第14話 「私」の名前と、狂気の計画
白い光が晴れて、真っ先に感じたのは、季節外れの機械的冷風。次にとらえたのは、大量のパソコンが稼働する不規則なリズム。私が立っているのは現実世界の海尋の部屋だ。つまり、無事に帰還を果たしたということ。気が抜けた私は、冷え切ったフローリングにへたり込んだ。全身に疲労の波が押し寄せてくる。
「うっはぁ……ゲームキャラってよく何時間も全力で動けるよなぁ……」
今度ゲームをやる時はキャラクターを労わるようにしてあげよう。
「ほんとに体力ないんだな、きみは。ほら」
海尋がへたっている私の顔の前で胡坐をかいて、スポーツドリンクを手渡してきた。寒い部屋のせいなのかキンキンに冷たくなっている。私はへたり込んだ体を起こして、海尋の対面で胡坐をかき、もらったドリンクを一口飲んだ。
「……ふへぇ、あんがと。そうだ、これ例の」
ドリンクと交換に、私は工藤さんから預かっていたハンカチを海尋に届ける。海尋はそれを穏やかな笑みを浮かべて受け取り、そっとズボンのポケットにしまった。
「メリーさんと和花さんには……」
海尋は部屋の隅に配置されている冷蔵庫から白い紙箱を持ってきて、ふたりに渡した。あの箱のデザインを見るに、
「白鐘堂のケーキ。気に入ってくれるといいけど」
「あ、あの白鐘堂なの?」
メリーが箱をしげしげと眺める。白鐘堂とは洋菓子の老舗であり、毎日行列の絶えない名店である。白鐘堂のケーキは女子のハートを捕縛して魅了し、がんじがらめにする超絶品なのだ。
私たち四人は最初に通されたリビングに移動した。中心のテーブルを囲むように備え付けられているソファに座り、それぞれがくつろいでいる。
私から見て左側のメリーと和花は仲良く同じソファに座って白鐘堂のケーキに舌鼓を打っていた。きめの細かい生クリームを舌にのせた和花が、あまりに美味だったのか腰を抜かしソファから立ち上がれなくなり、コクの深い高級カカオを使用したチョコケーキを口にしたメリーは無言で涙を流しながらパタリと和花の膝に倒れこんで気絶した。
恐るべし、白鐘堂。
「男にはあんまり理解できない領域だな、あれは」私は思わず苦笑いする。
「きみって男だったのか……」
正面のソファにいる海尋が、驚愕の表情で読んでいた本を絨毯に落とした。
「おま……工藤さんと手を繋いでた俺に嫉妬しといて、なんで性別に気が付かねぇんだよ!」
「そこはほら、簡単にふれちゃいけないだろう。愛の形はそれぞれ違うんだから。それに、きみ、自分の名前、一向に名乗らないし。俺って名乗る女の子ってよくあるし。特殊な事情があるのかと思ってさ」
海尋は本をひょいと拾いながら私に弁解してきた。俺って名乗る女の子がよくある世界はきっと次元が違うと思われる。
「……お前が俺の名前きいたら散々馬鹿にしつつ吹き出すと思うから、ぜってえ名乗らねえ」
「ふぅーん、気になるからチョチョチョイと個人情報のハッキングでもしてみるかな……」
海尋は本を手放し、テーブルの下から白いノートパソコンを出して、いじり始めた。
「やめっ、最低だっ、才能の無駄遣いすんなよっ!」
私は急いで海尋に近寄るが、ノーパソの画面には某地雷避けゲームの上級レベルが映っているだけ。うわ、一桁タイムでこれをクリアとか……いやそうじゃなく。
「ぜーんぶジョークだよ、きみには感謝してるんだ。きみが名乗ってくれるのをおとなしく待つさ」
静かに言う海尋に私は何も言えなくなる。
「そうか……」
「ふふっ……なんかきみを弄るのって楽しいかもしれない」
にやりとイケメンスマイルを作る海尋。残念、私は男。そんな微笑みにはほだされない。
「きめぇ! こいつきめぇ! まぁじできめぇ!」
心の底からの嫌悪感を三連発だ、どうだ、どうだ傷つくがいい!
