第15話 醒めない夢で目覚めた力
翌朝から、私の生活は激変した。
まず指示されたのは〝一人称の矯正〟だった。
僕、と言っても、俺、と言っても駄目。
当時まだ『僕』だった私は、『私』にならなくてはいけなかった。
女の子の服を着て、女の子の髪型にして、自室のおおきな姿見の前に立たされる。そして、
「わたし、私、わたし、私、私、わたし、わたし……」
ひたすら、呪文を唱える。何分も、何時間も。脳髄に刷り込んでいく。プリントする。決してボロをださないように、長男となった淨美の足を引っ張らないように。
『僕』を『私』に改編していく。女の子の服を着せられて、髪型を整えられた私は、どこからどう見ても、女の子だった。ゆえに、改編はスムーズに行われた。いや、行われてしまった。朝から夕方までつぶやき続けた私は、内心の声でさえ、『私』という一人称を使うようになっていたのである。この影響は現在にもつづき、治すことができていない。
淨美は髪をバッサリと切られ、ワンピースやドレスを着ることがなくなった。父の計画が実行に移されてから、妹はブラウスと短パンを着ていて、すっかり、私と入れ替わっていた。
私たち兄妹は、言葉を交わすことも少なくなり、別々の道を、この年にして歩き始めていることを共に感じていたと思う。持たざる者と持つ者が、正しい道を進んでいるんだと、小さいながらもわかっていたのだ。妹の目は、輝きを失くし、ころころとした笑い声を聞くこともなくなってしまった。
私は、勉学の代わりに、この年頃の女児が好むオモチャ、情報、ツールを与えられた。伸びきらない髪にウイッグを乗せて、その偽物の髪を結う練習をする。リボンを自在に結べるようになるには、久恵さんの指導がなければ不可能だっただろう。
髪をかきあげる仕草、笑い方、食事の時の料理の取り方、食べる量。同世代の女子よりも女子らしく、男子であった自分が塗り固められていく。女の子なら知っているであろう話題も、過去も、教え込まれた。
自分を改編する作業を繰り返す私が、唯一安らげたのが、久恵さんが以前のように接してくれる時だった。久恵さんはピアノがとても上手で、妹の代わりにピアノを弾いて以来、ピアノに興味を持っていた私は、久恵さんに教わったり、外出ができない暇つぶしに鍵盤を弾き続けた。
私は、まるでお城に幽閉されたおとぎ話の姫のようだった。未完成のまま外に出て、計画がバレると困ると言われ、私は屋敷の中だけで過ごすことを余儀なくされた。その一方、淨美は本社の見学などで外に頻繁に出かけていた。私は淨美が羨ましかった。男の子だった頃は毎日外を遊びまわっていた私の肌は、すっかり白くなり、中身も姿も、どんどん、どんどん女の子に近づいていく。
しだいに、私は恐怖を感じ始めた。ここまで頑張ってきたのに、もし、今度入学する小学校でバレたらどうなってしまうのだろう。毎日丁寧に手入れしていた髪を切られ、それでも学び続けている淨美の努力も泡のように消えてしまう。
「怖い、怖いよ、怖い怖い怖い……こわい、よぉ……」
私は失敗を恐れ続けた。毎日、眠ろうとするたびに、泣いた。久恵さんが傍にいてくれても、涙は止まらなかった。
私はだんだんと人を遠ざけるようになっていた。掃除係のメイドにも、にこやかな料理長にも、そして久恵さんにも私は恐怖を感じるようになっていた。常に誰かに見られ、女の子かどうか、採点されているのではないかと思い始めると、もう私は自室に籠ることしかできなくなっていた。
そして二か月が経った。
とうとうやってきてしまった小学校の入学式を、私は欠席した。父が、娘は病気で登校できる状態ではないといって、ごまかしたらしい。校長や担任の教師が父の手のモノらしく、私のことを女子として扱う準備は万端だと言われていた。
けど、それでも、私はただ、自分の部屋にいた。
部屋でぼーっとぬいぐるみを抱いているだけで、一日が終わることもあった。
食事をとらずに、倒れ、点滴を打たれたこともあった。
外には出られなかった。出ると失敗が待っているから。
私には自信がなかった。淨美と違って、才能のない私は、きっと計画を遂げられない。
精神年齢は、とっくに六歳児を越していた。人工的に形成された人格は、六歳の女児にしては、女すぎ、また大人すぎた。それものはずだ、私を指導しているのが十八歳の久恵さんなのだから、六歳になれるわけがない。
