第5話 例外の素養と、恒久の安息
カラオケとボウリングをハシゴするという若々しい行為を通してわかったことは、確実に、翌日筋肉痛になるということ。つい先日、全身筋肉痛で入院したばかりだというのに少々、私は筋肉を痛めすぎているかもしれない。痛めても一向に太くならない腕は、自分が男らしく生きていくことの難しさを無言で、しかし雄弁に語る。
ボウリング場を後にすると、すっかり夜になっていた。
私たちは遊びの終わりに、骨董屋『紫陽花』に立ち寄ることにした。シャイニンガーが好きな青葉さんを見て、ひとつ思い出したことがあったのだ。きっと、彼女が喜ぶであろう情報だ。
紫陽花のドアを開けて、ほの暗い店内を覗き込むと、カウンターの中でオヤジさんが新聞を読みながら煙草をくゆらせていた。
「おう、兄ちゃん。こりゃまたえれぇ大所帯だな」
こちらに手を振るオヤジさんに私は笑顔で応じる。
「たぶん最高記録ですね」
「だな。まぁ、適当に見てけよ。掃除終わったから幾分か小ギレイだぜ」
「そいえば、あんま埃っぽくないっすね」
「はっは、ふだん売り物の管理にかまけてサボってっからなあ。返す言葉もねぇ」
店内に五人を案内する。紫陽花が繁盛している風に見える時が来るなんて。など冗談でも言ったら全力のげんこつが降ってきそうなので、早急に要件を告げることにする。
「オヤジさん、実はこの子がシャイニンガー好きらしくて、たしか、ありましたよね」
私がオヤジさんに話を通すと、倉庫の方へオヤジさんが歩いて行った。五分ほど待っていると、目当ての品をもってオヤジさんが私たちの傍へと帰ってきた。
「ほれ、これだろ」
「シャイニンガントレット……」
オヤジさんのフェロモンに吸い寄せられるかのように、ふらふらと青葉さんがオヤジさんの元に近づいていく。実際はフェロモンに吸い寄せられているのではなく、オヤジさんの腕の中にあるもの。シャイニンガーの腕に惹かれているのだが。
「触るか? あんまり買い手がつかねぇもんだから、カビてっかもしれねぇけど」
「こ、これ。どうして。非売品」
青葉さんはオヤジさんからガントレットを受け取り、しどろもどろに話す。
「それな、主役が爆発するシーンで使われて、バラバラになったスーツの一部なんだと。お得意さんにテレビ関係者がいてよ、それで貰ったってぇわけだ」
「すごい。第三十六話、暁に散る。そのときの」
すらすらと該当話数を言い当てる青葉さん。シャイニンガーへの愛が本格派だというのをより感じることができた。
「ああ、俺は詳しくねぇが、嬢ちゃんが言うんならそうだろうな。持ち方、扱い、どれとっても嬢ちゃんがソイツを特別に思ってることがわかるぜ」
「あの。いくら?」
青葉さんに問われ、オヤジさんは顎に手をやる。
「おお、買いてぇのか。んー……少なくともあの赤いのと同年代の子が買える値段じゃねえな。嬢ちゃん、学生だろ?」
私の隣にいる赤いのは、青葉さんを気遣うような目で見ている。しゅんとしながら、青葉さんがうなずく。ポソリと、私の家、という言葉が聞き取れた。
「バイト禁止……」
「あー……そりゃ……。ま、これまで誰も買わなかったんだ。嬢ちゃんが大人になっても俺の店がやってたら、そんときにゃ、ばっちし売ってやるよ。だから、んな寂しそうな顔、せんでもいい。な?」
オヤジさんはうなだれる青葉さんの頭を豪快になでる。けれど、その手つきは乱暴ではなく、温かい乱雑さが宿っているように見えた。
「……うん。おじさま、ありがとう」
青葉さんがオヤジさんを見上げる。
「おじさまっ? よせやい、ガラじゃねぇ。俺はただの商売人。ほんとに優しいおじさまなら、そいつを嬢ちゃんにプレゼントしてるさ」
オヤジさんが居心地の悪そうにバンダナを巻いた頭をさすっている。照れているオヤジさんを見れるなんて……これも言ったら殴られそうなのでやめておく。
用を終えた私たちは、もう少し夜が更けるまで紫陽花で時間をつぶすことにした。
女子メンバーたちは、民族チックな人形が置いてあるエリアでかしましあっているので、私は彫細工の美しい家具を眺めることにした。
いつか買いたいと思って目をつけている箪笥ちゃんがいるのだが、あの双葉荘の部屋にこれ以上家具を増やすと、生活エリアが狭まってしまって、あまり具合がよくない。ゆえに、いつもこうして僅かな逢瀬を交わしあっているだけなのだ。三人暮らしになったのだから、引っ越しも考えるべきだろうか。
「瑠璃さん」
私が瑠璃家の財政会議を脳内で開いていると、ふいに山吹くんに声をかけられる。
「おお、どした?」
