええっ、番頭さん……。そんなまさか。いじらしい密かな恋心を私に対して……。
「「冗談だ」」私たちの声は寸分狂いなく重なった。
番頭さんの豪快な笑い声を背にして、私はとっとと脱衣所で服を脱ぎ、風呂に向かった。あの人は恐ろしい。あの短い会話の中で私の心が七転八倒以上したぞ。しかし、あれで一部に番頭さんの熱烈なファンも居るというのだから世の中わからない。
風呂から上がり、服を着た私が脱衣所の入り口に行くと、番頭さんに声をかけられた。まだなにか私をからかう材料があるのだろうか。
「そんな怯えた目になるなって。もう冗談は言わねぇよ、今日は。それはいいとして、あのさ、ひとり暮らしの人間が突然原因不明の死を遂げるって噂、もう知ってるか?」
「いや、聞いたことないですけど。怪談かなにかですか、それ」
番頭さんは腕を組んでしかめっ面になり、うーんと唸った。
「いや、アタシも詳しくは知らねぇんだけど、こないだお客さんから聞いたんだよ。ちょっと真剣に聞いてくれな。アンタにも無関係じゃないかもしれねぇ。
そのお客さんには病気にも無縁で健康だった友人がいたんだと。そのうえ人格者で、恨みを買うようなタイプでもない誠実な人だったらしい。
その友人と飲んだ次の日に、居酒屋で借りたお金を返すために友人の家に行ったら、玄関の鍵が開いてたんだ。それでお客さんは普段通り、断りもなく友人の部屋に入った……けど呼びかけても、返事がない。リビングにもトイレにもいない。念のためベランダも確認したけど、そこにもいない。お客さんは最後に寝室の扉を開いた。そしたら……つい昨日まで元気だった友人がベッドの上で血まみれの死体になっていた……って。
凶器も、傷もない死体だったから毒の線で捜査が進んだけど、それも無駄だった。体内からなにも検出されなかったんだ。事件性がなく、死因心臓麻痺として、謎が残されたまま捜査は終わった……これがアタシの聞いた話。けっこうゾッとするだろ」
不安げな顔で番頭さんが語った話。謎を残した結末は、まるで都市伝説のようだ。友達の友達、知人の知人など間接的に広まっていく怪談や伝承である都市伝説。お客さんから番頭さんを介して私へと伝わったこの話は、はたして本当なのだろうか。
「なんだっけ、死んだ友人の携帯には、非通知の着信が何件か入っていて、もしかしたら、マリーだかサリーだかの仕業かも……ってお客さん言ってたんだけど……わかるか? アタシはとんと、オカルトにはうとくてさあ……ロボットとかは好きなんだけど、あ!」
そういえば昨日のニュース見たか、どっかの会社がアンドロイドをさ……と熱い口調で脱線を始めた番頭さんの捕捉で、都市伝説度が強まった。お客さんが犯人だと疑ったのは、マリーでもましてやサリーでもない。
おそらく、メリーさんである。
捨てられた人形が自分を捨てた人間を恨んでつけ回す、とかそんな内容の怪異談だ。
メリーという名前の人形を捨てた人が、メリーと名乗る誰かに何度も電話をかけられ、近くの公園、マンションの玄関など、どんどんと近づいてきて、最後は……あなたの後ろにいる。と捨てたはずの人形に呟かれるというオチが一般的だ。しかし、話の中では友人は死んでいる。無傷かつ血まみれで。犯人がメリーさんだとしたら、どうやって殺したのだろう。
「……っとすまん、つい別の話に夢中になっちまった。つまりさ、アンタも一人暮らしだしさ、気をつけろよ、もし怖くなったらココにいつでも泊りに来いよな。アンタは昔からのお得意さんらしいし、じいちゃんもきっと喜ぶと思うから」
「そう……ですかね。じゃあ、なにかあったら駆けこませてもらいます」
確かに私は昔から華の湯に出入りしているが、じいちゃんの顔を最後に見たのはいつだったか。記憶の中にあるはずの顔は、過ぎた時間というモザイクに阻まれている。
「おうさ。帰り道寒いから湯冷めしないように寄り道すんなよ」
私は華の湯を去り、双葉荘に着いた。
部屋に入ると、なにかがゴソゴソと蠢く音がしていた。彼女がなにかしているのだろうか。
しかし室内にようく目を凝らしても彼女の姿はない。耳をすますと微かに水音が聞こえた。
ああ、トイレにいるのか。トイレが共同でないというのはすばらしいな、双葉荘。しかし、人形である彼女がなぜトイレにいるのだろう。そんな疑問を覚えつつ、私はキッチンの蛍光灯を点けた。白い光が明滅して安定した光源となる。