変に大人びた私は、このまま、この部屋の中だけで一生を終えれば、淨美を傷つけることもないと思い始めた。そう思うと、より一層、私の足は重たくなった。私の手は鈍くなった。ベッドでどこを見ることもなく、ただ虚空を見つめ、久恵さんに濡れタオルで体を拭かれる行為に恥も何も感じなくなった。『私』は、女の子なのだから、と。週に幾度か、無理矢理浴場に連れて行かれ、髪を手入れされることにも慣れ切っていた。『私』は女の子だから、髪を手入れされるのも当然なのだと。
入学式をスルーし、二か月。
女児用の服にも、女児用の部屋にも、女児用の話し言葉にも、すっかり適応していた頃。
かすかな自信を手に入れた私は、自室の近くの廊下なら出歩くことができるようになっていた。廊下の窓から恋しい外の風景を見る。すると、屋敷の門のところに人影が数人いることに気が付いた。ようく観察すると、それが何なのかわかった。
淨美が友達を屋敷に連れてきたのだ。何人もの女の子たちだ。淨美はもとから器量がよかったうえに男子として私と同じように教育されていたから、同年代のどんな男子よりも、男らしかったのだろう。父の交友関係は広い。幼稚園に通わせず、独自の教育を与えている武鎧家は、父のコミュニティのおかげで幼稚園に通わずとも十分すぎるほど他人と触れ合うことができる……ただし妹は、だが。目に入れても痛くないほど可愛かった妹は今、きちんと跡取りの弟となり、どこかの会社の社長令嬢たちをエスコートして、未来へつながる交友を紡いでいるのだ。たくさんの、友達。
友達、というものが、どんなものなのか知識では知っていた。けれど、私には友達がいなかった。窓一枚、ガラスを隔てた向こうの世界で笑う淨美は、友達を得て、笑っている。
私は自室に戻り、友達を実感できていないことを嘆いた。
しかし、嘆いても現状が変わらないことを悟っていた私は、久恵さんに頼んで買ってきてもらったテレビゲームで遊びはじめた。
数か月前、男の子であった自分が遊んだことのなかったテレビゲーム。女の子になってしまった私がこうして男の子らしい遊びをしていると、懐かしさというか、失っていたものを補填できるような気がしたのである。お気に入りの猫のぬいぐるみを自分の横に置いて、ゲームをし続けた。ヘッドフォンをして、気配を殺して、私はいないということをアピールする。どうか、どうか、淨美の友達が私に気が付きませんようにと。
「ここにいるのってだぁれ?」
祈りは届かなかった。コンコン、とノックの音がする。
「姉さんがいる。今は勉強してると思うから、いこう」
「そーなんだ。わかった、いこ、ジョウくん」
パタパタパタと廊下を走る音が聞こえて、私は深く息を吐いた。
ドア越しに聞こえた妹の話し方が、様変わりしていたことに打ちひしがれた。
本当に私たちは逆転しているんだということを、まざまざと思い知ってしまった。
私はコントローラーを床に置き、そのまま床に寝そべった。そのまま目を閉じた。
いまいる世界が、夢ならばいいのにと願いながら。
夢は醒めることを知らなかった。当然である。この現実は夢などではないから。
季節は夏になっていた。女性として生き始めてから半年。八月の厳しい日差しも、外に出られない私には関係なかった。
男から女に移行する教育もあらかた終わり、私は変化の乏しい毎日を過ごしていた。
六歳児には過ぎたおこずかいをもらうも、その使い道は限定されていた。家の中にいてもできるもの。そして、同年代の男の子がやっていそうなもの。ひとりでも退屈しないもの。ゲームにばかり、私はお金をつぎ込み、ひたすらに幻想や空想をむさぼり始めた。
髪は随分と伸びた。ウイッグを着けなくても地毛で女の子らしくなれるようになった。
自然に女らしい仕草をできるようにもなった。むしろ女らしい方が日常になっていた。
私は屋敷を探索するくらいには自信を持てるようになり、ドレスの裾をはためかせながら、屋敷を散歩することを日課にしていた。ゲーム以外にこれといった変化のない日々は、やはり退屈だった。自分もゲームのキャラクターたちのように魔法が、特別な力があれば、もっと面白いのに。そんな風に延々と夢想しながら、自分の生きる現実を歩いた。