「罵倒のレパートリーがすくないんだね、かわいいね」
背筋にあられが降ってきたような寒気を感じた。
「きめえええええ!」
私の絶叫に応えるように海尋のパソコンの画面が変化し、栗色髪の少女が映し出される。少女のジト目は、あきれてものが言えないという様を余すことなく表現しており、
「海尋くん、気持ち悪い」
工藤さんの端的な言葉の剣は、海尋の胸に深く突き刺さったようで、イケメンスマイルはたちどころに崩れ去り、今にも泣き出しそうな顔になる。工藤さんはパソコンに接続されたイヤホンから私たちの会話を聞いていたらしい。
「さらばっ……」
海尋は一言残してふかふかのソファに埋まった。部屋の中で正常に活動しているのが、私と工藤さんだけという事態になっている。和花はケーキにメロメロであるし、メリーは夢の中から帰ってきていない。
「海尋君はすぐに調子こくから一発ガッツン、と言っちゃっていいからね!」
「いやあれは工藤さんだから効果があったんだと思うなぁ……」
みんなが正気に戻るまで工藤さんと他愛もない世間話をして、時間をつぶした。工藤さんは裁縫が趣味で、さっき海尋に渡した桃色のハンカチも彼女のお手製とのことだ。料理は苦手で勉強中だとか。海尋とピクニックに行く目標のために頑張る、とはりきっていた彼女の顔はとても朗らかで、眩しかった。
一時間ほど経って、例の金髪がもぞもぞと動き始めた。
「んぬ? 私はどこ、だれはここ?」
メリーが和花の膝枕から起き抜けに放った一言である。室内の空気が凍てついた。
「メリー……ベッタベタだな」
「メリーさんってベッタベタ」
「あたしでも言わないかも」
「足が、足が痺れました……」
四面楚歌の雰囲気に一瞬怖気づいたように体を震わせたが、すぐにいつものエレガント足組みの姿勢になり、夕暮れの港でひとり黄昏る水夫のようにメリーが言った。
「目覚めたら敵だらけ……白鐘堂のケーキは恐ろしいわね……」
恐ろしいのはチョコで気絶するメリーの方だろう、と全会一致の空気が漂ったが、誰も発言せず、メリーの言葉は島流しをくらった罪人のようにどこかに行ってしまった。
メリーの名誉が時間の経過とともにだんだんと回復し、私たちは夕食をとることになった。海尋はみてくれが良いだけでなく、料理の腕も抜群で、フランス料理のフルコースを味わうことができた。その味は絶品で、食べる前はぶつくさ文句を並べていたメリーが、一口食べた瞬間から、目の前の料理を胃に納めるためだけに生きているかのように、出された料理を食べつくしていったほどだ。かくいう私も夢中になって食べていた。工藤さんが料理を勉強したいと思うのも無理はないだろう。彼氏がこれでは下手な料理を出せない。
時間もだいぶ遅くなり、もう終電の時間も過ぎていて、日付が変わっていた。私たち五人は世界救済祝賀会をおひらきにすることにした。
「メリーさん大丈夫? 食べ過ぎたんじゃない? そんなに僕の料理がおいしかったなら素直に褒めてくれればいいのに」
ソファーに倒れこんでいたメリーが青い顔のまま、
「おいしかったわよ……海尋さん」
と初めて海尋を名前で呼びながら立ち上がった。
「次は中華がいいわ、思いっきり辛口で」
「了解、また今度ね」
海尋はメリーの傍により、微笑んだ。出会った当初はどうなることかと思ったが、なんだかんだで仲良くなれたみたいだ。
「茉子さんも、また会いましょうね」
『うん、もちろんだよ。みんなとまた会うのを楽しみにしてるよ!』
皿が所狭しに並べられたテーブルにちょこんと置かれているノーパソから、工藤さんの明るい声が聞こえる。ディスプレイには工藤さんと、工藤さんの部屋が映し出されていた。さっぱりした性格の工藤さんらしく、簡潔にまとめられた部屋で、一見すると几帳面な男子の部屋といった雰囲気も持っている。が、ベッドに倒れこんでいるドデカイ白熊のぬいぐるみは彼女が女の子だということを如実に表していた。
私と和花もそれぞれ家主たちにお礼と、次に会う約束を済ませ、装飾が煌びやかな廊下を歩いて、両開きの玄関までたどり着いた。つい数時間前に見た扉だというのに、ひどく懐かしい感じがした。
