第13話 次元を越える、桃色のハンカチ
校舎正面の玄関から校舎に入る。暴徒も、人間も居ない夜の校舎の空気は冷え切っていて、外気を防いでいるはずの壁がとても脆いものに思えた。
非常時なので私たちは土足のまま、校舎一階に突入する。
下駄箱をスルーしモルタルの床に踏み込むと、前には壁があり、左右には長い廊下が続いていた。電力がストップしているのか廊下の天井に備えられている蛍光灯が本来の役目をはたしていない。そのせいで廊下の奥が見えず、まるで紫陽花の倉庫のような陰湿な雰囲気が辺りに漂っていた。窓から差し込んでくる月光も妖しさをこれでもかと加味する役割を買って出ている。
「いやぁー……あたしこんな遅い時間の学校って初めてだけど、このやなカンジ。学校に七不思議のうわさが根付くのも納得かも。怖いけど……でも行くしかないよね!」
むん、と胸をはり意気込む工藤さん。さっき死の淵に立ったばかりだというのに、その恐怖を乗り越えようと自分を奮い立たす気丈な姿は、真っ暗な校舎の中でも光輝いているようである。
「紳士、とりあえず……七不思議、巡ってみましょうか? 理科室とか音楽室とかだとー、えっと動く人体模型&人食いピアノー?」
にへら、と私を見てメリーが嗜虐的に笑った。
「ハッ! 俺を怖がらせようとしたって無駄だぜっ!」
ビシリと全力のウインクを決める私。ごめんなさいちょっと怖いです。
「あはっ、お兄さんたら怖いって顔に出てるよ、だいじょぶ?」
「お兄様、お顔の汗が……足もふるえてますけど」
「怯懦紳士、かーわいい」
「いやほらあれ、走ったから、足はその、ちょっと寒くて、うん」
非現実を全肯定する私だが、それゆえに、幽霊が世界にいるのもありえる、と思っているので普通の人間より恐怖が増すのだ。しかたないのだ。なんとか二十歳まで幽霊を見ずに生きてこれたので、おそらく霊感はないのだろうけど。……こういうときにアイツが居てくれたらと、この場にいない人間を頼ろうとする前に、私は思考を前へ進めることにした。
「ほら、ゲーム的に考えるとさ、理科室とか音楽室って中ボスあたりが出てきそうな感じしないか? あくまで通過点というか、かませっていうか……」
「もし人体模型でてきても守らなくていいわね、ピアノが舌出してきてもオーケーなのね、かませくらい平気でしょ」
「よし、いこうか! 漣高校七不思議解明編の始まりだぜ!」
私たちは不安の種をつぶすために工藤さんの案内の元、学校の怪談めぐりを実行した。ウイルス感染源の手がかり、もしくは本人様に出会えるかもしれない非常に重要な調査だ。
「ふーむ。女子トイレって定番だよね。三番目だっけ? 三番目だよね!」
三階の女子トイレ前で元気ハツラツにはしゃぐ工藤さん。言うやいなやトイレに突入し、「だめー……ノックしても返事ないや。ただ鍵が壊れてるだけっぽいねー」
すぐさま戻ってきた。開かずのトイレ、クリア。次の場所に向かう。
やってきたのは音楽室。グランドピアノが検証ターゲットだ。
「弾いたら食われるピアノね……ってこのメンバーで弾ける人が居るのかしら」
和花も工藤さんも手を上げない。
「じゃあ紳士、テキトーに!」
「弾かねぇよ、笑顔でねだられても弾かねーよ。つか見ためで考えたら、キミが一番弾きそうだろ。ゴスロリ淑女なんだから楽器のふたつみっつ嗜んでたりしないのか?」
「お馬鹿紳士、罠に飛び込む愚かな淑女は地球上にいないわ。淑女を舐めないで!」
なぜか怒られ、結局勢いに流されるまま、私が罠にダイブすることになった。私はピアノのふたを持ち上げ、モノクロの色調が美しい、ヒンヤリとした鍵盤に指をおく。
「じゃ、テキトーに……」
私は演奏を始めた。物音ひとつなかった音楽室に、鍵盤楽器の音色が響く。
「おぉーっ、あたしこの曲聞いたことあるなぁ。なんかCMかな」
「ピアノって綺麗な音ですねぇ。体の中に自然と入ってくるみたいです」
「なんでまともに弾けるのよ……テキトーっていうか喫茶店で流れてても……あ」
「働いてたからな、ピアノのある喫茶店で。サービスの一環として弾いてたんだ」
「ぐぬ、さすが元執事……あなどってたわ」
「もと?」
「しつ、じ。ですか?」