屋敷をぐるぐると回り、応接間の前を通った時だった。
ガチャリ、と応接間の扉が開いて、見知らぬ誰かが部屋から出てきたのだ。
男とも女ともつかないその人は私をみて、にやりと笑い。
「可愛いらしいお嬢さんですね。まるでお人形さんみたいだ」
女とも男ともつかない中性的な声で、そう言った。初対面の人に、『お嬢さん』と言われたのは男女逆転計画が実行されてから初めてのことだった。なぜか私は顔が熱くなり、頬の赤みを中性的な人に見られないように、すぐにうつむいてしまった。
「ああ、その子は娘の瑠璃だよ。最近本当に女の子らしくなって、将来が楽しみだ」
父が応接間から出てきた。どうやらこの中性的な人と話していたらしい。
「瑠璃ちゃんですか。恥ずかしがり屋さんなのかな」
中性的な人は私の前でしゃがみ、目線を合わせようとしてきた。そのうえ、頭をそっと撫でてくる。その手の加減は明らかに女の子を労わる手つきで、私はおかしな充足感と安心を得てしまっていた。
「んー、もっと顔をよく見せて欲しいなぁ。なんだかね、インスピレーションが湧いてきそうなんだ。駄目かなぁ、瑠璃ちゃん」
ふにゃりと、人の中身すべてを柔らかくしてしまいそうな甘いささやき声に負けて、私は恐る恐る、顔を上げた。すると中性的な人は、にこりと笑い、じっと私を観察するように、顔を見つめ始めた。
「ふふ…………うん、決めた。決まった。恥ずかしがり屋な瑠璃ちゃんにとっても素敵な『お友達』を作ってあげよう。いいですか? 武鎧さん。といってもすでに作る気満々ですけど」
「かまわんよ。きみが一度その目になったら、止まらないことは知ってる。娘の『友達』を作ってやってくれ。どうにも引っ込み思案でね、この年でもまだ友達がいないんだ。娘の心の支えになるんなら一向にかまわんさ」
私は父の言葉に、痛みを感じながらも、『友達』という言葉に胸がときめいて仕様がなかった。『友達』を作るってどういうことなんだろう。私は胸の軋みに耐えかね、その場から走って逃げてしまった。
一目散に自室に駆け込み、ぬいぐるみの山にダイブした。綿や毛糸のもふりとした感触が私の身体を包み、『友達』への期待感を胸いっぱいに膨らませて、そのまま山の中で眠りに落ちていく。ご飯もいらないほどに、体全身で、今日はじめてあった他人に期待していたのである。ひとめで女の子と認識されたことも、今までの苦労や苦しみが報われたようで、とても嬉しかった。久方ぶりに幸せな気持ちで一日を終えられた。
それからの日々は、いまだ見ぬ『友達』を想像したり、どんな話をしようかを考えたりする時間が増えていった。年相応の感覚を取り戻した。友達。久恵さんは友達というよりお姉さんだから、本当にはじめて、私に友達ができるのだ。どうしよう。なにをしよう。それを思うだけで、幸せになれた。その子に聞かせてあげようと、ピアノの練習にも熱を入れた。今までは暇つぶしだったピアノも、目的が存在すると、上達の早さが段違いだった。その子のためのセットリストを作れるほどに演奏できる曲のバリエーションが拡大していく。久恵さんも熱心に指導してくれた。
そして季節をまたぎ、冬になった。窓から見える景色もすっかり一面、白く彩られていた。夜になると屋敷の庭にある巨木に施されたイルミネーションが、光り輝く。
クリスマスが近づいていたのだ。
『友達』を待ち続けていた私は、クリスマスになにかが起きるのではないかと期待していた。毎年、朝起きたら枕元にプレゼントが置いてある不思議な日。毎年増えた宝物。
私にとって『友達』というものはその宝物たちと同じだった。
きっと、今年のクリスマスは奇跡が起きると、信じた。
曇る窓に指で落書きを描きながら、その来る日を待った。
友達を迎える準備をしてきた私に死角はない、後は待つだけなのだ。
緊張で眠れない日々をやり過ごし、当日前夜がやってきた。
「久恵さん、今日ね、きっと今日、友達が来るんだ、楽しみで私、眠れないかもしれないよ」
ベッドにもぐりこみながら、すぐそばの椅子に座る久恵さんに話しかける。
「明日の朝が楽しみ……」