それもそうだ。夕食をとる少し前、私はこの世界ではなく海尋の創造した世界の中にいたのだから。
玄関まで見送りに来てくれた海尋と工藤さんにさよならをして、私たちは海尋家から出た。十二月の凍てつく空気が、私の気管を一気に冷やす。暖房で温められていた体が、みるみる冷たくなっていった。
「じゃーあ、帰りましょうか。紳士も連れてってあげるわ、電車ないし」
私の前でエレガンスにくるくる回りながらメリーがいう。
「サンキュー。連れて行ってくれなきゃ、むせび泣くところだった」
冬の深夜に一人で三駅分歩くのは、あまりにもわびしすぎる。
「あ、メリーさん、ちょっと待ってください」
和花がメリーに声をかけた。私は隣にいる和花の顔を、なぜか見ることができなかった。
「わたしとお兄様を、あの公園まで転移させてくれませんか」
その声は、真冬の空気より澄んでいて、
「とても大事な、話があるのです。お願いできますか?」
温度をごっそり失くしてしまったような、なにかを達観したかのような声だった。メリーも和花の今までにない様子に当惑するそぶりを見せながらも、すぐにあきれたような、ふてくされているような、何とも言えない笑顔になり、
「……早く帰ってくるのよ、ひとりだと……布団が寒いから」
私の右手と和花の左手を握った。ギュッと、強く、小さな手が私をつかんで、その手の感触が消えたのを脳が知る時、もう視界は近所の公園になっていた。私と和花は、互いに言葉を交わすこともなく、ただ、静かに公園のベンチに腰かけた。
この前と、同じように。けれど、あの時とは、おそらく決定的に違っている。
私は、ジーンズのポケットから煙草を取りだして咥え、火を点けた。ふぅ、と天に向けて息を吐くと、黒い空に白い煙が吸い込まれていった。和花は黙って、私の動きを真似するように、夜空を見上げている。空には満天と言わないまでも、かなりの数の星々が輝いていて、私たちを見下ろしていた。
「いまなら、わたしは、お兄様を葬ることができます」
「うん」
そんな気はしていた。ここ数日は、ずっと人間と関わることを極力避けていた私にとって、久方ぶりに心が大きく動いたり、多人数で食事をとったり、遊んだり、買い物に行ったり、空を飛んで人を助けたり、世界をひとつ救う手伝いもしたりと、色々ありすぎた。
一言であえていうなら、物凄く楽しかったのである。ほんとに。和花と出会ってから始まった日常の変化は私にとって刺激的で、どんどん私の身体を満たしていったのだ。新しい友達もできて、一人暮らしが三人暮らしになって、離れ離れになった後輩まで帰ってきた。
不思議なくらいに、私の日々は充実の一途をたどっていたのである。否定しようとしても、私の心は正直で、新鮮さと輝きを持った不可思議な出会いたちに、弾力を取り戻していた。
「失いたくないって、思えるようになってた。これが希望ってやつなのかな」
煙と一緒に、苦い言葉を吐き出す。
「そうです。そして、その失いたくない日常を人から奪っていくのが、わたしの呪いなのです。お兄様は……いまでも不幸が日常ですか?」
「いや、不幸じゃない、和花と会ってから楽しいことばかりだった。そりゃちょっと怖いこともあったり、大変なこともあったけど、今までの何もない毎日とは、何もかもが違ったよ」
「……では、今でも、お兄様は死にたいですか」
「…………そうだね。俺は、死なないといけないんだよ」
私は煙草を携帯灰皿に突っ込んだ。
「……死が娯楽、というのは嘘だったのでしょう?」
「うん、出会ってちょっとの女の子に、殺してもらって、そのうえ俺の過去を知ってもらうなんて、いらない荷物を背負わせすぎだろ? だから嘘、ついた。……人形に殺してもらうっていう選択肢があまりにハマり過ぎてね、まいった」
「その荷物、わたしに背負わせてくれませんか」
空に向かって話していた和花の声が、ふいに私の右耳を狙っていた。私は和花を見る。
「どうして?」