一曲演奏し終えても一向にピアノが牙をむき私を食らうことはなく、メリーのいらぬ一言のせいで、工藤さんと和花に私が質問攻めを食らった格好になっただけで音楽室の調査は終わった。
私たちは音楽室からゾロゾロと廊下に出る。出鼻を二度もくじかれた私たちはすっかりテンションが急落していた。なおかつ私は、執事喫茶勤務の過去が女子二名にバレた件で、他のメンバーより気分が急降下している。
さて、問題の学校の七不思議はあと五つ残っている。だが、私は早くもことの真相に気が付いてしまった。
「あのさ、このゲームってあの非現実を全力で否定してる海尋が作ったんだぜ。七不思議って噂がこの高校にあるとしても、あいつがゲームにそういう要素を組み込むかね。七不思議なんて最初からないんじゃ?」
私の言葉に工藤さんがうなずく。
「そうだね。海尋くんオカルト真っ向から信じないからなぁ。それにあたしも幽霊なんて見たことないし。やっぱ噂は噂なのかな」
「なんでわざわざ七不思議を探しているのか、その意味がソコにあることをわかってないのね」
メリーが腰に手を当てて、自信ありげに私と工藤さんを見ながら言う。
「ウイルスってこの世界をおかしくしているんでしょ。だから、眼鏡がつくるはずのない要素、それが感染源なんじゃないかしら。だからここで怪談や不思議なことが本当に起きたら、私たちの不思議探索は報われるのよ。人体模型が動いたら、それ。妖怪が現れてもそれ。ほんと、至極、わかりやすいでしょ? ここだけは眼鏡を褒めてあげてもいいわ」
ということは、
「七不思議のどれか、もしくはそれに近いものと遭遇しなきゃこれは終わらないのか」
「そうなるわね。気が付いてなかったの?」
「いや、キミがただ俺をビビらせて存分に楽しんでるのかと思ってた」
「んな性悪じゃないわよ! こんな淑女をつかまえて馬鹿にして! 馬鹿にして!」
むきー、と髪を振り乱して怒りだしたメリーを適当にいさめながら、次の場所に移動する。
二階の隅っこ、ジメジメとした美術室だ。中に入ると、その広さに驚く。普通の教室三個分ほどの大きさで校内に幅を利かせていた。美術が好きな校長なのだろうか。
「美術室ってなんだったっけな。たしか絵が動くか、石膏が喋るとかそんなだったよ。あたしちょっとぐるっと回ってくるね」
工藤さんが美術室一周の旅に出てしまった。メリーは大きな黒板に興奮した様子で、なにか絵を描いていた。そんななか、私と和花だけが美術室にぽつんとなにをするでもなく立っている。すると、ふいに背中の方から、
「ねぇ、お兄様。動く石膏がロボットなら幾分か素敵ですよね。石膏ロボです、弱点は衝撃。得意技は石の上にも三年余裕の忍耐力。かっこいいですね」
私の背中にピッタリくっつきながら和花が言った。
「和花、実はこの状況怖かったりするだろ……」
私の腕をつかむ和花の手が震えている。私と和花で工事現場の振動を再現できそうだ。
「いいえっ。そんなことは。わたしが怖がるわけありませんよ。むしろわたしを怖がって欲しいくらいですね。七不思議たちはわたしに恐れおののくと良いのです」
「モナリザの視線を避けるために人を楯にするような女の子を怖がる人は、もうそれ国宝級のレア度だよ」
「深夜にあの絵は怖いよねー、あたしもゾクッとする」
言葉と裏腹にさっくりと美術室を一周してきた工藤さん。黒板にチョークで落書きしていたメリーも戻ってきた。なぜか知らんが淑女様は満足げである。
不思議は残り四個。
「はいここはとっておき! 理科室でーす! 昼見ても怖いスポットとして有名だよ」
今までの探索で何もなかったので、私たちはさっさと本命どころに向かうことにしたのだ。昼見ても怖いという工藤さんの言葉に偽りがないことは、部屋をぐるりと見回しただけで理解できる。
「うへ……ホルマリン漬けとか古びた骸骨とか人体模型とか……ここだけで七つの不思議をコンプできそうだな……」
「む……淀んでますね、空気」
「そうね、いよいよかしら」
和花とメリーが互いに顔を見合わせて確認を取っている。
その直後、
カタカタカタカタカタカタカタカタカタ。
薬品類が入っていそうな棚が揺れ、中に入っているフラスコやビーカーが、ガラス製品独特の音をたてはじめた。
「ポルターガイストで演出ね、粋なことするじゃない……早く出てきなさいよ、細菌さん」
