第9話 オメェ相手なら、男色にならないかもなァ
鍛え上げられていない肉体を酷使して、なんとか指定された時間より、五分早くアンダンテの従業員入口まで到着することができた。だが、まだ油断はできない。越坂部さんのことだ、「着替えるまでが時間制限だァ!」とか言ってくる可能性が残っている。
私は目の前のドアを開け、廊下を走り、休憩室に勢いよく滑り込んだ。
「早かったなァ。でも、着替えるまでが制限時間だぞォー。あと三ぷーん」
ザザアッと血の気が引く。
私の予想とテンションは違うものの、ほとんど同じ台詞をこともなげに越坂部さんが言った。片手で携帯をいじりながらの余裕な態度。それに対して、私には余裕も、猶予もない。こうして思考していることすら削減したいほど、無駄な時間は残されていない。油断していても、覚悟していても、自分の置かれた立場は悲しいほど変わらないのだ。
私は越坂部さんの言葉から逃げるように、更衣室まで走った。体力もそろそろ限界である。
細長いロッカーが列をなしている更衣室にはだれも居なかった。圧迫感のある無音と暗闇が、私の焦りを加速させる。
紙カバンから紺色の紙に包まれた物体を取り出す。そして、包装紙を丁寧に開封する。ここで焦って、クシャクシャになった制服を着て接客するわけにいかない。
そして緊張やら恐怖が心に湧いてくる中、紺色の包みを開けると、透明なビニールに包まれた制服の上下が姿を現した。まさにクリーニングから帰ってきたスーツのようだ。
まずい、ドキドキして、手の感覚が頼りなくなってきた。手の中身がゾワゾワとこそばゆい。まるで腕の中に小人がいて、そいつからくすぐられているみたいだ。頭が真っ白になり始める。越坂部さんは後三分と言っていた。ということは、残り一分ちょっとしか私に残された時間はないのでは。そう思うと、さらに気が動転してくる。定期試験中に、憶えていたはずのことを全く思い出せなくなったときに出てくる嫌な汗。それに似たものが全身から噴き出してきた。まるきりパニック状態だ。
急げ、急げ、はやく袖を通せ、時間がない、やばい、まずい。
いやまて、袖を通す前に今着ているものを脱がなければ、なにをやっているのだ私はっ!
ああもう、こんな状態になるのならば、いっそ着替えさせてもらった方がよかったか。
いやいやいや、そんな考えが出てくる時点で私はどうかしている。よし、上を脱いだぞ。
んで、上着を着て、よし。後は下っ!
とっととズボンを脱ぐっ! ベルトが煩わしい!
着替え終了……む、すごい、完璧だ!
私の体に物凄くジャストフィットしているっ!
御手洗さんの能力の精巧さに感銘を受けつつ、私は更衣室から飛び出した。
ゴールまであと五秒といったところ。間に合うか、もうアウトか、私にはもうわからない。
休憩室のドアを開け放つ、
視線の先には笑顔の越坂部さん。
ああ、やりきった、私は全身の力が抜けていくのを感じた。
脱力を感じたときには、体が崩れ落ち、ぺたんと尻餅をついたような格好になった。
「オォ、超似合うにあうッ!」
立ち上がり、椅子から離れた越坂部さんが、拍手をしながら私に近づいてくる。
私は疲労と脱力で、呼吸をすることしかできない。
息がまだ整わない。肩を上げ下げするのもつらい。
「ほんッと御手洗は相変わらず良い仕事をする奴だなァ。うんうん、一から十まで指示通り。ちょっとアレンジが加わってるが、それがまたいい」
満足げに私を観察してニヤニヤしている越坂部さん。
「あとはこれでパーフェクトだぞッ。制服に続いて、装飾品も特注なんてマジVIP待遇だな、ルリィ、至れり尽くせりだなァ、ルリィ」
越坂部さんはどんな装飾品を特注したというのだろうか。意味が分からない。制服以外に、なにか身に着けるべきものなんてあったっけ? それとも、私がいなくなっていた間に、新しく決められたものなのか。
「プレゼントォォォォフォーーーーユゥウウウウ!」
越坂部さんのシャウトに驚き、反射的に目を閉じると、
ふぁさっ、っと頭になにか柔らかい動物の毛のようなものが当たった。
おずおずと目を開ける私。
その毛は長く、私の肩に垂れ、胸まで届いている。キャラメルのように鮮やかな茶色で、つやつやとしている。
「なんですかねこれ……」
「見てわかんねェのか、ヅラだよヅラ、カ・ツ・ラ。お洒落に言うと、ウィッグな」
「は?」
「いや、は、じゃねェよ。お前、自分で着といて、そこまで似合っといて、その反応はおかしいだろゥ。やー、ずいぶん、男らしく潔くなったもんだなァと、感心したもんよ。百パー着ないと思ってしかけたドッキリだったんだが」
ドッキリ? ウィッグ? 潔く?