「二十年ぶりに人を殺すのです、わたしは。それも自分の意思で動けるようになって、最初の人殺しなんです。その記憶をしっかりと覚えておきたいのです。理由も聞けないまま、殺してしまうなんて、嫌です。それでは、動けるようになる前となにも変わりません。今のわたしは、あなたを背負うことができます。聞かせてください。あなたが死を考えるようになった、その訳を」
和花は必死の形相だった。改めて、ことの大きさを実感する。私は、命をひとつ、この子に背負わせようとしているのだ。ならば、散らす命の歴史を知る権利が彼女にはある。
「わかった、長くなるけど大丈夫か?」
「あたりまえです、わたしが聞きたいのですから」
硬い心とか決意がとろけてしまいそうな笑顔で、和花が言った。優しすぎる、この子は。
私の過去。
投げ捨ててきた、過去。
今も忘れることのできない過去。
それらを語るには、伝えるには、あれから明かさなければならない。
「海尋から聞いた話、あれ、覚えてるか? 現代における技術畑の最高峰である二社」
「はい、ヨーゼフ・ファクトリーと、武鎧重工ですね」
「流石、良い記憶力だな。俺はそこの跡取り息子だ」
和花の口がぽかりと開いて塞がらない。私はかまわず言葉を続ける。
「武鎧、瑠璃。画数と因縁のやたら多い、ろくでもない名前、それが俺の本名」
「ふえっ、いや、へっ、ええっ!?」
「そんな驚かんでも、正式には跡取りじゃないからさ。ハイテク好きの和花の期待には、応えられないよ。才能がなかったんだ、俺にはこれっぽっちも。アンドロイドを作ったり、警備用ロボットの機構を考えたり、その他会社を運営するための学問もろもろ……とね。武鎧の後を継ぐための能力がまったくなかったんだ」
「それで……お兄様は死にたい、と?」
「いいや、違う。会社を継ぐ全ての能力は、俺じゃない方に、あったから。年子の妹の方に」
「妹さんがいたのですか」
「うん、けど両親は、女に武鎧を継がせるとイメージが何たら、しきたりが何たらと言って……とんでもないことを、俺と妹に強制した」
私と妹が会社のためにと強制されたこと。
そこから、歯車が狂い始め、現在の私へとつながる。
私は記憶を過去に戻し、命の導き手である和花に語ることにした。
――――――二十年前。
武鎧重工の跡取りとして、長男が誕生した。それが、私、武鎧瑠璃だ。初めての子供が男子だったことに、両親はいたく喜んだらしいが、私は赤子の頃の記憶なんて持っていないので知る由もない。私には生まれた当初から武鎧を継ぐための英才教育がみっちりと行われた。
翌年に妹、浄美が誕生した。女性ということで、優秀な婿養子をもらうために、ピアノ、バイオリン、茶道、華道、護身用の武術などなど徹底した花嫁修業が妹には課せられた。
それぞれの英才教育が続けられて、数年が経った。
だが、両親の願いもむなしく、私たち兄妹は与えられた教育をまったく物にできなかったのである。連日講師を呼んで一日数十時間も勉強や実技に取り組んでも、花が開く様子は微塵もなかった。それでも両親は意地か信頼かわからないが、私たちに教育を与え続けた。
ある日のこと、新任講師の手違いで、私と妹が逆の授業を受けた。
私はピアノを演奏する楽しさを知り、妹は武鎧家の帝王学をみるみる吸収した。
新任講師は本来、罰せられる、つまり解雇されるはずだったが、夕食時に妹が「てーおーがくって、おもしろいね」と一言置き、今日一日で教えられたことをスラスラ暗唱したことで、両親の目つきが変わった。その時の顔は今でもはっきり覚えている。何年間も探し続けていた宝物を手に入れた、そんな欲望と羨望に満ちた顔だった。私には一度も向けられたことのない、『両親からの期待』、だと、幼い私にも理解することができた。
それは私が六歳、妹が五歳の時の出来事である。私が小学校に入学する二か月前。
妹の才能が開花した翌日、目が覚めると、私の部屋は一変していた。ふかふかのベッドから這い出て、私は自室を見渡す。ぬいぐるみや、ドールとその住居がそこかしこに並べられ、壁紙は青からピンクに、絨毯も暗い赤色になり、どう頑張って見ても、翌月小学校に入学する男子の部屋ではなくなっていたのである。