久恵さんの顔は見えなかった。電灯を消していたから。あの時、久恵さんはどんな顔をしていたのか、大学生になった今なら想像できる。だが、当時の私は眠りから覚めた後のことばかりを気にしていて、本当にそれだけを思っていた。夢想するうち意識がまどろみ、瞼が閉じられた。
翌朝。私が目を覚ますと、枕元ではなく、寝そべる隣に柔らかい感触があった。
「ん……」
久恵さんが寝ているのだろうかと思った私は、首を動かして隣にいる人の顔を確認する。
「……だれ?」
そこにいたのは久恵さんではなかった。
雪のような色の髪が陽光に照らされていた。仰向けに、目を閉じて寝ている、長い睫の女の子。頭にはカチューシャのように青いリボンを巻いていた。顔つきと背丈から、私と同い年くらいのようであった。
私の胸の鼓動が激しくなっていく、奇跡が起きたのだと、確信して。
「えっと……ねぇ、朝だよ。起きて、ご飯食べよ?」
私はどぎまぎしながら言葉を紡いだ。しかし、女の子は返事をしてくれず、目を覚ましてもくれなかった。
「あ、まだ眠いんだね、ごめんね……」
私は女の子を残して、料理長のところへ朝食をもらいに行った。二人分欲しいというと、料理長は快く用意してくれた。「友達ができたの」というと、「そうか」と料理長が笑ってくれた。いつもの笑顔とちょっとだけ違っていたのがすこし気になった。
パタパタと、廊下を走る。友達が、生まれて初めての友達ができたんだ。私は顔のゆるみを我慢できなかった。体中がむずむずして、なんともいえない幸せに包まれているような気持だった。
部屋に戻っても、彼女はまだベッドで寝ていた。ずいぶん寝坊助さんらしい。
私はソファに埋まり、ゲームをやって、彼女が起きるのを待つことにした。
何時間たっただろうか。窓から差し込む明かりはすっかりオレンジ色。
夕方になったというのに、彼女はまだ布団の中だ。いつになったら起きてくれるのだろう。
私が疑問を感じ、彼女を起こしに行こうとした時だった、
コンコン、とノックの音がして、私の部屋のドアが開いた。そして八月に出会った、あの中性的な人が微笑みながら、私の部屋に入ってきた。
「どうだい? 気に入ってくれたかな。瑠璃ちゃんの友達」
私は突然現れたその人に言葉をかけられず、ソファから動くこともできず、ただその人を見つめた。
「瑠璃ちゃんの名前からとってね、青いドレスを着せてあげたんだよ。目なんかはそのまま瑠璃色だしね」
「え……? どういうこと、ですか?」
「ん、聞いてなかったの? ボクはね『人形師』なんだ。お人形さんを作るのがお仕事なんだよ。あまりに瑠璃ちゃんがボクのイメージにぴったりだったから、久しぶりに本気を出しちゃった。人形だけど、姿形はもう、ほんと人間のまんまだよ、すごいでしょ?」
「人、形……?」
「これから末永く、『友達』として仲良くしてあげてね、それじゃ、ボクはそろそろ行かないといけないから。お手入れの仕方とかは漆原……そう、久恵さんだっけ、その人に教えておいたからね」
バタン、と部屋のドアが閉じられた。まだ、耳の中で人形師の声がこだましている。
手入れ、目が瑠璃色、姿形は人間のまんま。
あの人はなにを言っていたんだろう。
友達に手入れも何も、姿形も何も、『人間』なんだから、『友達』なんだから。
そんな言葉は必要ないし、関係ないんだよ。
私は、ベッドに近寄った。
――――息をしていない友達を、起こすために。
「ち、がうもんね。人形じゃないもんね」
なにをしようか、どんなことを話そうか、考えていた毎日。
「ねぇ、ほら、起きて、朝ごはん、いまからじゃ晩御飯になっちゃうけど」
私は友達の身体をゆすりながら、呼びかけ続ける。
「あ、あのね……私ね、ピアノが弾けるの、キミのためにね、練習したんだよ」
指が痛くなるまで、朝から日が暮れるまで、この覚えの悪い頭が覚えてくれるまで、
「がん、ばったの、ずっと、聞いて欲しかったんだ、待ってたんだ、ずっと……」
それだけを支えに、それだけを目標に、それだけを信じて、信じつづけていた。
「それだけ、だったの……私が、楽しかったこと……生きてた意味、も……」
六歳にして半端に精神年齢を高められた私が、ただキミのことでだけは年相応になれた。
「会いたかったの……初めての友達に……ねぇ、起きて、起きてよ……!」
憧れていた、『友達』という、私の生きる意味。