メリーが啖呵を切ると、部屋中の実験器具たちが、かたっぱしから割れはじめた。ガラス片がどんどん部屋の床に積もっていく。これは怒っている? やはりウイルスに感情はあるのか。
「工藤さん、こっち!」
「う、うん!」
私はガラス製品が少ない個所を縫うように歩き、高い所から振ってくる細かな破片から、脱いだジャケットを傘のように使って工藤さんを守りつつ、理科室から廊下に避難させた。
「ここで待ってて、俺はもう一度中に入らないといけない」
「……気をつけてね」
「すぐ戻るさ」
私が再び理科室に入ると、この部屋にあった割れ物はすべてあますことなく割れていた。私は入り口の近くにあったロッカーを開ける。期待通り、モップが入っていた。校庭に置いてきた木刀と比べると貧弱だが、リーチはこっちの方がうえだ。私はモップを両手で持ち、メリーと和花の傍に行く。
「これを倒せばこの数時間の騒動も終わるはずだ。今までありがとな、ふたりとも」
「お礼は倒した後にしてちょうだい」
メリーは右手にマイハサミ、左手に庭師に貰った切れ味抜群の鋏を装備している。
「来ますよ……今までの薄気味悪さとは、違う、濃い匂いです」
理科室の不気味な二大模型。人体模型と骸骨の模型が黒く染まり始める。ウイルスが、オブジェクトとして配置されているものの性質を浸食によって変化させているのだろう。動かないものを動くようにするウイルスか。まるで、私のようだ。
すっかり黒色に染まりきった二体の模型が動き始める。ゆっくり、じっくりと、体に生まれた〝動く〟という力を噛みしめるように。人体模型の表面には光沢のない黒い肌が生まれ、両目だけがわずかに露出し、こちらをじっと見ていた。
元来くすんだ灰色をしていた骸骨の模型は、その身をすべて黒色にゆだね、手や足の先から爬虫類のような鋭い爪が生え、人間であれば犬歯があるはずの部分には下あごまで伸びる肉を抉るための牙が存在していた。食べるための道具ではなく、殺すための道具として。
「紳士は人体模型を、私はあのケダモノを。和花さんは紳士を守って」
「わかった!」「了解です!」
メリーの姿が消え、視界の端に骸骨に拳を浴びせるメリーが映った。
私は目だけで笑い、こちらをじっと見ている人体模型を睨む。三対二の劣勢した状況下で笑みを浮かべている人体模型。相当な自信があるようだ。
私は人体模型に走って近づき、
「うらぁっ!」
モップの柄で胴体を突く。しかし人体模型はその場にとどまり、微動だにしない。勢いをつけた一撃だったというのに、その衝撃がまるで最初からなかったことにされた。
私は反撃を恐れ、飛び退く。
「んなっ」
モップの柄の先端が、なくなっていた。人体模型に目をやると、腹に大きな口が開いていて、白く病的に健康的な色をした歯がモップの先端部分を咀嚼していた。
「物理吸収系かよ……てか……罪のないモップ君を食いやがったな……!」
私は先端が食べられてしまったモップ君を、素早く元の姿に修復する。部品が欠けているので、揃っている場合より集中力を要するが、仕方ない。私は直したモップ君を床に置き、
「和花! すこし人体模型さんに辛抱してもらう! あいつの腹に風穴を開けてくれ!」
「ガッテンです!」
和花は私と立ち替わるように、人体模型の正面に躍り出ると、右の拳に紫炎をまとわせ、大口を開けている模型の腹に、
「せやぁっ!」
拳を突っ込んだ。いやらしい目つきで和花を見る人体模型はなおも余裕の表情だ。それもそのはず、奴はこの先の自分の運命を知らないのだから。運命を知らない無知な彼は、いたいけな少女の細腕を咀嚼しようと歯を合わせるが、
「…………!」
当然、彼はその暴力の報いを受ける。わざわざ自ら飛び込んでしまったのだ。物質を塵へと変える、呪われた炎の中へ。歯はボロボロと崩れ落ち、理科室の床のガラス片と混じる。
「ごめんなさい、命かけてるので!」
和花は拳をさらに奥へと突き刺していく。
「ギャギャギャギャギャギャギャギャガガアガガガガ」
人でも動物でもない、なにかの声が人体模型の腹から漏れる。人体模型はあがき、黒い腕を自分の腹の中をまさぐる和花に振り下ろそうとする。
「ぐうっ!」
私は和花の隣まで走り、黒い拳を左腕で受け止めた。骨にひびく威力。私は歯を食いしばり、人体模型の胸を思い切り蹴った。仰向けに人体模型が倒れる。