山吹くんは私の隣まで来て、箪笥ちゃんに触れる。
「さすがにあの女の子ゾーンには居づらいっす」
「はは、そうだよなぁ。けど……いつもはどうしてるんだ? 他の男子メンバーとかいたりするの?」
「いません。ヒーロー部はここにいるので全メンバーです。まぁ、姫は気さく過ぎて緊張しないし、青は物静かで一緒にいて辛くないっすから。なんとかやってる……って感じです。なんとかっつーか、楽しくやってますけど」
へへ、と鼻の頭をかいて笑う山吹くんは、フランクな爽やかさを店内に振りまいている。男から見てもカッコいい造形の顔、体型、そして柔らかい人柄。
「モテそうだよな、山吹くん」
私が微笑むと、彼は顔をにわかに赤くして、顔の前で手を振った。
「いんや全然っす! それに、いまは保護者やったり、会計やったりもろもろでキャパが一杯で……第一、すきとかよくわかんねーっすもん」
男の子だなぁ、と思う。高校一年生でこんなにしっかりしているのだから、心の余裕が出来たら、もっと深みのある男の子になるに違いない。そうなったら姫宮か、青葉さんと交際したりもするのだろうか。恋愛。人を愛せない私には遠いおとぎ話。どぎまぎしている山吹くんを、私はどこか、物語の登場人物を俯瞰するような目で見てしまっていた。
「変なこと訊いて悪い。キミのペースで分かっていけばいいと思う。つっても、そういう人生経験が皆無な奴から言われても微妙か」
私が言うと、
「瑠璃さんは不思議っす」
山吹くんが真っ直ぐ私を見ながらいう。
「そ、そう?」
「男とは思えないっすよ、あ、もち良い意味っす。やっぱり大人だからっすかね……。ほら、青のこと、すごく自然に気ぃ遣ってくれるじゃないっすか。それが嬉しいんす。学校の男どもは、あの二人を見る目つき、なーんか粘っこいんで嫌なんですよ。ミエミエっつーか……」
粘着質のある目つきは過去に経験しているので、彼らの学校生活の様子がおぼろげに頭に浮かんだ。友達がそういう目で見られているのはスッとしない、そういうのもあるだろう。現に、私は和花が着物をタダでクリーニングしてもらうために写真を提供した時、似たような感情を覚えた。
キミの感情は嫉妬? 恋慕?
私の頭に浮かぶ熟語はどれもきっと正しくはない。
私は、そういう感情を表す言葉を知らないから。受理したことがなかったから。
小さい頃から大好きなアリスへの愛は、そういう愛かと問われて、私はうなずくのか。私の持っている愛とはなんなのだろう。やはり私は、歳だけとって、大人になりきれていない。脱皮しきれていない。捻じ曲がったまま、実に中途半端だ。けれど、
「どんなに粘ついた目で見られてもね、そうじゃない目で見てくれる人がいたら安心するもんだよ。俺も、ほら、曲がりなりにもアイドルだったからさ。まいった時もあって。そんなときに、優しい例外がいてくれるとホッとできたんだ。姫宮とか青葉さんも、そうなんじゃないかな」
逃げきることのできない視線が体に刺さっていた頃、私の心を癒したのはアリスだった、不思議軍団のみんなだった。その優しさに感謝する気持ちを愛というなら、私は彼らを愛しているんだと思う。
「優しい例外っすか……」
ふーむ、と息をついて腕を組んでいる山吹くん。
「俺、なれますかね?」
真面目な顔で訊く彼に、
「素養はあると思うよ」
私は彼の背中を叩いて応じた。私の言葉で真面目に悩む時点で、キミは充分優しい。
*
紫陽花でオヤジさんの手料理を御馳走になった私たちは丁重にお礼を言い、店を出た。
六人で道路を歩く。空は紺色。ぽつぽつと星が見える。人影は少なく、まるで動物が巣穴に潜って冬眠の準備を終えた後の森のよう。吐く息はすべからく真っ白になる。私は思う存分遊んだ充足感が体に満ちているのを確かめるように、ぐっ、と握り拳をつくった。
この、体が自然に浮ついてしまう気持ちを逃がしてしまわないように。
私たちは親睦を深める最終段階、銭湯をめざしていた。主に女子陣からの希望と、私の家に風呂がないことが合わさり生じた、本日のゴール地点である。ボウリングやカラオケの熱唱で汗をずいぶんかいていた私は今すぐにでもサッパリしたく、早足になる。
華の湯の暖簾をくぐり、入り口で男女が分別された。私は山吹くんと脱衣所へと進んでいく。分別先には、
「どもっす、番頭さん」
「おお! アンタか、いらっしゃい!」
恒星のような明るさを放つ番頭さんがいた。
「おっ、初見のお連れさんまで」
「こっ、こんばんは」
山吹くんが番頭さんの出現にとまどっている。ううむ、やはり男の子だ。
「こんばんはー、ゆっくりしてけよな」