私は友達の手をぎゅうっと握った。その手に体温はなかった。
こんなの、おかしい。違う、絶対に違う。違う違う違う違う違う違う違う違うチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウ――ちがうよ、こんなの、ありえない。
私は零れ落ちている涙を乱暴にぬぐった。
認めない、やっと会えたのに、
「いまは動けないだけなんだよね、わかってる。ほんとはキミが『動ける』ってこと」
だってキミは、
「私の…………っ!」
ガリガリガリガリ、ガリガリガリガリ。
頭の中で何かの音がする。痛い、痛い、頭が熱い。
「なに……この音……いた、い」
片手でおでこをさする。頭の中身が、掻き回されているような、不気味な音。
不気味に響く音、けれど無音だった私の部屋で、その音はまるで福音のようにも聞こえた。
古い歯車が軋み合って、無理矢理に回っているような音がしだいに、綺麗な音になって、頭の痛みが治まるころには、私の手のひらに温もりが出現していた。それは決して、握り続けた私の体温ではなく、ついさっきまで息をしていなかった、彼女の体温だった。
閉じられていた、瞼が持ち上がり、彼女の瑠璃色の瞳があらわになった。
「あ…………おはよう」
私は目を覚ました彼女に声をかけた。
「ん……呼んでいたのは、あなたなのか。おぉ、声が出せる。布団……やわらかいな……わたしの身になにが?」
彼女は体の感覚を確認するように、上半身を起こして布団を握ったり、枕を叩いたりしている。
「……どうしてずっと寝てたの?」
私の問いかけに、彼女は動きを止めて、私をみた。
「寝てたとは? わたしは人形だぞ。本当ならこうして動く方がおかしいのだぞ」
私を訝しむように、形の良い唇にそっと手を当てながら彼女が語る。私が何も答えられずにいると、くくく、と彼女が声を押し殺して笑った。
「まぁいい! 動けることはいいことだ。どうやらあなたが瑠璃ちゃんなのかな、話はずっとお父さんに聞いてたからな!」
繊細そうな外見にまったく似合わない豪放磊落な喋り方、その反発する要素が見事に融合した女の子は、私の手を両手でひっつかむと、にへへ、と無邪気に笑った。私もつられて笑っていた。
「そうだ、早速わたしに名前をくれ! 名前を付けると愛着が増すらしいぞ」
らんらんと鼻歌を歌いながら、左右に体を揺らし私に名前をせがむ白髪の少女。
「えー……名前……」
友達の名前を考えるという作業は非常に難航するように思えたが、彼女の長い髪と頭にある青いリボンでなんとなく、かの有名な童話の少女が浮かんだ。
「アリス……とか」私のネーミングセンスはいつの時代も安直であった。
「えーっと……べつにわたし不思議な国とかいけないけど大丈夫か? 夢、こわれないか?」
本気で心配そうに彼女が私の顔を覗き込んできた。
「こ、壊れないよ! そんなに子供じゃないもん!」
そういいつつ、しっかり読んだことがある。あるというか、つい最近も読み返したばかりであった私は、変にムキになってしまった。誰かにこういう激しい感情をぶつけたのは初めてだった。心臓が、バクバクした。
「あははは! ごめん、型にハマってる深窓の令嬢って感じがして、からかいたくなって……まぁその、今日からわたしはアリスだ。よろしくな、瑠璃」
これが、私の初めての友達、アリスとの出会いだった。
そして同時に、私が超能力者として覚醒した瞬間でもあった。
アリスの活動は、私の周りの大人たちを驚かせた。大人たちといっても、久恵さんと料理長にしかアリスが動き出したことを知らせていない。アリスの手入れの仕方を聞いたはいいけれど照れくさくてできそうになかったし、料理を一食分増やしてもらう必要に迫られて、最低限な重要人物にはアリスについて説明することにしたのだ。二人とも寛容な心を持っていたのか、実際にアリスが動いていたのを見たからか、話はすんなり通った。
家族に対して私がはじめて手に入れた個人的秘密。それがアリスだった。
しかし秘密にしようにも、アリスはいささか元気でおてんばすぎた。
ある日、一緒にゲームをやっていた時のこと。
「るーりー、お屋敷ってこの部屋よりずっとずっと広いのだろう? 走り回ろうよ、一緒に。そう、鬼ごっことかさー」