「お兄様! 腕っ」
和花が私の腕に触れる。触れられたら痛いのだが、安心させるために笑ってみる。
「っ、へーきだ。ごめん、イヤな役回り押し付けて」
私は人体模型に馬乗りになり、顔色真っ黒の顔面を容赦なくげんこつで殴る。
ビクン、と痛みに人体模型が反応し、背筋が寒くなるほど嫌らしい眼が閉じられる。
「いまのは食われたモップ君のぶんな」
私はもう聞く相手の居ない説明をしながら、人体模型の顔に手のひらを乗せ、集中を開始した。普通の暴徒よりも深く、こびりついた油汚れのようにべっとりと染みついたウイルスを駆除していく。駆除をすませ、元の人体模型に戻し、後で治すと心の中で約束し、メリーの方へ向かうことにする。私の耳にはメリーの悲鳴が一度も届いていない。ということは無事なのは間違いない。視線を戦闘音が鳴りやんでいない方に視線を向けると、
「お兄さん!」
ガラリと入り口のドアが開き、
「海尋くんから! その骸骨は生け捕りにしてほしいって! できる?」
工藤さんが海尋からの指令を伝達してきた。私は骸骨と戦闘しているメリーに声をかける。
「メリー!」
「わかってるわよ! 生かさず殺さずってやつよね!」
ハサミで爪の攻撃をいなしていたメリーはゴシックスカートをひらめかせながら、骸骨の攻撃を避け始めた。
そして七回ほど避けられた所で、ついに痺れを切らしたのか、大ぶりな噛み付き攻撃を骸骨が実行した瞬間、そこに居たはずの魔法少女は消え、
「後ろよ、後ろ」
おきまりの常套句をつぶやくと、骸骨の四肢をダイヤモンド砥石使用の鋏で切断した。
体の支えを失った骸骨は落下し、うめき声をあげながら、床で虫のように蠢いている。
骸骨がメリーに敗北したのを見届けて、工藤さんが私たちの傍に駆けて来た。
『メリーさん、ありがとう。こいつは僕の方で色々調べさせてもらう』
床に転がっていた骸骨が青い光に包まれて消えていく。海尋がどこかに転送したのだろう。そして三十秒ほどの沈黙の後、
『……うん、こいつが感染源みたいだね。僕の方で破壊したタイプと同じ構造だ……ふぅ……みんなお疲れ様。戦いは終わりだよ』
海尋から終戦の知らせが告げられ、張りつめていた空気が解けた。
ウイルスの脅威にさらされた世界は、無事に守られたのだ。
私はウイルスの演出の犠牲になり、徹底的に壊された理科室の備品たちを根こそぎ修復してから、集合場所に向かうことにした。工藤さんは学校を回りたいというメリーの願いを笑顔で承諾し、メリーを引き連れて平和な漣高校を巡っている。それぞれ終わったら校庭に集合する予定だ。
和花は女子の中でひとり残り、私の作業を手伝ってくれている。
ちりとりと箒で散らばったフラスコやビーカーの破片をかき集め、机の上に置き、一つずつ形成していく地道な作業だ。超能力とはいえ、何時間も集中し続けてきた私はかなり体力を削られているのだが、私は、この子たちを見捨てて帰ることなどできない。集中を持続し、破壊されたみんなの体を元通りにしていく。
「お兄様、これであらかた集め終わりましたよ」
ガラガラガラと机の上に新たなガラス片が並べられる。
「ありがとう、かなり助かる」
声だけで和花に返事をして、私は黙々と作業を続ける。
三十分ほど作業を続けて、やっと最後の一つになった。私は最後のフラスコを治療して、和花と一緒に理科室を出た。夜の廊下を並んで歩く。私の靴の足音と、和花の下駄が発する軽妙な音がする。
「大活躍でしたね、お疲れ様です」
「いや和花たちがいたからで、俺は」
私は和花の顔を見る。すると彼女は、
「卑下しちゃいけません。わたしは一人じゃ殺すこと、壊すことしかできないのですよ。壊れた物を治せたり、わたしを動けるようにしてくれたお兄様がいたから、わたしはこの世に生まれて……初めて人を助けることができたんです。希望を集めなきゃいけないのはお兄様の方なのに、いけませんね、わたしが希望をもらってしまいました」
ふふふ、と静かな声で和花が笑う。
「和花……」
「呪いの人形に希望を与える殿方なんて、きっとあなたくらいですよ」
そう言って、和花はにんまりと笑い、長い髪をはためかせて、先に走って行ってしまった。