さて、冬は手洗いうがいをキチンとせねばなるまい。致死量の希望を手に入れるには健康に気を遣うのも重要だろう。そう呑気にかまえていた私の目に飛び込んできたのは、
シンクが肌色というなんとも奇怪な光景だった。私の脳の処理が追いつかない。私の記憶が正しければシンクというものは、くすんだ銀色をしているものだったが。
「おかえりなさい」
「シンクが喋った!?」
否、シンクには彼女が収まっていた。全裸で。どうしてこんなことに。
「ごめ、ごもごめんさい!」即座に私の脳の言語野が壊滅的ダメージを受けた。私は全速力で彼女の詰まるシンクとは反対の方向を向く。
「え、いや冷静に、わたし人形ですよ。自主的水洗いさせてもらっています」
謎素材で出来ている彼女の情報。水洗い可能←NEW! いやいやいやいやいや。
「そいっそ、そう、なの」
正直に断言しよう。私は彼女の体など二秒も見ていない。彼女の体と認識する前にことが発覚したのだ。私は決して入浴を覗いた破廉恥野郎ではない。
「カビ臭い着物脱いでもそのまま着たら、あなたの服に臭いがうつってしまうかと思って。楽しいですよ、水浴び。ものすごく冷たいけど」
朗らかに話す彼女。
楽しいと言っても脳裏に焼き付いている彼女の様子は、小柄なボディを体育座りフォームに変形させてシンクに収め、蛇口から水を垂らしていただけなのだが。丁寧にシンクを使ってくれたようで辺りに水が跳ねたりもしていなかった。……今度大きい金盥でも買ってあげたら喜ぶだろうか。
それから約十分後。突然の風呂騒動は厳密な協議の結果、明日より金盥風呂を導入(これには彼女の眼がさんさんと輝いた)、彼女の入浴中には私はトイレにこもるか出かけるという取り決めがなされ、なんとか無事に終息した。
部屋には新品の電球が人工の明かりをもたらしてくれている。
彼女はトレーナーとジャージに着替えて、タオルで髪を拭いていた。
「キミ……む」
いまさらと言えばいまさらなのだが。
「あのさ、キミって名前、あるの?」
彼女の髪を拭く手が止まる。
「ありません。わたしは誰にも可愛がられたこと、ありませんから」
地雷を踏んでしまったようだ。彼女の声のトーンがマリアナ海溝よりも深く沈んでいた。大切なぬいぐるみや人形に命名するという話は良く聞くが、彼女のように触ったものを殺してしまうとあれば名前をもらうのも不可能だったということか。
「……それじゃあ、俺がキミの名付け親になってもいい?」
コクリ、と彼女が首肯する。
「んー、……めちゃくちゃ安直でもかまわない?」
「はい。ポチでもタマでも」
「駄目だろ」
それでは同居人というよりペットになってしまう。
「大和撫子……着物……黒髪……」
「おお、安直というか斬新というか」
「違うって、特徴だよ、特徴。うーん、和装の女の子だから……和、わ、わ、のど、のど」
「のど」
「あ……和風で、花みたいに綺麗だから、和む花って書いて、和花とか、どう?」
「わ、わたしが綺麗というのには同意しかねますが……和花、ですか」
「嫌、かな? ネーミング、超苦手なんだよな」
「いえ……好き、です。それに名前を付けてくださったことに大きな意味があるのですよ」
彼女――和花は噛みしめるように言った。
「えへへ、はじめて。名前。大事にします」
和花は今日一番の満面の笑顔になった。そしてそのまま畳に転がり天井を眺め始めた。唇を観察すると、の・ど・か、と声に出さずに何度もつぶやいているのがわかった。どうやら本当に気に入ってくれたみたいだ。なんだか、こそばゆい気持ちになる。
モヨモヨした気持ちと格闘していると、机の上の携帯電話が振動し始めた。
「……俺の電話が鳴るとか……」
正確に言えば震えるだが。
「えーっ! 電話なのですか、それ。随分とちんまいですね」
「ちんまいけど色々できるぜ。音楽も聞けるしテレビも見れる」
「!! な、なんと……すこぶる面妖な……」
面妖日本代表に選ばれてもおかしくない呪いの人形をすこぶる戦慄させた携帯を手に取る。
ディスプレイには非通知着信の文字。非通知……番頭さんの話が私の頭をよぎった。すこし身構えて通話ボタンを押し、スピーカーを耳に当てる。