私の隣でコントローラーをせわしなく操作しながら、アリスが言った。
「だめだよ、アリスが動いてるのを知ったら、お父さんがまたなにか言ってくるかも……」
「んー、わたしは大丈夫だと思うがねー。だって瑠璃の父とは一度も顔を合わせてないから、あちら様はわたしを人形だと思わんっ、この、このこのぉ!」
アリスの操作するキャラクターの粗ぶった攻撃を、私の自機がすべてスマートに防御する。ゲーム漬けの生活を送っていた私と、やり始めたばかりのアリスでは全くと言っていいほど勝負にならなかった。だから私はあえて手を抜いたりして、自分の勝率が七割を超えてしまわないように気をつけた。一度勝率十割を叩きだして、アリスを泣かしてしまってから反省しているのである。男であった頃の本能が生きているのか、女の子を泣かしてしまうと妙な罪悪感があった。
「いい考えだと思いますけれどねぇ。瑠璃様、このままですと私よりもスレンダーなガールになる可能性がなきにしもあらず。ちょっとここらで食い止めたいですわね、ここらでアリスちゃんに鍛えてもらってはいかがでしょうか」
私の部屋の掃除をしつつ、ちびっ子二人の対戦を観戦していた久恵さんが、わりかし真剣な調子で語った。
「うるしぃは良いことを言う! ふふ、そうと決まれば鍛えてやろうぞ。さぁさぁ、ゲームは終わりだ、いくぞ瑠璃!」
「えちょ、ちょっ!」
それから私は、強引に廊下に連れ出され広大な屋敷内を一日かけて一周する、武鎧家耐久マラソンをアリスの手によって行われ、三途リバーの一歩手前までいきかけた。庭師の人や、掃除係のメイドたちに見られないように機敏に、そして奇怪に走り回ったので通常の数倍は疲れてしまった。けれど、全力で走ることの楽しさを、久しぶりに味わうことができた。
「どうだ? 体動かすって楽しーだろ、なんせ、わたしが楽しかったからな」
掃除メイズ(掃除メイド軍団の愛称)が廊下を占領していたので、私とアリスは手近な部屋に隠れて、息を整えていた。
「ん、う、うん、楽しいけど、苦しー……」
私は床にヘたれこみながらアリスに返事をした。
「ふふ、わたしもだぞ、ちゃんと苦しい。これが人間の感覚なんだって、毎度感動してしまう。瑠璃には感謝してるよ、ほんとに」
「なんで私に感謝してるの?」
私が隣にしゃがむアリスに質問する。アリスの白い頬が赤く染まる様子は、雲一つない夕焼けのように美しくて、私は、つい見惚れてしまった。
「んー、まだ無自覚か。それならそれでいいさ。いつかちゃんと、瑠璃が瑠璃で気が付いてくれたら、そのときに礼をするから」
いつものように口に指を添えながら、アリスは微笑んだ。
「?」
「そう不思議そうな顔をするな、下手をすると私よりも乙女チックだからやめてくれ」
アリスは私が本当は男だということを知っている。私が友達に隠し事があるのは落ち着かなかったから、アリスが起きて三日目に打ち明けたからだ。ネタばらしをした瞬間のアリスが本気で腰を抜かしていたことに、私と久恵さんは声を合わせて笑った。もちろん、口外することは禁止とも伝えてある。伝えなくても、彼女は他人の秘密をばらすような人物ではないだろうが。
マラソンを実行してからは、アリスと屋敷内で遊ぶことが多くなった。一度かくれんぼをやってみたいと張り切っていたアリスに押される形で、久恵さんも含め三人で実行したが、小さい子供二人にはあまりにも屋敷が広大過ぎ、久恵さんを見つけることができなかった。当の久恵さんは屋根裏にいた。天井から首だけでてきたときには、私とアリスは二人して気を失った。
「いや、メイドとしてはですね、こう、瑠璃様を護衛するように仰せつかっておりますので屋敷のありとあらゆる通路、隠し部屋などは把握しているのですよ」
久恵さんはこう言っていたが、それはおそらくメイドの仕事の範疇を越えていた。
そうして平穏な日々が過ぎていき……女として再構築されてから二度目の四月を向かえた。小学一年生の時に学ぶべき学習内容は久恵さんからコツコツと教わっていたので、学業面での心配はなかった。それに、初対面の『人形師』と名乗る人から『お嬢さん』と思われていたのも私に自信をつけさせていた。
そしてついに、父から外出の許可を貰えるまでになったのである。