私はといえば、立ちどまり、彼女の言葉を受け止めることに、必死だった。
ただ殺してもらうためだけに、勝手に起こしてしまった彼女に、私が希望を与えた。
あの言葉は和花の口から出たやさしい嘘なのかもしれない。でもそれでも。
胸が苦しくてたまらなくなるほど、嬉しかった。
私が入ってきた玄関から校庭に出ると、すでに三人が集まっていた。私は校庭の真ん中に集まる三人に近寄る。
「待たせて悪い」
「ううん、あたしたちもさっき来たばっかりだよ」
「ねぇ紳士、ここから出るにはどうしたらいいの。もうやることは終わったでしょう」
メリーが私に問いかける。
「そうだな、もう……どした和花?」
メリーの隣に立つ和花の表情がとんでもなく暗くなっていた。どうしたのだろう。肩も落として、すっかり元気がない。
「うぅ……なごりおしや……はいてく世界ともお別れですか……」
「まぁ、そこは俺も気持ちわかるけど……ここは海尋と工藤さんの世界だ。邪魔ものが居座るわけにもいかねーだろ? 家に帰ったらゲームやろうぜ、地獄コンボ破ってやるよ」
「むむ! お兄様、それは挑戦状と認識してよろしいですね!」
「おうよ! とことんやろーぜ!」
「はい!」
私がそういって笑うと、和花も笑顔で返事をしてくれた。よかった、和花が元気でいてくれた方が、私は嬉しい。私が彼女の感情を出力できるようにした、ゆえに、その生まれ出でる感情が安らかで温かいものであってほしいと、どうしても願ってしまうのだ。これからも、すこやかに笑っていてくれるといい。そんなことを私は思った。我ながら色々物凄く矛盾している気はするが……。
「そんじゃ、帰るか。多分そろそろだと思うんだけど……」
「ひゃっ、わた、わたしの身体がスケスケ! じょ、成仏なのですか!」
「ちょ、紳士。いきはよいよい、帰りは浄土ってどういうことかしら!」
「死んでないのに成仏したらこえーよ。二人とも、心配すんな、それ現実に帰っていくサインみたいなもんだ。もうここに俺が治すべき対象がいないからな。一時的に増幅した超能力も、持続する必要がなくなった……って感じかね」
「あ、曖昧だねぇ……テキトーっていうか」
工藤さんが冷や汗を浮かべて、笑っている。
「そ、超能力なんてテキトーなんだよ。俺も師匠の受け売りだけど……。ハッキリ、キッパリは科学様や工学殿がやってくれるし、テキトーだから超能力、とか……まあ今回はそのテキトーが少しでも役に立ててよかった」
話している間も、私たちの身体はみるみる薄くなっていく。工藤さんだけがハッキリと大地を踏みしめていて、なんだか相反する私たちを表しているように見えた。現実と非現実。この場ではそれらが入り混じっているのだ。
「あっ! まって、あっちに帰るんだよね。どうしよ、うぅっと。あ、これ……」
せわしくスカートのポケットを探っていた工藤さんが、私に桃色の可愛らしいハンカチを渡してきた。女の子らしさが正方形に爆発しているようなハンカチだ。
「海尋くんに届けてほしいんだ。ただのハンカチだけど、眼鏡拭きに、って」
『たすかる、家宝にする』
「うひゃぁ! そだ、電話、繋ぎっぱ……へへ……眼鏡、拭きまくってね」
『……拭きまくるとも』
ふたりの声が互いにうわずっているが、これはきっと良い涙なのだ。ふたりとも未来を、希望を信じているから、互いに互いを信頼しているから。だからこそ、こういう涙を流せるのだ、きっと。このハンカチは二人の絆を具現化したものなのだろう。いかん、なんだこの気持ちは。モノと人間の真摯な愛は、私の心をギュウとわしずかむように大きく揺れ動かした。
「……工藤さん、そんじゃ、また画面越しに。これは、確かにあいつに届けるからな」
現実の人間が電脳に入ったなら、また逆もしかり。今、私につかまれば、工藤さんは超能力で現実に来ることができる。実体として。でも、そうしないのは工藤さんがひとえに海尋の可能性を、夢を願っているからだろう。なんて強さだ。世界を、次元を越える想いが成就することを、祈らずにはいられない。
「うん。ありがとね、お兄さん」
涙目で笑う工藤さんの肉声を聞いて、私の視界はホワイトアウトしていった。
私たちは私たちの世界に帰る。
現実を信じる異世界の天才青年を愛す、一途で気丈な少女を電脳世界に残して。