嫌な予感がした私は、ゆっくりと、自らの、下半身に、目を、向けた。
そこに、あったのは、黒い、布。ひらひらとした布、プリーツがある。
その先に、ふともも。ん? んんんっ?
「え、これっ!?」
声が裏返る。なんで、どうして! 履いた感覚はズボンだったのに! いや、執事なのに長ズボンじゃないなんておかしいよな! てかもう、色々おかしいぞ!
「いやー、年食ってまた違った感じになったなァ。ガキん頃は可愛い系だったが、今じゃ可憐系? 目指せんじゃねェかな。どっちにせよ、もらってきた制服がソレじゃあ、コッチじゃ働けねェってことわかるな? わかるよなァ?」
ずずいと、私の顔面スレスレまで越坂部さんのいかついスマイルが接近してきた。
「ちょちょ、ちょーっと待ってください、責任者に電話を掛けさせてください」
「責任者は、オ・レ、だが?」
なんか誇らしげにポーズ決めてふんぞり返ってやがるぞ、この店長。
「いや、喫茶店のじゃなく、制服屋さんです、御手洗さんにですっ!」
「あーいーつーに、電話してどうすんだよォ。無駄な抵抗は見苦しいぜ、ルリカァ」
私の隣に座り、肩を組んできた。
「ひっつきながらその名前で呼ばんでくださいませんか! 身の危険を感じます!」
「あー? なんで危険感じるんだよ、オレァそっちのケはネェぞ。あったら、お前とっくのとーにオレに喰われてんだろ、ん?」
そっちの意味じゃねえよ! ド変態が! という罵倒が出そうになるのを必死にこらえた。
「越坂部さんめっちゃパワフルじゃないですか! 肩組まれると、僕が逃げれないんですよ。それに暑苦しいです、もう、まじで離れてくれませんか、まじで」
必死に身じろぎしても、越坂部さんのガッツリホールドを攻略することができない。
「ウワァー、時の流れは残酷だなァ、おい。あれだけ子犬みてェに懐いていたルリがよ、いまや反抗期まっさかりたァー、涙でてくらァ……」
「とんでもなく棒読みだし、滅茶苦茶にやにやしてるように見えるのは、僕の脳みそがぶっ壊れちまったからですかね」
「そうじゃねェの?」
「皮肉だっつの! わかれよバーカ!」
「アハーッ、敬語じゃねェのって、ルリ子犬時代を思い出すなァ、シミジミくるぜェ」
だ、駄目だ、失礼をして怒られて、それで抜け出し、和花の様子を見に行くという作戦も失敗に終わった。なぜ私は精一杯怒った風にしても、本気で怒っていると受け取られないのだろう。番頭さんしかり、海尋しかり、越坂部さんしかり……。
「うし」
私の肩から腕を放し、越坂部さんが立ち上がった。スーツに付いた埃をはらう動作をして、
「じゃあ、そのカッコのまま、リベラメンテに行って来いよ」
不敵な笑みを浮かべて、私を見下ろす越坂部さん。
「な、なんでメイド服のまま外行かなくちゃいけないんですか……」
そう、私が着ているのは、女性ものの制服だった。極度の緊張状態で、注意力が散漫になっていたのが敗因だ。
「こっちより、あっちのほうが人手足りないもんでよ。それに、昨日近くで銀行強盗あったっていうじゃねェか。ちぃとばかり男手を増やした方がいいと思ったもんでな」
悪だくみしてそうな笑みは消え、硬い表情になる。若い男が殆どいない銀行で、実際に強盗に遭遇したので、私も表情が固まる。
「お前はよ、今のカッコじゃどっからどう見ても女の子だが、いざというときはな、ちゃんと男見せるってこと、オレァよく知ってっからよ。適任だろゥ」
「いや、そんなこと、わかりませんけど……。女装で外に出る意味もわかりません」