「わ、なんで?」
私は動揺を口に出しながら変化した自分の部屋を巡った。現在の私が住んでいる双葉荘の五倍ほどに広い部屋だったので、幼い身で巡ることがなかなか苦労だった。そして私は自室の探索をしていて、あるものを見つけた。それは、二十四時間前まで黒かったもの。そう、すっかり真っ赤になったランドセルである。
「……?」
誰かがペンキで塗装したんだろうかと考えた私は、ランドセルの表面を指でこすってみたが、革のツルツルした感触しかなく、べつにランドセルの周りが汚れているわけでもない。正真正銘、新品の赤いランドセルだった。私はその不思議なランドセルを持って部屋から出た。「お父さんに聞きにいけば、どうして赤くなったのかわかるかもしれない」と思ったからだ。この頃の私は、父親は全知全能だと妄信していた。
私は部屋からでて、丁度廊下の掃除をしていたメイドに話しかけた。
「ねぇ、お父さんどこかわかる?」
「あら瑠璃様、旦那様なら本日は終日予定がありませんので、お部屋にいらっしゃるかと」
「ありがとう!」
私は屋敷の中を走り、父の部屋に向かった。
「お父さん、ランドセルが赤いんだけどー……」
父はデスクで新聞を読んでいた。私の顔を見ず、父は言う。
「おお、瑠璃。明日からお前は女の子になるんだ」
「へ?」
「ちょうど名前も女の子みたいだろう。外見も女物を着れば問題ない。今日から髪を伸ばしなさい。伸びるまではウィッグをあげるからそれを着けるように。今日から勉強はしなくていい、その代わり、外出は禁止、わかったね」
父は読んでいた新聞をデスクに置くと、私を見て、ゾッとするような目で、
「淨美を長男として育てる。いいか瑠璃、お前は長女だ。女なんだ、いいね」
それは命令だった。優しそうな喋り方と裏腹に、父の声は反論を許さない語気をまとっていた。私は父の言葉を聞いて、何も言えなくなり、無言で父の部屋から出た。
とぼとぼと廊下を歩いていると、淨美が遠くの方から私に手を振ってきた。
「おにいちゃん! どうしたの。元気ない?」
私の顔色が相当悪かったのか、近づいてくるなり、私の心配をしてくる淨美。白いワンピースを着ていて、腰まで伸びた長い黒髪が、さらさらと窓からの風に流れている。
「きよ、お兄ちゃん、じゃないよ。明日から僕、お姉ちゃんになるんだって」
「どうして? 女の子だったの?」
「ううん、僕もよくわかんないけど、お父さんに言われたんだ」
「ふーん。あ! あのね、キヨミ、お父さんに呼ばれてるの!」
「そっか、じゃあ早くいかなきゃね」
「うんっ! またね、おにいちゃん」
ぶんぶんと手を振りながら、淨美は父の部屋に続く道を駆けて行った。
それが淨美の笑顔を見た、最後の記憶だった。
その日の夕食に、淨美は姿を見せなかった。
ひとり家族が欠けた夕食が終わり、私は、随分ファンシーになった部屋のベッドにいた。淨美のことがずっと気になっていた私は、就寝前にいつも本を読んでくれる世話係のメイド、久恵さんに聞くことにした。
「ねぇ、きよ、どうしたのかな……お腹すいてないかな」
「んー、すいてると思いますけど、女の子ですからね、強情にもなる時があります。ましてや、大事にしてらっしゃった御髪をバッサリ切られたとなれば、反抗期先取りもやむをえませんね……」
久恵さんは私に読み聞かせてくれていた小説を閉じて、難しい顔をした。
淨美が髪を切った。どうしてなのか、理由を私は知っていた。
「きよ、男の子になるんだよね」
「もうお聞きになられたのですね。そうです、『男女逆転計画』、とおっしゃっていましたよ。『瑠璃を完璧な女にするように』と命じられてしまいましたので、明日から私は、全力で瑠璃様を女の子にしなくてはいけなくなりました。ご覚悟を」
「勉強しなくていいってお父さん言ったのになぁ……」
「女の世界は甘くありませんからねぇ……」
うふふ、と久恵さんが微笑んで、ベッドの横にある電灯を消した。