なんだか番頭さんの様子が普段と違う。妙に上機嫌だ。なにしろ私に対しての開幕イジリがないし、いつもはギラギラとしているツリ目が鋭さを失くしていた。私は料金を渡しながら、番頭さんに話しかける。
「どしたんすか、なんか、違和感バリンバリンですよ」
「へっへへー。アタシは運を使い果たしたかもしれない……見ろっ!」
番頭さんは猫みたいに愛くるしい笑顔のまま、両手になにか紙をもって、私の目の前に突き出してきた。
「……試作アンドロイド発表イベント」紙はどうやら招待状のようだった。番頭さんが抽選に当たったことを知らせる記述と「武鎧重工主催、ですか」よく知っている名前が書いてあった。動揺を顔に出さないよう努める。
「すんげーだろー。ハズレてもいいやって応募したら当たったんだよなー。無欲の勝利ってやつかい。これのせいで年甲斐もなく朝からずっと上機嫌ってわけさ。まだまだガキだね、アタシ」
ふぅー、と満足げに溜息を吐く番頭さん。幸せ、と顔に書いてあるようにすら見える。
「そんでさ、アンタ、メルアド教えろよ。アンタには世話になったし……ほら、ここ以外でも会いたいっつーか、駄目か?」
急にしおらしい態度になった番頭さんが、招待状と入れ替わる様に、私に顔を近づけてくる。するどい目がにわかに潤んでいる。
「え、そ、そんな、なんで突然。ここで毎日話してるじゃないですか」
番頭さんの思いもよらぬコミュニケートに揺れる私の心。
「だぁーもー……察しわりぃな……アタシはさ、ただ…………あ、だーめだ。くくく、泣く演技しようにも、嬉しくって口がにやけちまって無理だーっはっは!」
屈託なく笑って、べしべしと私の頭を叩いてくる。
「そんなこったろうと思いましたよ!」
「瑠璃さんが手玉に……あ」
しまった、という風に山吹くんが口に手を当てた。番頭さんが唇を突きだす。
「アンタ、るりってんだ。つか何年も通ってくれてるアンタの名前知らねぇって……」
目をつむって眉間に皺を寄せる番頭さん。それは私が名乗らないようにしていたからである。けれど、死ぬことをやめ、過去と向き合うことを決めた今となっては、隠すことの不自然さの方が身に重たい。海尋にさえまだ、苗字も名前も教えていないのだ。今度会ったら話そう。
私は山吹くんに目配せで気にするな、という意思を伝え、
「いいじゃないですか、知れたんですから。大事なのはこれからっすよ」
笑って見せた。
「なんつーか、毒気抜けたな、アンタ。あの子らのおかげかい? あ、いま皆かなりキワド」
「「実況しなくていいです!」」
私と山吹くんの一秒のずれもないシンクロボイスである。
「あはは、嘘だっつーの。アタシがチケット見せびらかしてる間にそそくさ入ってったよ。わりぃな、ひきとめちまって。あの子らの方が風呂上がるの遅いだろうから時間調節してやろうと思ってよ」
「ほんとっすかそれ……」
私はがくりと肩を落とす。
「へへ、どうだろうな。っと、冗談は置いといて二人ともメル友になろーぜ。同年代のお客さん珍しいんだわ」
「たしかに常連さんは年配の人が多いっすもんね」
「うん。年上もいいけど、話合うのってやっぱ同年代なんだよ。大学じゃ男友達もなんでかできないし……ほんとなんでかね、女の子には困ってないんだがなぁ。アタシ性格が荒いからかなー」
番頭さんは男気と姉御肌が混然一体となったような人なので、女の子に好かれるのも納得である。逆に男はその気高い精神に気後れしてしまうのかもしれない。私は精神構造の事情が特殊なので、そんなことはない。山吹くんはしっかりモジモジしている。
私たち三人は携帯の電話帳を交換し合った。番頭さんの本名は、鷲崎華というようだ。強さと華やかさを兼ね備えている番頭さんらしい名前であった。
「っ……ふぅむ。そうかそうか、なるほど……」番頭さんは携帯を片手に、もう片方の手で自分の唇に親指を当てていた。「アドレスさんきゅ、瑠璃、山吹」そして私たちに笑いかける。
「はい、華さん」
「よ、よろしくっす」
私は本名を彼女に送った。華さんを信じていたから。この人なら、事実の先まで理解してくれるだろうと。その信頼はやはり正しかった。
「おう! じゃ、また風呂から上がったらな。骨の髄まで温まってこい」
私と山吹くんは華さんに送り出され、風呂に入った。
酷使した体に、お湯の温かさが浸透していく。
これだから冬場の銭湯はたまらない。凍りそうな体を一気に弛緩させてくれる。
私は緊張して鳥肌が立っていた腕をさする。もう、鳥肌は立っていない。
このお湯と、華さんの言葉は、いつだって安息を私にくれるのだ。