「いやいや。男のカッコで行ったら、逮捕されんぞォ。想像してみろ? 従業員通路に知らない男がいたら、ウチの危機管理能力が優秀な娘たちはすぐ通報するだろうさァ。けどよ、そのカッコならなんの問題もねェ。新人だと思われて、先輩から指示ももらえる。最高の労働環境が待ってるぜェ? ノドカの様子も見れるしなァ」
変態前科がつくのは勘弁願いたい――過失とはいえ、もうついている気もするが――し、和花の様子も気になる。そしてこの服ではアンダンテで労働することは不可能。向けられた信頼に応えるべきだという思いと、事情をなにも訊かずに和花を雇ってくれた恩に報いなければという気持ちが、私の中にはある。こうなるともはや、選択肢なんてものは、最初からないんじゃないか。
私は拳を握りしめた。こういうときこそ、覚悟が必要だ。
「わかりました……バレないかが不安ですけど、リベラ、行きます……」
喉がすごく乾いている。口の中が乾燥して、声が上手く出なかった。
「オォ! それでこそオレの相棒!」
サムズアップしてきたので、私も弱々しいサムズアップで応える。
「いつから相棒になったのか知りませんけどね」
「ったく、憎まれ口叩きやがってェ。素直じゃねぇなァ」
「僕は常に素直ですよ」
「……可愛いけど、可愛くなくなったな、オメェ」
越坂部さんはげんなりしている。
「可愛くなくて、全然、まったくもって結構です。むしろ、そっちが望ましい」
「ヌアァー……言葉少なの素直クールだったのになァ、いまじゃ生意気ツンデレかァ」
越坂部さんは顔に両手を当てて、天井を見ている。何世紀か前の絵画みたいなポーズだ。ニッチな喫茶店を経営しているからか、越坂部さんの口からはしばしば、というか割と頻繁にオタク用語が出てくる。私もここで働いていたので、その分野には明るい。
「誰がツンデレだ、誰が。てか僕がいつあなたにデレるっていうんです」
私は声を張り上げた。越坂部さんは腕を組む。
「ンー、いまオレに対しての好感度教えてくんねェ? それによって攻略フロチャ変わってくるだろ。正確なデレポイント割り出すには、現状を知らないとなァ」
うなりながら真剣な様子で考え込み始めたので、私の背筋が凍った。
「男にデレられる算段を、そんな顔して立てない方がいいと思いますよ」
「オメェが訊くからだろーが。訊かれたことには常に真剣に答える、それがオレのポリシィ」
「そうですか……てっきり会わない間に男色趣味になったのかと」
「ハッ……オメェ相手なら、男色にならないかもなァ」
沈黙。
そして重たい空気。
ふたりで数秒睨みあい、そして、ふっ、とどちらともなく笑い声をもらした。
「ククク、姿は変わってもルリはルリだなァ。オレに物怖じしない若い奴なんて、やっぱオメェくらいだ。久しぶりに会えて、スッゲエ、嬉しかったぜェ」
真正面から純度の高い好意の言葉をぶつけられると、頬が熱くなる。
「あ、いや、こっちこそ。なにも連絡しなくて、ごめんなさい」
越坂部さんの顔を直視できずに、私は床を見てしまう。良く磨かれていて、きれいだ。
「いいさァ、音信不通になるくらいだ。オメェ自身、なんかケリつけなきゃいけねェことでもあったんだろ」
ケリをつけること。それは本来、私が私を殺すことだった。
不思議な縁と友人たちに助けられて、私は別の形でケリをつけることができた。
そうして、いま越坂部さんと再会している。
胸になにかが渦巻いてきて、涙が、こぼれそうになってくる。
「ケリ、つきましたよ。お陰様で」
「そうかァ。そりゃ最高だな」
私の足に、高そうな、刺しゅう入りのハンカチが降ってきた。
「そいつは餞別だ、涙拭いたらいってこい」
そんなことをやさしい声で言われたら、ダムが決壊するに決まってるじゃないか。
おかげで、貰ったばかりの制服が濡れてしまった。
ああ、これだから、昔馴染みは、やっかいなのだ。